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第一章

3.私の事情

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 私が自分のことを嫌いになったのは、ほんの些細な出来事がきっかけだった。
  三年前、私の中学校の卒業式が終わり、高校受験の合格発表も済み、希望と少しの不安をもって新生活の準備をしていた春のことだった。
 
 春休み、私は中学校の教科書を片付けながら部屋の大掃除をしていた。その時、私の幼い頃の写真をまとめたアルバムが出てきたのだ。
  掃除もそこそこに私はそのアルバムを持ってリビングでくつろいでいた父と母の元へ行って、一緒に見ようと誘った。両親は一瞬戸惑うようなそぶりを見せたのに、その時の私は気付かなかった。
 
 アルバムの一ページ目には、私が部屋でハイハイをしている写真が貼ってあった。恐らく母が撮ったのであろう、満面の笑みを浮かべた父が私に向かって両手を差し伸べている。
  お父さん若いね、なんて呑気に言ってから、ふと違和感を覚える。その小さな違和感を口にしてしまったことを、私は今でも後悔している。
 
『どうして、私が産まれたときの写真が無いの?』
 
 その瞬間に見た、両親の青ざめた顔が今でも忘れられない。
 


 その日の夜、弟が寝てから父と母にリビングに呼ばれた。そして、真実を告げられる。
 
 私は両親、それに加えて弟とも血が繋がっていない。
 生まれてすぐ施設に預けられた私を、養子として引き取った。
 よくある話である。でもまさか、自分がその「よくある話」の当事者だなんて、考えたこともなかった。
 
 結婚して十年近く経っても子どもができなかった両親は、知人の紹介で養子を迎えることにした。それが私。
 そしてその数年後、奇跡的に二人の間に子どもが出来た。それが弟の千尋だった。

 千尋が産まれたときのことは私も覚えている。弟ができたのが嬉しくて、病院で騒いで父に怒られ、泣いているところを疲れた顔の母が慰めてくれたのだ。
 まさかその弟と血が繋がっていないとは思いもしていなかったが。
 


「……それから、おかしくなっちゃったんです。今まで通りに家族と笑えなくなって、気まずくて、家に居たくなくなって」
「なんか言われたの? お父さんやお母さんに」
「何も。前と変わらず、優しいんです。でも、それが辛くて……」
「変わった子だね。優しくしてくれるなら素直に甘えればいいのに」
 
 そうだ。変わってしまったのは私だけなのだ。
 
 家族と血が繋がっていないと知ったあの日から、私の中の何かが壊れてしまった。
 家族は以前と何も変わらない。小学生の千尋には、まだ両親も事実を告げていないらしい。
 おかしくなってしまったのは私だけ。父も母も、以前と変わらず優しく接してくれる。なのに、私の心の中ではずっと黒い靄が渦を巻いているのだ。
 
 本当の娘じゃないのだから、毎日お弁当を作ってくれなくてもいいのに。
 家族の中で唯一血が繋がっていない私になんて、優しくしてくれなくてもいいのに。
 私がいなければ、普通の家族でいられるのに。

 私なんか、いなくなればいいのに。
 
 そんな考えが頭を離れなくなって、私の高校生活は華やかとは言い難いものになった。
 友達は少ないながらもできた。変なちょっかいを出されることはあっても、いじめなんかにも遭っていない。
 けれど、ふと友達との会話で家族の話題が出ると、どうしても表情が曇ってしまうのだ。
 
 そうして、私はだんだんと家族と距離を置くようになって、高校三年生になった今もそのぎこちない関係は続いている。
 

 最近、私を悩ませる種がもう一つ増えた。進路だ。
 私の通う高校は曲がりなりにも進学校で、卒業生のほとんどが進学する。進学するということは、また両親に負担をかけてしまうことになる。
 アルバイトをして学費を貯めることも考えたが、アルバイトは校則で禁止されているし、両親もあまり良い顔はしないだろう。少しでも良い大学に行けば後が楽だよ、と中学生の頃から言われていたし、両親は私にいわゆる良い大学に進んでほしいと思っているようだ。
 その一方、私は親に迷惑をかけたくないから高校を出てすぐ働くことも考えていた。だからこそ、今まで進路の話をするのは避けてきた。反対されるのが怖かったからだ。
 
 しかし二週間前、ついに進路希望調査票が配られてしまった。私はそれを隠していたのだが、昨日うっかり机の上に置きっぱなしにしてしまい、そして母から先ほどのメッセージが来たというわけだ。

 

