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第一章

1.私は自分が大嫌い

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 私は、自分のことが大嫌いだ。
 
 無駄に高い身長も気に食わないし、細くつり上がった目もコンプレックス。おまけに他の女の子に比べて声が低めなせいで、初対面の人にはまず怖がられる。何もしてないのに。
 
 大屋おおやりんという名前も嫌いだ。苗字は「大家」とか「大矢」なんて書き間違えられることがしょっちゅうあるし、倫という漢字は口で説明しづらい。倫理の倫と言っても伝わらない時は、不倫の倫です、なんて自虐的な説明をしなければならないのも億劫だ。
 
 でも、そんなことよりももっと嫌いなのは、私の性格だ。
 
 ごくまれに「大屋さんって美人だね」なんて言ってくれる人がいても、お世辞としか思えない。私よりももっと美人な子は山ほどいるじゃないか、と思ってしまう卑屈なところがまず嫌いだ。
 
 それから、あらゆることに対してマイナス思考、ネガティブなところも嫌いだ。ちょっと忘れ物をしたりテストで失敗したりしただけで、これでもかというほど落ち込んでしまう。失敗をずるずると引きずってしまって、いつまで経っても先に進めない。
 
 そして一番面倒なのは、こんな根暗な性格のくせに意地っ張りで負けず嫌いなところだ。
 いつだったか、なぜだか知らないうちに同じ学校の先輩に目を付けられて、すれ違いざまに暴言を吐かれたことがある。何の前触れもなく突然、調子乗ってんじゃねぇよ、と。
 そんなものは聞こえなかったふりをしてスルーすればいいのに、私はつい相手を睨み付けながら「どこが?」と、持ち前のドスのきいた声で言い返してしまったのだ。
 私のどこに調子に乗れるような要素があるのか逆に教えてもらいたい、という意味も含んでいたのだが、そんなことが幼稚な相手に伝わるわけもなかった。しかし、それ以降妙なちょっかいを出してくることは無かったので私は静かに勝ち誇っていた。一緒にいた幼馴染に「あんた怖いよ」と言われたことだけはショックだったけれど。
 
 でも、私だって昔からこんな性格だったわけじゃない。昔は身長だってクラスの中で真ん中ぐらいだったし、声だってもっと子どもらしくて高かった。成長する身体を憎んで、そして自分のことを嫌いになった理由ははっきりしている。
 
 高校生になる直前の、ある春の日。あの日から、私は自分のことを愛せなくなってしまった。
 




「おい、大屋! 進路調査票はどうした? まだ提出してないのお前だけだぞ」
 
 授業後のホームルームが終わり、そそくさと教室を後にしようとした時だった。
 担任教師の野太い声で引き止められ、内心げっそりしながらも何でもない顔で応対する。
 
「……すみません、用紙をなくしてしまって」
「なんだ、珍しいな。そういうことなら早く言え。ほら、もう一枚やるから早めに出せよ」
「はい、すみませんでした。来週提出します」
 
 真新しいクリアファイルに、教師に手渡された真っ白な用紙を挟んで鞄に突っ込む。この紙っぺら一枚で私がどれだけ憂鬱な気分になっていることだろう。
 早くこの騒がしい教室から抜け出したくて、鞄の口も閉めずに教室を出た。
 




 今日は全校集会があって変則授業だったから、部活はない。
 部活といっても、私が所属する書道部は自由参加制で、年度初めに発足会をしたときにしか会ったことのない部員も何人かいる。一応形だけではあるが部長を務めているので、私はほぼ毎日参加している。
 もともと字を書くことが好きだが、それ以上に毎日でも部活に参加していたい理由がある。それは決して積極的な理由ではない。
 ただ単純に、家に帰りたくないからだ。

 
 適当に時間を潰そうと、学校から歩いて二十分ほどのところにあるショッピングモールに行くことにした。
 本当は駅前のお洒落なカフェで夜まで一人勉強をしていたいのだが、手持ちのお小遣いでは紅茶一杯で五百円というのは結構な贅沢である。この間、友達と流行りのパンケーキとやらを食べに行ったせいで、財布には千円と少ししか入っていない。
 仕方なく、モール内の本屋で雑誌を立ち読みして、文房具店で新しいノートを買って、友達とよく行くファストフード店で温かい紅茶を頼んで、そこで課題を片付けることにした。
 辺りを見回すと、同じ高校の制服を着た男子数人が騒ぎながらフライドポテトをつまんでいる。うるさいな、と思いながらスマートフォンとイヤフォンを取り出して、目の前の課題と聞きなれた音楽に集中した。
 

