今日は1月11日、平成30年もすでに10日間が過ぎたことになる。平成は来年の半ばに31年で終わる。まだ、あと1年半あるのだから何が起きるかわからないが、もし、このまま日本が国際紛争に巻き込まれるようなことがなければ、平成という時代は、明治以来はじめて日本が戦争をしなかった時代ということになる。
現代史的にはそういうことだが、では、出版業界、そしてビジネス書業界にとって平成という時代はいかなる時代であったのか。年のはじめには、あまりふさわしくない話題かもしれないが、やがて終わる平成を思って少し振り返ってみたい。
出版界にとって、平成という時代は、ひと言でいえば「雑誌」が終わっていった時代である。平成のスタートはバブルのピークだった。出版界にとって、平成はいわば夏の正午から始まった。夏の陽盛りは午後3時である。バブルピーク時でも、出版界は、まだそこまで行っていない。
昭和の終わりから平成の初期は、雑誌の創刊が多かった。ビジネスコミック雑誌というジャンルが誕生したのも、この頃だったと思う。ビジネスといっても、中身はほぼビジネスには関係のない、エロ物が多かった。当時、わたしの上司はビジネスコミックが創刊されたというので、さっそく買い求めたが、性的なことばかりだと言って唖然としていたことを憶えている。
総合出版社でこの頃に入社した人は、ほとんどが雑誌の編集部に行った。雑誌は、その後も点数、部数を増やし、平成9年前後にピークを迎える。そこからは急激に落ちていった。特に月刊の総合雑誌、文芸雑誌が顕著で、2000年代に入る頃には、大半が休刊という名の廃刊に追い込まれていった。平成9年が、出版業界にとっての午後3時だった。以後、陽は傾いていくばかりである。総合雑誌に比べるとビジネス雑誌は、もともと点数、部数が少ないこともあってか、創刊もなかった代わりに休刊もない。
雑誌の売上は出版市場の3分の2を占める。この構造は戦前から変わらない。出版業界とは、雑誌を中心にして成り立つ構造だったのである。したがって、雑誌の衰退は影響が大きい。出版市場の縮小とは、イコール雑誌の凋落(ちょうらく)だった。メディアの主役が、紙や電波からネットに移っていったのが、まさに平成という時代である。
ビジネス書は「WHY」を追求することよりも「HOW」を示すことに軸足を置く。「なぜそうなるのか」よりも、「どうすればよいか」がビジネス書には求められる。よくも悪くもそれがビジネス書だ。したがってビジネス書の編集者は、概してなぜそうなかったのかなどと過去を振り返ることをしない。だから、こうして平成時代と出版界などという文章を書く人間は稀だ。ほぼ変わり者といってよい。変わり者でも生きられるところが、また出版界のよいところである。
平成がどういう時代であったかよりも、新元号の時代にどうすればよいかのほうに関心が向かうのは、恐らく読者諸氏も同様であろう。ただ単に振り返ることよりも、過去から学んで、これからどうするのかを考えるほうが重要なのは間違いない。しかし、平成がはじまって、というよりもバブルが崩壊してから、読者が「なぜ」を求めた期間がある。
平成はバブルのピークではじまったが、バブルはすぐにはじけ、平成という時代の大部分はバブル崩壊の後遺症による長い不況だった。20世紀の頃は、失われた10年と言っていたが、21世紀に入るとそれは失われた20年となった。最近では、もはや失われたという形容もつかない。
バブル崩壊後に出た本で印象的だったのは、『複合不況』(宮崎義一著 中公新書 1992年)と『清貧の思想』(中野孝次著 草思社 1992年)だ。前者は、当時、中公新書始まって以来のベストセラーといわれた。バブルとは何だったのか、なぜバブルははじけたのかが本書の主題である。1992年といえば、まだバブルのピークから3年、それでもバブル崩壊による経済の落ち込みは激しく、わたしも含めて、多くの人々はなぜこんなに極端に経済が落ち込んだのか、そして、全く回復の兆しが見えないのはなぜなのか疑問だった。
ビジネス書には、その答えを見出す術はない。落ち込んだ経済の中でどう生きるか、それがビジネス書である。その頃わたしは節約の本をつくっていた。中公新書はビジネス書ではないが、この本がはじめて我々の「WHY」に応えてくれた本だった。
後者はドイツ文学者・中野孝次の書いたエッセーで、経済とは関係ない。だが、バブル崩壊がなければ、恐らくあれほど多くの人々が手に取ることはなかったはずだ。人々は内心バブルの狂乱を反省していたのである。