最後に、これは筆者個人の感想にすぎないかもしれませんが、それでも、あえて書かせてもらうと、そもそも万事をメールのやりとりだけですますようなコミュニケーションの仕方は、誤解を生む云々以前に、人を幸せにはしないと思います。
本連載で繰り返し触れてきたように、弁論術の祖・アリストテレスは、相手を言葉で動かすための要素として、「内容の正しさ(=ロゴス)」の他に、「聞き手の感情(=パトス)」、「話し手の人柄(=エトス)」という二つを掲げました。
アリストテレスといえば、哲学者の中でも「ロジカルの鬼」であり「論理の天才」のような人物です。それでも、人と話をするのに「話の内容さえ正しければいい」とは言わず、ちゃんと聞き手の感情へのケアも視野に入れていた。
ここが彼の弁論術の素晴らしいところです。では、仮に論理と正しさだけで物事をすすめようとすれば、どうなるか。
感情に復讐されるのです。
人を説得する際に、論理と正論だけで聞き手の気持ちをねじ伏せたり、他人の感情的な意見を無内容な雑音のように扱っていれば、その抑圧された気持ちはどこかで爆発するもの。どんな反動に結びつくか分かりません。感情に理屈は通用しないのです。
結果としても、誰も幸せにならない。
そういった意味でも、感情込み、ニュアンス込みの話し言葉のコミュニケーションはないがしろにできない。そして、お互い、ときには感情的になるぐらいのほうが無理がない。そう筆者は思います。
※一年間続いてきた本連載も今回で最終回。ここまでお読みくださってきた読者の皆様に感謝して、筆をおきたいと思います。