私には10年来の親友がいます。実は彼はアメリカ人です。名前はスコットといいます(本人に許可をもらっています)。出会ったきっかけは、私がアメリカで生活しているときに、共通の友人の家に食事に招かれたことでした。人好きで人懐っこい性格の私ですが、彼と出会うまでは、昔から本心や自分の悩みやなど本当にさらけ出せる相手というのは誰もいませんでした。私にとって、彼は菩薩さまのような人なのかもしれません(笑)。
私が帰国して数年が過ぎたとき、彼が日本語を勉強し、日本で仕事をするために来日することになりました。アメリカに一緒にいるときから日本に興味を持っていた彼でしたが、会話ができるほどの日本語力はありませんでした。
しかしスコットは来日するや否や、名古屋の大学で日本語を集中的に学ぶプログラムに参加。そこで約2年間みっちり日本語を勉強しました。今では夢を叶え、東京でプログラマーとして働いています。たまに休みがあると、山口や東京に来ては、私と会って飲み食いしながら時間を過ごしていたのですが、その度に驚かされたのは彼の日本語の上達の早さでした。みるみるうちに日本語を覚え、会話のスピードやイントネーションが、日本人と変わらないようになってきたのです。
彼を見ていて、やはり語学を学ぶには、その言語が生まれた場所へ赴(おもむ)き、テキストの勉強だけではなく、その言語が取り巻く環境に身を置くことが大事だと改めて思いました。特に日本語には、さまざまな日本の精神文化が浸透しています。実際に日本という国に住み、さまざまなものを観て感じなければ、日本語の奥深さはなかなか理解できず、日本独特の会話スピードやイントネーションも身に付かないものだと思います。
つい最近、そんな彼が日本国内を旅行したときのお土産を持ってきてくれました。そして、そのお土産を手渡されたとき、頭を下げながら「つまらないものですけど」という言葉を添えたのです。おそらく、まあ日本人がよく口にするひと言だと聞き流す方もいらっしゃるとお思いますが、この彼の言葉と姿勢がどれだけ驚くべきことなのか、分かる方はどれだけいるでしょうか?
西洋では、人に何か物を差し上げるとき、決して「つまらないものですけど」というような言葉を添えることはありません。もしそんなことをしたら、「つまらないものならなぜ人にあげるのか?」と怒って、突き返されるでしょう。英語に直訳してみると「bauble」(安っぽいもの)「chaff」(もみ殻)「rag」(ぼろ布)「waste」(廃棄物)というような英単語になります。このような言葉と一緒に物を頂いても、誰も嬉しいはずがありません。
ここで考えてみたいのは、はたして、私たち日本人は英語と同じ意味で「つまらないものですけど」という言葉を使用しているでしょうか? きっと首をかしげる方がほとんどだと思います。しかし、日頃から習慣としてよくこの言葉を口にする日本人であっても、なぜこのような言葉を添えて人に物を差し上げるのかを知っている方は、今日では少なくなっているような気がします。私自身、学生時代にスコットとは別のアメリカの友人から尋ねられるまで知りませんでした。
まず、理解しなければならないのは、「つまらないものですけど」というのは、人に差し上げる「物」を指しているのではないということです。この「つまらないもの」が指すのは、日頃「私」「あなた」が相手から受け取っている「手助け」「お世話」「親切心」のことなのです。このように自分を常日頃から支えてくれているものと比較すれば、差し上げようとする「物」などまったくたいしたものではないということで、「つまらないものですけど」という言葉が生まれるのです。先ほどの英訳の意味とは、ほど遠いものなのです。
ここには、共生(共に生かされている)という東洋独自のやわらかい受動的な精神が流れています。西洋では、このような受動的な感覚はあまりなく、表現もどちらかというと能動的かつストレートです。そんな感覚が漂う環境で生まれ育ったスコットが、「つまらいものですけど」という言葉を添えてお土産をくれたのです。私は心の底から驚かざるをえませんでした。