共生という言葉は、よく仏教用語として認識されていますが、実は仏教用語にはありません。しかし、この言葉が仏教思想から培われた理念であることは間違いないと思います。その代表的な思想が、「諸法無我」(しょほうむが)と「報恩」(ほうおん)です。「諸法無我」は、「諸々の法(ここでは「物事」を意味します)には我が無い」と読み、「すべての物事は繋がって存在しているのであって、独立した単体として存在するものはない」という意味です。そして、「報恩」とは、「恩に報いる」と読み、「仏・祖師・周りの人々から自らが受けた恩に報いる」という意味です。つまり、「共に(支えあって)生かされている」ということになるのです。この共生の精神が、私たちの頭を下げさせ、謙虚な気持ちを持たせ、私たち日本人に「つまらないものですけど」という言葉を口にさせるのではないでしょうか。
余談ですが、英語では主語というものがとても大事です。これがなければ文章が成り立ちません。ここにも「自分」というものを中心する西洋の能動的かつストレートな姿勢が見られます。しかし、日本語は如何でしょうか? 主語がなくても文章は成り立ちます。これは共生の精神による東洋の受動的な姿勢の現れでもあります。
何事も当たり前でもなく、どんなに自分の力だと思っていても、必ず目には見えないはたらきに支えられています。そんなことになかなか気がつけない私に、絶え間なく注いでいただいている優しさや親切心などのはたらきを思うと、自ずと謙虚な姿勢で頭を下げ、感謝をせざるをえないのです。
多くの日本人が表面的なものばかりに目を向けるようなり、「つまらないものですけど」という言葉を口では言いますが、その深意(真意)を理解する人々が少なくなってしまっているように思えます。形も色もなく、目には見えないものを感じ、その根底にある大切な教えに感謝する生活をすることが、日本の精神文化の基盤だったのかもしれません。