最近では、「電話は無駄、用件はメールで簡潔に」という考え方が根強くなってきた気がします。確かに、メールであれば相手の時間をとることもなく、伝える内容も文字の形で残るためいいことづくめのように思えます。
しかし、こういう経験はないでしょうか。
メールで用件だけを箇条書きで伝えたところ、怒っていると勘違いされた。もしくは、疲れているとか、落ち込んでいるとか心配されてしまった。
逆のパターンもあるでしょう。顔を合わせることなくメールだけでやりとりをしていて冷たい人だと思っていた人が、実際に話してみるとそうでもなかった。などなど。
要は、気持ちや人物像が間違って伝わっているわけです。
かといって、そうした誤解を避けるためにいろいろ書くと……今度は結局なにが言いたいのか分からないような文章になってしまう。
なぜこんなことが起こるのか?
結論から言えば、メールなどの書き言葉は、話の内容を伝えるのに便利な一方で、そこに込められた感情といった細かいニュアンスを伝えるのには向いていないのです。
例えば、「バカなことするなよ」という言葉一つとっても、会話の最中に笑いながら言うのと、文字にして送るのとでは、全く印象が変わってしまいます。また、仕事のメールのやりとりで「この案で進めたいと思います」という内容の文面をもらったとしても、それが乗り気なのかしぶしぶなのか、判断できなかったりします。
つまり、メールのような書き言葉のコミュニケーションだけでは、お互いに相手の気持ち・感情・熱を読み違える危険性があるのです。
ならば、話しましょう。
電話で、あるいは実際に会って。
実際問題、話すことでしか伝わらないことが確実にあるのです。とくに頼みにくいこと、言いにくいこととは、自分の口で話をするべき。内容を感情とともにやりとりして、誤解がないようにするべきなのです。
書き言葉は、誤解を生む。
これは、古代ギリシャの頃から警戒されてきたことでした。その代表的な例が、西洋哲学の祖・ソクラテス(アリストテレスの先生のそのまた先生です)。彼が生きたのは、筆記具などが整いだし、書き言葉が普及し始めた時代です。しかし、彼自身は何も著作を残しませんでした。
「自分の考えた本当のところは、対話を通してしか伝わらない。考えていることを書き言葉で残したところで、誤解されるだけだ」と考えたからだと言われています(彼が、書き言葉をいかに警戒していたかは、弟子のプラトンが書いた『パイドロス』という作品に記されています)。
そして、この「書き言葉で落ちてしまうもの」への警戒は、現在でも企業家、政治家などといった人々の間で強く意識されています。
大きな会社の新製品発表会では、その会社のトップがコンセプトなどを自分の口から説明するものですし、政治家も重要な場面では演説や記者会見を開いて話をします。話さないと伝わらない熱意や感情のニュアンスがあるからです。
だからこそ、繰り返しになりますが、他人を言葉で動かしたいのなら、直接話しましょう。相手の感情や熱を読み違えないために。自分の意見をもっとよく理解してもらうためにです。