書籍市場の戦前のエポックは、以前にも触れた『円本』であった。経営危機に瀕した改造社が、乾坤一擲(けんこんいってき)、社運をかけて放った『現代日本文学全集』が口火を切った円本ブームは、出版界を一時活気づけた。昭和初期のことである。円本の名の由来は一冊一円だったからであり、基本システムは全巻予約販売、委託販売制度であった。日本の書籍市場に、委託販売制度が大々的に導入されたのは「円本」からだといわれている。
『現代日本文学全集』は改造社の窮地を救ったのみならず、そのよしあしはともかく書籍市場を大きく拡大する役割も果たした。その結果、多くの作家の暮らし向きも一気に改善されたという。
岩波書店の岩波茂雄が、円本ブームに対抗して『岩波文庫』を創刊したことは、以前に述べたとおりである。改造社の成功により『円本』市場には各社が参入する。『世界文学全集』を新潮社が、『明治大正文学全集』を戦前の大手である春陽堂が、『現代大衆文学全集』を平凡社が、そして少し遅れて小学館が『現代ユウモア全集』を出す。
しかし、委託販売制度のマイナス面もその5年後には顕著に表れた。大量の返品が発生したのである。委託販売制度の普及は、書籍市場を拡大した一方で、出版社の経営をさらに見通しの悪いもの、すなわち水商売へと誘ったのである。
戦前のエポックが『円本』なら、戦後のエポックは『日米会話手帳』であろう。『日米会話手帳』は戦後も戦後、終戦直後に登場した。誠文堂新光社の社長、小川菊松は疎開先で玉音放送を聞き、これからは英語だと確信した。その日のうちに社へ戻ると企画を固め、約一ヵ月後にわずか32ページの小冊子のような『日米会話手帳』を発行した。この本は、菊松の目論見どおり爆発的に売れた。
しかし、あまりの売れ行きに紙が足りない。終戦直後の物不足の中、自社では紙の確保ができないため、菊松は思い切った手を打つ。懇意にしている全国の書店に紙型(しけい・鉛を流し込んで印刷版をつくるための紙の凹版、今日でいえば印刷用のデータ)を送り、現地で印刷してもらったのである。この奇策も奏功して『日米会話手帳』は、わずか3ヶ月間で360万部というとんでもない記録をたたき出す。しかし、空前のベストセラーとなった『日米会話手帳』は、その年の暮れに発行を終了する。類書が出てきたことと、紙がないことがその理由だった。