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第一章

2.家出した私と変わった運転手さん

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 十五分ほど待っただろうか。白のTシャツに薄手のジャケットを羽織った格好で、先ほどの運転手さんがコンビニに入ってきた。制服姿とは随分印象が違うが、そんなシンプルな服装でも彼は人目を引いた。
 とりあえず言われた通りに待っていたが、この後はどうすればいいのだろう。
 
「あ、いたいた。ねえ、夕飯はもう食べたの?」
「えっ? あ、いや、まだですけど」
「じゃあ好きなの選んで。何でもいいよ」
「え? あ、あの」
「俺は何にしようかなぁ。昨日もその前もカップラーメンだったし、今日は奮発して焼肉弁当にしようかな」
 
 そう言ってふらふらとお弁当コーナーに向かう。未だに状況が飲み込めない私は、気だるげにお弁当を吟味している彼の方におずおずと近付いた。彼はここで夕飯を買ってどこかで食べるのだろうか。それにしても、なぜ私をここで待たせたのだろう。私はどうすればいいのだろう。
 そんなことを考えていると、ぐう、とお腹が鳴るのが分かった。彼の耳にもその音は届いたのか、くすくすと笑われる。恥ずかしい。
 
「ほら、お腹は正直だよ。早く選んで」
「は、はあ……じゃあ、これにします」
 
 適当に選んだお弁当を手に取ると、なぜかそれを彼にもぎ取られる。そしてさっさとレジに向かって、のんびりとした声で店員さんとやり取りしている。
 見た目はほんわかとしていて女性らしささえ感じるのに、声だけは低く落ち着いている。父や弟とも、同級生たちとも違った雰囲気を持った彼に、どう接したらいいのか分からなかった。
 
「あ、飲み物は適当でいいよね? 色々買っておくから、あとで好きなの選んで」
「えっ!? あ、あの、自分で買いますっ!」
 
 どうやら私の分まで買ってくれるつもりらしい。見ず知らずの男性にそこまでしてもらうわけにはいかない、と慌てて財布を取り出すが、彼は笑いながら手でそれを制した。
 
「コンビニ弁当ぐらい奢らせてよ。あっお姉さん、あとアメリカンドッグ二つお願いします」
 
 家族以外の人に物を買ってもらうなんて初めてだ。今まで彼氏が出来たこともないし、年上の人とこうして買い物する機会など無いに等しい。というか、無い。
 カフェで飲み物一つ頼むのを躊躇うような高校生の私からしてみれば、たとえそれがコンビニ弁当であろうがなんだろうが、他人に奢ってもらうということがひどく申し訳ないことのように思えた。
 というか、コンビニ弁当は意外と高いのだ。私も本当は母にお弁当を作ってもらわずに、コンビニ弁当で済ませたいけれど出来ないのはそのせいだ。毎日買っていたらお小遣いなんてすぐに終わる。
 
 会計を済ませてコンビニを出る。何度も頭を下げて礼を言うと、彼は苦笑いして歩き始めた。
 強い風が吹いている。雨でも降ってきそうだ。
 
 そしてコンビニから五分と歩かないうちに、二階建てのアパートの前に辿り着く。その一階の一番隅の部屋で彼は立ち止まって、ポケットから鍵を取り出した。
 
「ここ、俺の家。狭いし汚いけど入って」
「えっ、ええっ!?」
「あー寒っ、話は部屋で聞くから、早く入って! 風邪引くよ」
 
 有無を言わさず部屋に押し込まれる。
 もしかしなくてもこれは、あまりよろしくない状況ではないか。まさかこんな美形が私なんかを誘拐してどうにかしようとしているとは思えないが、人は見かけによらないという。
 でも、彼の笑顔を前にすると何も言えなくなって、黙って靴を脱いで部屋に入った。





 お邪魔します、と中に入ると、廊下と一体になった狭いキッチンと、その先に八畳程度のフローリングの部屋があった。確かに広いとは言えないが、物が少なくてこざっぱりとした部屋だ。
 
「適当に座って。あ、制服ハンガーにかける? その辺のやつどれでも使っていいよ」
「あ、ありがとうございます……?」
「なんで疑問形なの? ふふっ、変な子」
 
 そう言って笑う彼に、少しだけ安心する。
 この状況を親が知ったらとんでもないことになるだろうが、混乱しきった私の頭ではとても冷静に考えられなかった。
 制服のブレザーだけ脱いで、ハンガーをお借りすることにした。アルミのパイプで出来たスーツ掛けに掛けさせてもらう。
 彼もジャケットだけ脱いで、ぺたんこになった茶色の座布団に座った。私の方には、それよりもまだ厚みのある赤い座布団を渡してくれる。
 
「じゃ、とりあえずご飯食べようか。はい、お手拭き」
「あ、ありがとうございます」
 
 いただきます、とぎこちなく手を合わせて、彼に買ってもらったお弁当の蓋を開ける。私が適当に手にしたのは、ハンバーグ弁当だった。さっきコンビニで温めてもらったばかりだから、ゆらゆらと湯気が出ている。彼は宣言通り焼肉弁当にしたようだ。黙々とお弁当を食べているので話しかけられない。仕方なく、私も割り箸を割ってお弁当を食べ始めた。
 