「家族と絶対に向き合わなきゃいけない、って思ったら急に怖くなって、気付いたら乗り過ごしてました。本当に、ごめんなさい……」
 
 こうして人に話してみて改めて分かる。これはただの我が儘だ。
 そんな我が儘に初対面のバスの運転手さんを付き合わせてしまっていることに、今更ながら申し訳ない気持ちでいっぱいになった。また一つ自分の嫌いなところが増えてしまう。
 
 自己嫌悪で顔を上げられずにいると、突然暖かいものが体を包む。
 何事かと思って慌てて顔を上げると、正面から平原さんに抱きしめられていた。
 
「えっ!? ひ、平原さん……!?」
「……ごめんね、倫。俺、倫の気持ち全然分かんない」
「あ……そ、それは、別に……」
 
 私自身、どうしてこうなってしまったのか分からないのだ。言ってしまえば、赤の他人である平原さんに分かるはずがない。
 それなのに本当に申し訳なさそうに謝る彼は、抱き締める腕の力を強くして囁くように言った。さっきからかわれたのもあって、変に彼を意識してしまっている私は顔を赤くする。
 
「俺、人の気持ちを理解するの苦手なんだ。空気読めないってよく言われる。でも、倫が今すごく寂しがってるのは分かるんだ」
「……え? さみしい……?」
「違うの? 倫の話聞いてると、寂しくて寂しくて仕方ない、って気持ちがすごく伝わってくる。血の繋がりがないってだけで、家族が離れていくんじゃないかっていう不安も」
 
 寂しい。
 
 このもやもやした複雑な感情は、そんな子供じみた単純なものだったのか。
 平原さんのその言葉を、私はすぐに受け入れられなかった。
 でも「寂しかったんだね」と慰めるように彼にそっと髪を撫でられているうちに、蓋が外れたようにどんどん涙が溢れ出してきた。
 
「ご、ごめんなさいっ……違うんです、泣くつもりなんか、なくて……っ!」
「いいよ、泣いて。気の利いたことは言えないけどさ、こうやって誰かに抱きしめてもらうとちょっとは楽にならない? 俺は昔そうだったから」
 
 本来なら関わるはずのなかった人の前で、私は思い切り泣いた。恥も外聞もなく泣きじゃくる私を、平原さんはただ黙って抱きしめてくれている。
 申し訳ない、と思う気持ちは少なからずあったが、その温もりからはどうにも離れがたかった。
 


 どのくらいの時間が経っただろう。ようやく涙の止まった私を見て、平原さんがそっと身体を離す。優しい温度が遠ざかって、未練がましく見上げると彼は苦笑した。
 
「ごめん。年頃の女の子に気安く触れちゃいけないよね」
「あっ……い、いえ、私の方こそ、すみません……怒られませんか? その、彼女とかに」
「そんなのいないよ。言ったでしょ? 俺、空気読めないらしくてさ。告白されて付き合ったことはあるけど、すぐ振られちゃうんだ」
 
 何でもないことのように平原さんは言うけれど、彼ほどの美形を振るぐらいなのだから、今までさぞかし美人と付き合ってきたのだろう。それとも、彼の言う「空気読めない」というのが度を越しているのだろうか。
 どちらもあり得るな、と思いながらそれを彼にわざわざ言うほどの勇気もないので、曖昧に相槌を打って誤魔化した。
 
「さて、落ち着いたかな? そろそろお風呂入って寝ようか。あ、シャワーだけでもいい? お風呂沸かすの面倒くさいから」
「あ……は、はい、すみません……」
「倫は明日何か予定あるの? 土曜日だから学校はないよね?」
「はい。特に予定もないです」
「じゃあ、俺とデートしよう。行きたいところ考えておいてね」
「は……ええっ!?」
 
 突拍子もない発言に驚く私には目もくれず、平原さんはクローゼットを開けて何やらごそごそと服を漁っている。
 そして、タンスから黒いジャージを取り出すとそれを私に向かって放り投げた。
 
「それ、パジャマにして。ちょっと大きいかもしれないけど、洗濯はしてあるから臭くはないはずだよ」
「あ、えっ、あ、ありがとうございます! あの、平原さん、デートって……!」
「え? ああ、倫はデートしたことないの? じゃあ行先は俺が考えるから、倫はついて来てくれればいいよ」
「あの、そういうことじゃなくてっ……!」
「あー、眠くなってきたなあ……倫、早く入っておいでよ。あ、タオルは洗面所に置いてあるやつ適当に使って」
 
 そう言って、平原さんはあくびをしながらソファに寝転がった。動じないというか、マイペースというか、とにかく変わった人だ。でも、彼のそののんびりとしたペースに徐々に嵌ってきてしまっている自分がいる。
  諦めて、お借りします、と小さく呟いてからお風呂場に向かった。
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