「他人の期待に応えようとしすぎてしまう」「人に都合よく使われてしまう」……そういった悩みの原因の大半は、自分の外側ではなく、自分の内側にあります。心の中で迷子になっている本当の気持ち(=未処理の感情)が引き起こしているのです。等身大の自分を受け入れて、ラクに生きたいと思いませんか? 本連載では、アルファポリスより好評発売中の『そろそろ『わたし』でいきていく ~今日から自分を好きになるために~』(城ノ石ゆかり)から一部を抜粋し、そのヒントをお届けしていきます。
「最近、疲れてるよね?」とたずねられて、素直に「うん」といえる大人は少ないです。
ここでいう「疲れ」とは、好きだったことにさえ腰が重くなったり、自分が何を好きだったかさえわからなくなったりするようなレベルの疲労状態です。
布団に入る前に気絶するような寝方をしてしまうか、布団に入っても気がかりが頭から離れずなかなか眠れません。ひとりになると無意識にため息が出てしまったり、朝目覚めたときに身体が鉛のように重いと感じたりする日が続く場合もあるでしょう。
疲れは主観的なもので、人と比べようがありません。
「大丈夫」「これぐらいで音を上げるわけにはいかない」とハードワークして身体を壊す人もいれば、ちょっとしたことですぐ「疲れた!」と音を上げ、仕事をサボっているように見える人だっています。
この連載を読んでいる方はおそらく前者のタイプが多いと思いますが、後者は前者とまったく違う人のように見えて、実は同じようなものだといったら驚くでしょうか。
両者の共通点は、本来の自分の状態が自分でわからなくなっていることです。
前者はがんばっている自分ばかりを見ていて、本体の疲れている自分に気づけないから身体が限界を迎えます。後者の場合は、がんばっても仕方ないという思い込みのもと、本体の自分を発揮できないから成長が頭打ちになります。
どちらのケースも、車でいえばアクセルとブレーキを同時に踏み込んでいるようなもの。人生がなかなか思うように展開せず、そのうち燃料切れになってしまうというわけです。
人は生まれ育った家庭や環境に適応するように自分を作りながら生きていきます。
努力を大切にする家族の中で育つと努力を重視する人に育ちますが、たまたま兄弟の能力が高くて自分は努力しても兄弟には敵わないと気づいたら、努力を放棄する人になる場合だってあるでしょう。
ただ、どちらも環境に適応しながら生きていることに変わりはありません。
私は努力を大切にするとか、私は努力が嫌いだといった具合に、人は環境適応的に作った自分を「これが私だ」と思い込むようになります。
幼少期からあまりにも長いこと環境適応的な自分をやっているから、大人になるほど「本体」の自分がいることに気づきにくくなっていきます。すると放っておかれた本体の自分が、自分の存在を認めてほしくて叫び始めるのです。
その声をさらに無視していると、うまくいかないことが日常に増えていきます。疲れていて本来の調子ではないから、健全なジャッジができなくなってしまいます。