 自分で思っていたよりもお腹は空いていたようで、無言で食べすすめているうちにあっという間に完食してしまった。どれほど気持ちが落ち込んでいてもお腹は減るなんて、自分は案外呑気な性格をしているのかもしれない。
 
 ご馳走様でした、と箸を置くと、彼も同じように箸を置いた。そして、心配そうに私に問いかける。
 
「そういえば、親御さんにはちゃんと連絡した? 今日は帰らないって」
「え? ……あっ! してない!」
 
 彼の言葉を聞いて、慌ててスマートフォンを取り出す。先ほどのメッセージのあとにもう一件着信がある。それと、留守番電話まで。
 ちょっとすみません、と彼に断ってその留守電を聞く。やばいやばい、と心臓が激しく動いている。心配性な母のことだから、私が行方不明になったといって警察に連絡されかねない。
 
『倫ちゃん、今どこにいるの? まだ学校? 心配なので連絡ください。お父さんも千尋も心配してます』
 
 留守電には、案の定母の心配そうな声が入っていた。今電話をすると根掘り葉掘り聞かれてややこしいことになりそうだから、急いでメッセージを打とうとしてはたと気付く。
 
 そういえばこの運転手さん、さっき何て言った?
 今日は帰らない、などと言っていた気がする。
 もしかして、と思いながら恐る恐る彼の方を見て確認する。
 
「え、えっと……あの、もしかして、私を泊めてくださるおつもり……ですか?」
「ん? そうだよ? 家に帰りたくないんでしょう?」
「た、たしかにそう言いましたけど……いいんですか? こんな、初対面なのに……」
「別にいいよ。俺一人暮らしだし、明日は休みだし。君がいいならだけど」
 
 なんとも簡単に言ってくれる。こんな家出同然の妄動に付き合ってくれるのか。
 それが善意からなのかそうでないのかはまだ判断できないが、とりあえず今日は家には帰らない。それだけは私の中ですでに決定事項だ。
 心配をかけたいわけではないので、私は両親を安心させるためにメッセージを打ち込んだ。
 
『連絡遅れてごめんなさい。今日は友達の家に泊まります、心配しないでください』
 
 送信する。母とまともに話さなくなって長いが、こんな嘘をついたのは初めてではないだろうか。
 送信できたと思ってからすぐにまたメッセージが入る。開いてみると、分かりました、気をつけて、とだけ書かれていた。
 ひとまずこれで、警察に捜索願を出されるような事態は防げた。一安心して、ようやく彼と向き合うことにする。
 
「……ご迷惑をおかけしてすみません。でも、どうして私を助けてくれたんですか?」
「助けただなんて大げさな。困ってるみたいだったから、つい連れてきちゃったんだよ」
 
 つい、でこんな怪しい女を家に連れ込んでしまっていいのだろうか。私も流されて知らない男の人の家まで来てしまったのだから、人のことを言える立場ではないのだが。
 そこでふと、この運転手さんの名前すら知らないことに気付く。今更お名前は、と聞くのも格好悪いが、さすがにこの状況で運転手さんと呼ぶのもおかしい。聞きあぐねていると彼も同じことを思ったのか、思いついたように私に問いかけた。
 
「そういえば君、名前は?」
「あっ……大屋倫です。第三高校の三年生です」
「りん。可愛い名前だね。どんな字?」
「……字は可愛くないですよ。大きいに屋根の屋、倫は不倫の倫です」
 
 お決まりのフレーズでぶっきらぼうにそう言うと、彼は苦笑してから幼子を叱るような口調で言った。
 
「そんな言い方しないの。良い名前なんだから」
 
 真面目にそう返されるとは思っていなくて少し驚く。
 それと同時に、私の卑屈な部分が顔を出してしまったことが恥ずかしい。この性格のせいで、一体これまでどれほど後悔をしただろう。
 また少し自分のことが嫌いになって、そんな負の感情を振り払うように今度は彼のことを聞いてみることにした。
 
「あの……運転手さんのお名前は?」
「俺? 俺は平原ひらはら大和やまと。平原って言いにくいでしょ? みんな大和って呼ぶから君もそれでいいよ」
「えっ……そ、それはちょっと……」
 
 初対面の年上の男性を下の名前で呼ぶなんてできない。さん付けしたとしても、それではまるで恋人同士のようではないか。
 男の子と付き合ったこともないような、恋愛とは縁遠い私にはとてもではないが無理だ。恥ずかしいし、何よりこの人に申し訳ないような気がする。
 
「あの、全然言いづらくないんで、平原さんとお呼びしてもいいですか」
「えー、そう? まあいいけどね。それでさ、倫」
 
 あまりにも平原さんが自然と私を呼んだので、一瞬何を言っているのか分からなかった。間を置いて、彼に呼び捨てされたのだと気付く。
 意外と馴れ馴れしい人だ。ここまでお世話になっておいて、そんなことが言えるはずもないが。

