これ以降、私は何もする気がなくなった。世界でどんな事故や事件があり死者が出たというニュースがあろうが、何も思わなかった。Aが死んだことと比べれば何十人が死のうが心はざわめかなかった。
これを冷酷だと思う感覚を抱く方も多いだろうが、人間とはそういうものであろう。東日本大震災の後、ビートたけし氏は「週刊ポスト」のインタビューで以下のように語っていた。
〈本来「悲しみ」っていうのはすごく個人的なものだからね。被災地のインタビューを見たって、みんな最初に口をついて出てくるのは「妻が」「子供が」だろ。
一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことのほうがずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。
そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えてるんだから〉
(NEWSポストセブンより
https://www.news-postseven.com/archives/20140311_245075.html)
この文章は同氏の著書『ヒンシュクの達人』(小学館新書)にも収録されているが、今現在の私の死生観はここにある。もちろん亡くなった方への敬意はあるのだが、Aが死んだことには比べられない。とはいっても、大事な人を不慮の事故や自殺で失った人々の悲しみはよく理解できる。
Aが死んだ後、連日のように友人らが私を飲みに誘ってくれた。どうも「今、中川を一人にしたらあいつも自殺するかもしれない」という感覚で“交代制”のごとく誘い続けてくれていたようなのだ。
そんな中、私の34歳の誕生日である8月21日、Aの死後9日目に我々の行きつけだった東京・下北沢の焼き鳥屋に行った。一緒に行った2人はこの時に衝撃の事実を教えてくれた。
「オレ、高校の時姉貴がマンションから飛び降り自殺したんだ」
「私、大学時代、恋人が自殺したんだ」
2人とも「なんとかして止められなかったのか」と語り、その後悩み、苦しみ、自分を責め続けたという。だが、こうも言った。
「時間が経てばなんとかなる」
変な話だが「自殺されちゃった先輩」である2人の優しい言葉と先輩としての助言に私は店で泣いてしまった。なじみの店員はそのただならぬ様子を察してくれ、「Aちゃんは今日はいないの?」と言った。
Aが死んだことを伝え、さらには同行者の男性がこの日が私の誕生日であることを店員に伝えてくれた。すると彼女は店の外へ。
しばらくして戻ってきたら「はい」と渡されたのはカエルのおもちゃだった。
「Aちゃんも中川さんもカエル好きだもんね。お誕生日おめでとうございます」
こう言って渡してくれた。
その後も連日のように誰かが私を飲みに誘ってくれ、常に夜は忙しい状態になった。散々酒を飲み、気付いたら朝になっており、隣の布団には誰もいなかった。あれから12年、この原稿を書きながら当時を思い返すとともに、あれから自分がどうなったか、を考えてみると結論は一つしかない。
人は誰と出会うか、次第でしか道は拓けない。そしてその拓けた道をさらに進むためには行動するしかない。
これである。今、自分はこれまで知り合った方々、そしてこうして拙文を読んでくださる読者の皆様のお陰で生き長らえている。Aを失うことにより、人に感謝するようになったし、日々の出会いのありがたさを噛みしめている。こうして原稿を世の中に出せる人間になった姿をAに見せたかったし、イベントでトークをしている晴れ姿をAに見せたかった。
しかし亡くなった人間はもう戻ってこない。1000万円払うから1時間だけでもAに会いたいと何度も思った。最後の15分はとんでもなく悲しくなるだろうから、もう1000万円払って1時間延長してもいい。そんな風に思った。
出会う人全員に対してこう思うことはない。だが、出会った中にはすでに亡くなった方も多くおり、そうした人々に会えるのならばお金を払ってでも会いたいと思う。
出会った人々は貴重な存在だ。Aが死んだ後、この思いは確固たるものになった。人は他人によって生かされているし、楽しみを与えてもらえる。さらには、もっとも大切な人は徹底的に大切にしなくてはいけない。これはAが死んでやっとわかったことだ。そこまで自分は未熟な人間なのである。Aの命をもってしてようやくわかったというのは愚かである。
半年間の連載、お読みいただきまして本当にありがとうございました。