『赤塚不二夫のことを書いたのだ』(武居俊樹 文藝春秋社)という本がある。作者の武居氏は小学館に入社したての新人の頃から、ずっと赤塚不二夫の担当編集者を務めた人である。この本は、いわば人物評伝なのだが、コミックというジャンルの「青春時代」が赤塚不二夫という代表的な作家と、新人編集者であった作者との関係性の中で描かれている。コミックの青春時代とはコミック雑誌が伸びていた時代だ。
コミックは現在、雑誌よりも作品ごとの単行本や電子書籍のほうが主力になっている。電子書籍市場はコミックを中心に急拡大しているが、コミック業界の活力や息吹という点では、赤塚不二夫の時代に遠く及ばない。まあ、青春時代というのは根拠なく自分たちの可能性を信じ、明るい未来を描くものだから、当時のコミック業界には確かに活力と希望にあふれた息吹がみなぎっていたのだろう。そういう時代にコミックの編集に携わった人は出版人として幸せだったと思う。
コミックに青春時代があったのなら、ビジネス書にもそういう時代があったのだろうか。改めて考えてみると、ビジネス書にも青春時代はあったように思う。コミックほど大きく成長はできなかったものの、確かに根拠なき可能性を信じ、明日は今日より美しいと疑わなかった時代はある。
そういう時代が過去にあったということは、ビジネス書はすでに青春時代を通り過ぎ、壮年か老境にさしかかっているということになる。残念ながら、それも事実のように思う。では、ビジネス書の青春時代とはいつ頃のことであろうか。
その前にビジネス書はいつ誕生したのか、から見ていこう。以前にここで書いたことだが、ビジネス書という呼称が一般的になったのは1980年代、それも半ば以降だったように記憶している。それ以前は経営書とか法経書とかいっていた。しかし、ビジネス書という呼称が一般化したのは1980年代でも、ビジネス書そのものはもっと以前からあった。
では、どれがビジネス書の元祖かとなると難しいが、ビジネス書が時代の要請から生まれたものであることは間違いない。時代の要請とは経済発展の結果である。
そもそもビジネス書とは何かという疑問がある。これも以前に書いたと思うが、ビジネスに関することが書いてあればビジネス書だという、極めて大雑把なカテゴライズがある。これはいまでも変わっていないのではないか。しかし、時代ごとに見ていくと少しずつ変化が見える。
かつてはビジネスの役に立つ本がビジネス書だった。だから、戦国武将の話でもビジネスのヒントになればビジネス書である。一方現在は、ビジネスパーソンの役に立つ本は、すべてビジネス書であるというカテゴリとなっているように見える。
したがって血液型占いも、ビジネスパーソンの役に立つのなら、立派なビジネス書となる。初期のビジネス書は企業の利益に帰納することが基本だった。それが中期になると、企業の利益と個人の利益をすり合わせるものへと変わっていく。企業の成長が個人の成長につながるという、麗しき関係性を目指したのが中期のビジネス書だ。わたしはこの時代にビジネス書業界にいた。
いまは個人の幸福追求が第一で、企業の成長は第2か、あるいは視界の外に置いた本が多い。それは「ビジネスパーソン・ファースト」が、ビジネス書のメインストリームだからだ。企業はしょせん個人の幸福を実現するための手段の一つに過ぎないのだから「ビジネスパーソンのための本=ビジネス書」で、なんら問題ないと思う。ただ、個人の内面をバラ色にするだけならビジネス書である必要はない。
話を戻そう。ビジネス書が出版界に生まれた時代のことである。ビジネス書が登場する前は、日本でマネジメントを学ぶには経営学の教科書しかなかった。したがって1950年代まではビジネス書はなかったといってよい。あったのは経営学の書籍だ。当時の経営雑誌、すなわち「週刊ダイヤモンド」も「週刊東洋経済」も、いまと異なりかなりアカデミックな内容である。
高度経済成長が始まると企業はしだいに大きくなり、労働者も増えていった。人間はある程度豊かになると、もっと豊かになりたいと考えるようになる。1960年代になると、人々は企業がもっと儲かるようになるためには、どうやらマネジメントというものが必要らしいと気づき始める。しかし、日本には商人道はあってもマネジメントはなかった。
マネジメントとはアメリカの企業でやっていることで、そのやり方を学んでマネをすれば企業はいまより儲かるらしい。それならアメリカの本を翻訳したものを読めばよい。これが時代の要請であり、ビジネス書はここから生まれた。そうして、多くの経営者が翻訳マネジメントの本に手を伸ばすことになる。
それが『現代の経営』(ピーター・ドラッカー ダイヤモンド社 1965年刊)であり、『人を動かす』(デール・カーネギー)である。
わたしの考えでは、ビジネス書はここからがスタートだ。つまり、ビジネス書の始祖は翻訳である。そして、これからも翻訳はビジネス書の一角を占め続けることになろう。いまも昔も、人は「もっと儲かる」話には乗ってくるものである。ビジネス書は原則「もっと儲かる」ための本だった。