大先輩は私に、「君には仕事の力(スキル)がある。しかし、部下は君が仕事ができるだけでは、心からよろこんでついて来ることはない。仕事の力に加えて、あの人の後について行きたいと思われるような、人間力(マインド)も備えている上司の後に、部下はよろこんでついて行くのだ」と教え諭してくれた。
目からうろこが落ちたような衝撃を受けた。リーダーには、仕事の力という信用力と、人間性や人格、人望という信頼力が必要であることを私はこのとき身をもって学んだのである。
この大先輩は、私にとってのメンターのひとりであった。「3人のメンターがいれば人生はバラ色」という。メンターとは人生の師というような意味だ。公私にわたって相談できる心強い相手であるとともに、学ぶべき師でもある。私は、人間力を身につけるべく多くの本を読んだ。この時が人生で最も多くの本を読んだ時期である。ピーター・F・ドラッカーやデール・カーネギーの本を読んだのもこの頃だ。安岡正篤の著作も座右の書とした。
座右の書のことをブックメンターともいう。人が経験できることは限られている。経験からだけでは、すべてを学ぶことはできない。経験を補うために必要なのが読書であり、その中から選び抜かれた座右の書がブックメンターだ。また、私はこの頃から「この人は人間力がある」と見込んだ人の言動を、徹底的に観察し真似る習慣をはじめた。「学ぶ」とは「真似ぶ」である。人間力のある人の言葉づかいや行動を真似ることで、その人の人間力を「真似ぶ(学ぶ)」ことができる。
そうして数ヵ月が経った頃に、ひとりの部下から「新さんは変わった」と言われた。やがて、他の部下たちからも同様の声が聞こえはじめる。同時に少しずつ、しかし着実に、どことなく冷たかった部下の態度が、明るく楽しげなものに変わっていった。スキルばかりに頼りきり、マインドを疎かにしていたことを学んで、私は失敗を成功に転換することができたのである。
トップにとって学ぶ力とは、トップに必要な力の源泉であると言ってよい。学ぶ力には二つの要素が必要である。ひとつは学ぶ心、すなわち先述した吉川英治の「我以外皆師」の心がけである。メンターの話も、ブックメンターの一文も、虚心坦懐に学ぶ心があって、はじめてその貴重さに気づくことができる。自分自身に本気で学ぶ心がなければ、どんなに目の前で大切なことが起きていても、それが学ぶべき珠玉の出来事であるとは気づかない。いかなる人からでも学ぼうとする姿勢が、自然に人の話を傾聴する姿勢となるのである。諫言や忠言、教訓に対しても、こちらに学ぶ心がなければ、けっして心に響くことはない。
もうひとつは、問題意識を持つことだ。街角の風景からビジネスのヒントや問題解決の方法が閃くという逸話は数多くある。街角の風景からでも、ビジネスのヒントや問題解決の方法を着想できるという人は、24時間、問題意識が頭から離れていない人だ。問題意識も、また学ぶ力を構成する重大要素である。
英語には“If you think you are good enough, you are finished(これで十分と思ったらあなたは終わりだ)”という言葉がある。企業は、経営者がもうこれで十分と思った瞬間から老化が始まる。
浮世絵師の葛飾北斎は、90歳近くまで生きた、当時としては珍しい長寿であったが、死の直前まで自身の画法の追求をやめなかった人である。北斎は最晩年になっても自身の絵に満足できず、ときに自分の才能の不足を嘆くことさえあったという。しかし、北斎の絵に不足を見出せる人は北斎だけだった。
現状に甘んじてはならない。尽くなき向上心が健全な不満を生み、健全な不満は、学ぶ心と問題意識を常に新鮮にする。それが学ぶ欲求となる。学ぶ欲求は年齢とは無関係だ。81歳の私は、いまも学ぶ欲求で身を焦がしている。経営者とは、会社を継続的に繁栄させる「継栄者」である。継続的な繁栄を支える大きな力こそ、トップの学ぶ力だ。
連載を終わるにあたって、ひと言述べたい。
経営やリーダーシップには「ザ・正解」はない。企業も人も生き物である。正解はないが「原理原則」というものはある。普遍性高く、すべてのものに当てはまるものである。過去一年間の連載では、ビジネスパーソンとしての成功を目指している読者に対し、私がこれまでに学んだ、成功のための原理原則をいろいろな角度や切り口から語ったつもりである。ぜひ参考にして、機会あるごとに実行に移してほしい。
経営とは実行である。