「1日で売り上げ1億円」。実演販売業界で伝説と称される男、その名も"レジェンド松下"こと松下周平氏。論理に裏付けされた“口上”で、的確に商品のストーリーと感動を伝え売上に繋げる。その類稀なる才能の片鱗が見られたのは、大学浪人生の頃にアルバイトをした球場でのコーヒーの売り子時代。その時から現在まで持ち続ける、松下氏の「結果を出すための観察眼」と「好きを極める壁の乗越え方」を伺ってきました
(インタビュー・文/沖中幸太郎)
松下周平(まつした・しゅうへい)
実演販売士「レジェンド松下」
1979年、神奈川県横浜市生まれ。大学卒業後、実演販売士和田守弘氏の下に弟子入り。東急ハンズなどの全国のデパートを調理道具の実演で回る。1日で1億円を売り上げた実績から、伝説(レジェンド)の実演販売士として多方面で紹介される。店頭販売のみならず、展示会、イベント、TV通販など、変幻自在のトリックショッパーとして、さまざまな分野で「実力No.1実演販売士」として活躍している。【公式サイト】。 |
――テレビ通販などをはじめ、さまざまな分野で“伝説の実演販売士”として活躍されています。
松下周平(以下、松下)氏:実演販売士という仕事は、テレビやデパートの売り場などでしゃべって商品を売るのが一般的なイメージだと思います。ぼくの場合も、もちろんテレビに出させてもらって実際に販売もするのですが、今はそうした実演販売士が活躍できる“場づくり”全般を手がけるのが、主な仕事になっています。取締役を務める株式会社コパ・コーポレーションでは、その場づくりや仕組みづくりといったことを含めた、実演販売士のマネジメント業務全般に携わっています。
また、「商品」あってのぼくたちなので、魅力ある商品の開発や、新商品の仕入れにも注力しています。メーカーさんと共同開発をさせていただいたり、海外へ新商品の買い付けに行ったりすることもしばしばです。ただ、やみくもに商品を探して偶然に身を任してしまっては、よいものに巡り会うことはできません。「あの汚れを落とすスポンジはないか」「こういうことができるフライパンはないか」と、興味の引き出しを広げながら、最高の商品を求めて動き回っています。
――「いい商品」に出会うための動き方がある。
松下氏:これは若手の実演販売士にもよく言っていることなのですが、一発目から「いい商品」に出会おうとしても、うまくはいきません。「売れる」こと、例えば野球で言えばヒットやホームランは正直、誰でもやっていれば打てる時が来ると思います。けれど「売れ続ける」ためには、やはり何か一つを極めなければいけません。ぼくの場合はピーラー(皮むき器)が最初に取り扱った商品でしたが、まずは日本中の皮むき器に精通することから始めました。
もちろん出会った商品がすぐに売れる商品になることはほとんどありません。多くは「売れない」ところから始まるのですが、売れなかった商品も別の機会で役に立つ時がやってくる。その積み重ねが「売れる結果」に辿り着く。それが実演販売の世界です。この仕事ほど、ムダのない仕事はないんじゃないかっていうぐらい、ひとつひとつの行動が、本当にいろいろな結果に繋がっていきます。そういう行動があって、はじめて「売れ続ける」ことができると思うんです。
と、偉そうなことを言っていますが、自分自身、この実演販売士という仕事の本当の魅力や面白さを感じられるようになるまで、長い年月を要しました。今でも新しい発見の連続です。ここに至るまで、鳴かず飛ばずの時期も長らくありましたし、「壁」にぶつかることも一度や二度ではありませんでした。ただ、それでもこの仕事を辞めずに続けられたのは、自分らしくあることを大切にしてきたからだと思っています。人それぞれいろいろな「壁」の克服方法があると思いますが、ぼくの場合、それは昔から「自分に無理強いしない」ことで、乗越えてきたんです。
松下氏: 覚えている最初の「壁」との対峙は、小学校から中学校に上がるくらいの頃でした。ぼくは横浜の生まれなのですが、小さい頃からサッカー選手を目指していて、中学に上がる段階で、学校の部活ではなく、地域の強い選手が集まるクラブチームに入ろうとしていたんです。
ところが、いざ仮入部で覗いてみると、近所でそれなりに強かった自分を遥かに上回る強い選手がいるわけです。それも一人や二人ではなく大勢。上には上がいる、これでもかというほど高い「壁」を目の前にして、自分は早々に逃げ出すことを決めました(笑)。確か、入学してすぐ、4月中のことだったと思います。
――見切りが早い(笑)。
松下氏: 「ここにいたら自分らしくいられない。暗い性格になってしまう」と思ったんです(笑)。この頃から、自分に向いていないと思ったら早々に諦めて、できることだけを粛々とやる、目の前の課題に対して「傾向と対策」を練るような性格を持っていました。よくこの仕事をしていると、「昔から明るい性格だったんですね」と言われます。確かに半分は当たっているのですが、もう半分はちょっと違います。というのも、ぼくは小さい頃から、いつも相手が何を思っているかを考えながら話すような、人目を気にしすぎる性格だったんです。
卒業アルバムにも、将来の夢はサッカー選手と書きたいところを、なれなかった時の「周りの反応」を気にして、“保険”として「有名人」と書いていたくらいです。なんとかクラスでは「そこそこ面白い奴」として認められ、かつサッカー部のキャプテンという地位を築いた自分でしたが、一方でいくつかの悩みも抱えていました。
今思えばそんなに大したこともなかったのですが、当時の自分としては一大事だったんです。キャプテンとしての体面も保たなくてはいけないため、気軽に誰か友だちに相談することもできず、コンプレックスを抱えながら、人知れず葛藤する日々を過ごしていました。
――人には言えない、リーダーなりの悩みを抱えていたんですね。
松下氏:そんなコンプレックスを持っていた自分を救ってくれたのが、ラジオでした。当時放送されていた、『オールナイトニッポン』が大好きで、録音してずっと聞くくらいハマっていたんです。特に、シンガーソングライターの石川よしひろさんがパーソナリティを務める回では、彼の「弱み」を「笑い」に変えていくトークが衝撃的だったのを覚えています。その番組のおかげで、次第に「コンプレックスは隠さず、どんどん出していってもいいんだ」と思えるようになったんです。
この頃になると、将来の夢もサッカー選手から、放送作家や芸人さんなど、テレビやラジオで活躍できる人に憧れを持つようになっていきました。高校に入って一応続けていたサッカーも、目標はあくまで「準決勝まで進んでテレビ神奈川に映ること」になっていたくらい、テレビやラジオの世界に憧れを抱くようになっていましたね。