 窺うように彼の顔をじっと見つめる。
 綺麗な顔。ハーフなのかな。こんな人は、自分のことが嫌いになってわざとバスを乗り過ごすようなことはないんだろうな。
 
「……そんなに見つめられると照れるな」
「へっ? あ、ご、ごめんなさいっ」
「ふふっ、別にいいけどね。それで、倫。一宿一飯の恩義として、君は俺に何をしてくれるのかな?」
「え……?」
 
 一宿一飯の恩義。つまり、お返しということだ。
 どうしよう、何も考えていなかった。考えてみれば彼の言う通りだ。何もせずにただお世話になろうだなんて、図々しいにもほどがある。
 
「あ、あの……私、お金持ってなくて……」
「だろうね。じゃあ倫は、何で払ってくれるのかな?」
 
 そう言って、いつの間にか私のすぐ近くに座っていた平原さんがその細い指でそっと私の顎を撫でる。長い睫毛で縁取られた目が私を捕えている。心臓の動きが早くなっているのが、自分でも分かる。これが緊張からなのか恐怖からなのかは、分からない。
 何も言えずにいると彼の手が移動して、私の腰をぐっと引き寄せた。
 
 まさかこれは、そういうことだろうか。
 お金が無いのなら、身体で払えと。
 しかも、労働という意味ではなく、いやらしい意味で。
 
 そう思い至った途端、顔から火が出るくらい熱くなる。男の子と付き合ったことも無ければ、そういった経験なんてもちろんない。キスだってまだなのだ。
 でも、こうして男の人の家にのこのこ付いてきてしまったということは、それを承知で来たと思われているのかもしれない。というか絶対そうだ。さわさわと優しく私の腰を撫でる彼の手が、それを物語っているではないか。
 平原さんに抱かれるのが嫌だというよりも、彼は私なんか相手でもいいのだろうか、と見当違いなことを思いながら、意を決して口を開いた。
 
「ひ、平原さんが良ければ……か、体で払いますっ!」
 
 覚悟を決めて、震える声でそう叫んだ。
 もう、なるようになれ。私の身体ごときで彼が満足するのならそれでいい。今日一晩、家族と離れることができたお礼としては安いものだ。
 
 しかし彼は意外にも面食らった顔をして、それから思い切り吹き出して笑い始めた。
 
「ぷっ……あはははは! 倫、それ本気で言ってるの?」
「えっ!? ほ、本気です!」
「どういう意味か分かってる? 俺に抱かれてもいいってことだよ?」
「だ、だって、平原さんが……!」
「へえ、それはちょっと心外だなあ。俺が、家出した女子高生を手籠めにするほど女に困ってると思う?」
「そ、それは……」
 
 思わない。いっそ、女性の方からでも声をかけられそうなほど彼は整った顔をしているし、喋り方は優しいし、率直に言ってかなりモテそうだ。
 よっぽど私の発言がツボにはまったのか、彼はまだくすくす笑っている。
 もしかしなくても、からかわれたようだ。むっとして、赤くなった顔で笑いの止まらない彼を見つめると、ごめん、と謝ってきた。
 
「あー、面白かった。でも倫、そんなこと簡単に言ったら駄目だよ。それに知らない男の家に付いていくのも駄目。まあ、俺が言えたことじゃないけどね」
 
 笑いすぎて暑くなったのか、彼はシャツの袖を捲ってからペットボトルのお茶を飲んだ。そして、からかわれたのが悔しくて俯く私の目を見て、今度は真面目な顔で言う。
 
「あのさ、倫。もっと自分を大事にしなよ。自分のことを大事にしてやれるのは、自分しかいないんだから」
 
 平原さんの言葉に、思わず目を丸くする。
 
 今まで、自分を大切にしろ、といったようなことは色んな人に言われてきた。けれどそのあとに続く言葉は決まって、「みんなも倫のことが大事なんだから」だった。
 それを聞くといつも、みんなって誰なんだ、私のことなんて大事じゃないくせに、とネガティブな自分が可愛げの無いことを思うのだ。
 
 平原さんの言葉は、それと真逆だった。
 自分のことを大事にできるのは、自分だけ。
 どこか寂しさすら感じるその言葉は、今の私の心にすとんと落ちた。
 
「倫が家に帰りたくない理由はそれ? 自分のこと、やけに卑下してるみたいだけど」
「あ……」
 
 そういえば、まだ平原さんに理由を話していなかった。ここまでお世話になっておいて、理由を話さないわけにもいかないだろう。
 
「……聞いて、くれるんですか? きっと、全然面白くないですよ」
「別に漫談聞こうと思って連れてきたわけじゃないからね。話せる範囲でいいから話してよ」
 
 平原さんの優しい口調で促されて、私は彼に全てを話そうと決めた。私自身、この話は幼馴染にしかしていない。
 うまく説明できないんですけど、と前置きしてわたしは語り始めた。
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