直感を信じて、失敗を恐れずに進む。前編では、秀才や天才とは無縁だった過去を告白し、「失敗」を積み重ねたエピソードを語った二人。話はさらに、お互いの「英語」発信に及び……。英語でやる理由、外国でやる意味。挑戦の支えとなる「厳しい優しさ」とは。互いのベールを徐々に剥がし合い、話はいよいよ「挑戦」の核心部分へ。挑戦とは一体何なのか。落語と仏教、それぞれが持つ可能性とは。「道を極める」スペシャル対談、後編です。
(構成・文/沖中幸太郎)
大來尚順(おおぎ・しょうじゅん)
浄土真宗本願寺派僧侶。1982 年山口県生まれ。龍谷大学卒業後、カリフォルニア州バークレーの米国仏教大学院に進学し修士課程を修了。その後、同国ハーバード大学神学部研究員を経て帰国。山口県の自坊(超勝寺)と東京を行き来しつつ、僧侶として以外にも通訳や仏教関係の書物の翻訳なども手掛け、執筆・講演などの活動の場を幅広く持つ。国際経験を活かした講座「英語で考えるブッダの教え」や公式ブログはユニークな活動としてさまざまなメディアに取り上げられ、幅広い世代に仏教を伝道。著書は『訳せない日本語~日本人の言葉と心~』『端楽(はたらく)』(ともにアルファポリス)、『英語でブッダ』(扶桑社)など多数。 |
大來氏:自分なりの答え、挑戦のための、英語発信。志の春さんの想いを訊かせてください。
志の春氏:前編では、落語の可能性に触れましたが、確かに日本ではブームもあって、テレビでは落語をやっていますから「遠い存在」ではありません。けれど、まだまだ自分が理想とする「身近さ」はない。それは、小学生の反応を見て「つまらないんじゃないかと思っていたけど笑えました」という反応もそうですし。26歳まで知らなかった自分には、その気持ちもよくわかるんです。
大來氏:届いていない人にも落語を知って欲しくて、いろいろと試している。
志の春氏:今まで初心者でも楽しめる落語、ファミリーで楽しめる落語、恋人同士で楽しめる落語、英語で楽しめる落語、いろいろな形でお届けしようとやってまいりました。お酒と絡めて、お料理と絡めて、手ぬぐいと絡めて、猫と絡めて、ジャズと絡めて、ミュージカルと絡めて……。下ネタオンリーの「シモハルの会」というのも、やっていますが、これは、落語というのは想像する芸、エロスを表現するのにもぴったりな芸ということで行き着いたものです。落語がまだまだリーチできる余地はあって、そのためにすべきこともたくさんあると思っているんです
落とし噺だけでない、古典だけでない、日本語だけじゃない。いろいろなアプローチで「落語」を楽しんでもらって、また自分もその中で何かを掴めたらと。落語に触れられる機会が増えれば、もっともっと盛り上がるんじゃないかと。話し手と聞き手の両方がいなけりゃ落語は成り立ちませんから。子どもたちや、外国の方に落語をするのも、その他さまざまな取り組みも、根本の想いは一緒なんです。
大來氏:私が、仏の教えを英語で発信するのも、昔、説法に笑い話を入れたようにアプローチの仕方の問題で、そのほうが伝わりやすい時もあるからなんです。「極める」ことはある種、先細りになっていくイメージですが、いろいろな接点が存在すれば、頂(いただき)もより密になりますしね。
志の春氏:頂に向かって、自分が追求したいと思うことは、とことんやってみたい。「どうだ、こんなことも俺はできるんだぞ」というつもりはないんです。ただ共感しあい、笑いあい、繋がりたい。そういうことなんです。 もちろん本丸部分の「落語」がしっかりしてなければ元も子もありませんが、そうした活動がいい刺激になるんじゃないかと。
大來氏:「挑戦」は、文字通り戦いを挑むと書きますが、それは他の誰かに挑むことではなく、自分自身と対峙することだと思います。ましてや他人との競争でもない。競争による「勝ち負け」もないから、正解はひとつではないし、何かが分かったからここで終わり、というものでもない。さまざまなアプローチを工夫しながらずっと続けていく。それが挑戦というものなんだと思います。