先日、犬の散歩で近所を歩いていると、退院したそのおばあさんに偶然出会いました。しかし、私はおばあさんの姿を見て本当に驚きました。おばあさんはご自宅の庭の草取りをしていたのです。おばあさんのすぐ背後には車イスがあり、やはり後遺症で下半身が動かないおばあさんは、腕の力を使って自分で地面を這っていたのです。
麦わら帽子をかぶり、ペチャンとおしりと足を地面につけて一生懸命、黙々と草取りをしいるおばあさんに「こんにちは」と声を掛けると、顔を上げて「あら、尚ちゃん!!」と元気そうな笑顔を見せてくれました。一週間前に退院して、ようやく新しい生活のリズムに慣れてきたところだという近況を聞きました。
そして、私が「おばあさん、大丈夫?」と聞くと、「大丈夫、大丈夫」という言葉が返ってきました。そして、おばあさんはこう口にしましました。
「尚ちゃん、見て。庭にこんなに草が生えているの。入院中、ずっと気になっていたのよ。でもこうして草取りができて幸せだわ。あたしね、こうやって草取りするのが一番の幸せなの」と。私は、このおばあさんの言葉を聞いて、涙がでそうになりました。
人にはそれぞれの幸せがあり、その幸せを手にするため、誰もがその幸せに少しでも近づこうと、頑張って生きていると思います。例えば、美味しいものを好きなだけ食べたり飲んだり、好きなものを自由に買えるたり。まわりの人よりもいい生活をすることや、名声を得ること。その他にも、人の数だけ異なる幸せがあると思います。しかし、そんな中で「庭の草取りが幸せ」と答える方はどれくらいいるでしょうか?
おばあさんの言葉を聞いて、例に挙げたようなことが幸せだと思っていた私の幸せとは、結局は物事を自分の思い通りしたいという欲求であって、幸せではなかったということに気づかされました。おばあさんの幸せと比べて、自分が追い求めていた「幻想の幸せ」がどれだけちっぽけなもので、はかないものであったかということを痛感したのです。
おばあさんにとっては、静かに草取りをしながら、土に触り、風に吹かれ、太陽の光を浴び、無心になって時間を過ごすことが幸せだったのです。つまり、即物的な我欲を満たすのではなく、心を満たすことが幸せだと、私は気がついたのです。この限りのない幸せにおばあさんを通じて触れ、またしても感動して涙がでそうになりました。
私たち人間は、本当は何ひとつ当たり前のことなどない中で生きています。実は、今こうして生きていること自体、言葉では表現できないくらい素晴らしいことなのです。これを別の言い方では、「生かされている」と表現します。しかし、私たちはこの根本的な真実を忘れがちです。その結果、感覚が麻痺(まひ)してしまい、「幻想の幸せ」に囚われしまうのです。
おばあさんの草取りは、自然に触れることで、自分の「いのち」を振り返ることに繋がっています。その触れ合いの中で「生かされている」という真実を見つめ直し、おばあさんはその事実に幸せを感じているのです。
草取りもいいと思いますが、山に登ったり、川の水に触れてみたり、浜辺で海の波に触れてみたり、さまざまな方法で自然と接することは、自分の「いのち」を振り返る機会になります。その時きっと、「幻想の幸せ」ではなく、自分にとって本当に大切なものは何なのかを、心で感じ取ることができるのだと思います。