ビジネス書業界の裏話

知られざる過去のベストセラー

2016.12.08 公式 ビジネス書業界の裏話 第21回
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戦前戦後ベストセラー外史

今秋、『ベストセラー』という映画が公開された。夭逝(ようせい)した戦前の米国人作家、トーマス・ウルフを見出し、彼を世に出したパーキンズという編集者の物語である。トーマス・ウルフの名は、同時代のフィッツジェラルド(『華麗なるギャツビー』の作家)や、ヘミングウエイ(『老人と海』『誰がために鐘は鳴る』などの作家)に比べると、日本人にはややなじみが薄い。しかし、間違いなく当時のアメリカで一世を風靡したベストセラー作家だったのである。

ある時代のベストセラー作家、流行作家であっても、必ずしも彼らが後世に名を残すとは限らない。それは日本でも同様である。戦前に『地上』を発表した島田清次郎は、日本で一世を風靡した当時の大ベストセラー作家であった。その余熱は戦後もしばらくの間は残り、『地上』は映画にもなったが、今日、島田清次郎の名を知る人は極めて少ない。

日露戦争後、戦記文学の金字塔となった『肉弾』を書いた軍人作家、櫻井忠温(退役時は陸軍少将)の名や、同じく日本海海戦のことを書いた『此一戦』の作家、広瀬広徳(退役時は海軍大佐)の名を知る人も、現在ではまれである。彼らは、森鴎外や夏目漱石よりも世間の注目を大きく集めていた流行作家で、その時代には、鴎外、漱石よりもずっと知名度は高かった。

ベストセラーとは、折々の時代背景があって生まれるものである。したがって、特定の時代に多くの人の手に取られた作品であることは間違いないが、必ずしも後世に残る名作を意味するわけではない。

そういうベストセラーだが、戦前のベストセラーが何十万部も売れるというのは、まれ中のまれで、明治大正期を通じてもめったにないことだった。島田清次郎の『地上』四部作は、累計30万部を超えたといわれる。この数字は、当時の出版界としては大変な部数だが、今日、シリーズ4巻で30万部というと、売れているという点では間違いないものの、一世を風靡するというにはやや物足りない感じがする。

戦前の出版界は市場規模が小さかったため、今日と比べるとゼロが一桁足りないのである。たとえば、昭和初期の初版発行部数は概ね500部程度だったといわれる。現在の初版発行部数のほぼ10分の1程度だったわけだ。その理由は、まず書店が少なかったことが挙げられる。書店の数は、大小数百店くらいだったという話もある。

次に、本の仕入れは買い切りが主流であった。現在、書店の仕入れはほぼ100%委託制である。つまり、返品OKが基本となっている。しかし、戦前の仕入れの主流は買い切りであり、すなわち返品不可であった。戦前の書店人には、自分の鑑定眼に自信と誇りがあったらしく、自分が選んだ本を安易に返品することは自尊心が許さなかった。その姿勢は尊敬に値するが、このような仕入れ制度では大量販売はできない。書店が少ないのと仕入れが慎重だった2つの理由で、書籍の市場は極めて小さな規模だったのである。

小さな書籍の市場だけでは、出版業者はやっていけない。この当時、出版業界を支えていたのは(そして斜陽とはいえ、いまでも支えているのは)雑誌である。ただ、当時の雑誌で今でも残っているのは、『新潮』『文藝春秋』『主婦の友』など数少ない。戦前、総合雑誌として君臨していた『キング』『富士』、それに何かと話題豊富だった『改造』は、もはや古書店でもその実物を見ることがない。栄枯盛衰(えいこせいすい)が雑誌の定めというものである。

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プロフィール

ミスターX
ミスターX

ビジネス雑誌出版社、および大手ビジネス書出版社での編集者を経て、現在はフリーの出版プロデューサー。出版社在職中の25年間で500人以上の新人作家を発掘し、800人を超える企業経営者と人脈をつくった実績を持つ。発掘した新人作家のうち、デビュー作が5万部を超えた著者は30人以上、10万部を超えた著者は10人以上、そのほかにも発掘した多くの著者が、現在でもビジネス書籍の第一線で活躍中である。
ビジネス書出版界の全盛期となった時代から現在に至るまで、長くビジネス書づくりに携わってきた経験から、「ビジネス書とは不変の法則を、その時代時代の衣装でくるんで表現するもの」という鉄則が身に染みている。
出版プロデューサーとして独立後は、ビジネス書以外にもジャンルを広げ文芸書、学習参考書を除く多種多様な分野で書籍の出版を手がけ、新人作家のデビュー作、過去に出版実績のある作家の再デビュー作などをプロデュースしている。
また独立後、数10社の大手・中堅出版社からの仕事の依頼を受ける過程で、各社で微妙に異なる企画オーソライズのプロセスや制作スタイル、営業手法などに触れ、改めて出版界の奥の深さを知る。そして、それとともに作家と出版社の相性を考慮したプロデュースを心がけるようになった経緯も。
出版プロデューサーとしての企画の実現率は3割を超え、重版率に至っては5割をキープしているという、伝説のビジネス書編集者である。

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