 一つ目の課題を終えた頃、机の上に置いていたスマートフォンが振動した。一旦ペンを置いてそれを手に取る。画面に表示されたメッセージとその名前を見て、一気に気分が下降していくのを感じた。母からだ。
 
『今日はお父さんが出張から帰ってきます。倫ちゃんの進路について、三人で今夜話しましょう』
 
 可愛らしい絵文字もついているが、そんなものは欠片も気休めにならなかった。
 私が家に帰りたくない理由が、これだ。

 
 私の家は、父と母、私、それに六つ年の離れた弟の千尋ちひろがいる。千尋はまだ小学生だ。
 明るい父と穏やかな母、それにやんちゃだけど根は優しい弟。端から見ればまさに理想の家族だ。
 私も高校に上がるまではそう思っていた。倫ちゃんの家は仲良くていいね、という友達の言葉に、なんのてらいもなく笑顔で頷いていた。それが変わってしまったのもあの日からだ。
 
 普通に両親と日常会話をするだけでも気が重いのに、進路の話ときた。家に帰るのがますます嫌になる。
 
 こんな日は大抵、幼馴染の家に泊まりに行くことにしているのだが、彼女は少し前からインフルエンザで寝込んでいるのだ。さすがにお見舞いに行くのも憚られる。
 結局気の利いた返信は思い浮かばず、とりあえずあのメッセージは見なかったことにする。もう一つ英語の課題を終わらせてからまた考えよう、と再びペンをとった。
 




「おい、もう七時だ! バス乗り遅れるぞ」
「あ、ほんとだな。そろそろ行くか」
「結局俺ら、課題終わってねえじゃん」
「帰ってからやんの面倒くせーなあ」
 
 ずっと近くで騒いでいた男子たちが、ぞろぞろと席を立ってお店を後にする。
 時計を見るともうすぐ七時だ。この辺りは田舎だから、一本逃すと一時間ほど待たないと次のバスが来ない。しかも次の八時台のバスで最後だ。
 不便極まりないが、この近辺の学生にとっては唯一の交通手段である。私もそろそろ帰らないと、とは思ったがどうしても足が動かない。あのうるさい男子たちと同じバスに乗るのも嫌だったし、家に帰るのもやっぱり嫌だ。次の最終バスに乗ろう。
 
 そう決めて、一応帰りが遅くなることを母に連絡しようとスマートフォンの画面をタップした。お腹がすいていないから、夕飯もいらない。絵文字も付けずにその旨だけを送る。あと一時間もあれば、来週の月曜日の授業の予習までできそうだ。
 
 家族と過ごす時間が嫌になってから、やることがないからとりあえず勉強をしていたおかげで成績は伸びた。今日のように帰りが遅くなっても、幼馴染の家に泊まることが増えても、成績が落ちていないから両親は私に何も言えないようで、黙って静観してくれている。
 この先もずっとそれが続くようにと願いながら勉強している私を、自分でも馬鹿らしいと思った。
 

 八時を少し過ぎたあたりで、机に広げたノートや教科書を片付けることにした。
 最終バスは八時十六分発だ。私の通う高校のある方向から、今いるショッピングモールの前を通って家の近くのバス停を通る路線バスに乗る。いつものルートだ。
 のろのろと立ち上がって、バス停へと向かった。





 バス停に着くと、制服を着た女の子たちやスーツを着込んだサラリーマン風の男性、買い物袋を下げた女性など数人がバスを待っていた。私もその中に混じってバスが来るのを待つ。
 四月とはいえ、夜になるとまだ少し肌寒い。今日は風が強いからなおさらだ。制服のポケットに手を突っ込んで立っていると、五分ほどしてバスがやってきた。
 
 バスに乗り込んで、私は何の迷いもなく一番前の右側の一人席、運転席の真後ろに座る。
 昔から、ここの席が好きだった。少し高さがあって、窓からは普通の車とは違う景色が見える。衝立の隙間からは運転席が少しだけ見えて、白い手袋をした運転手がいろいろなボタンを操作しているのが見えるのも楽しい。真後ろだから、運転手の顔が見えないのもいい。遠慮なくその華麗な手さばきを見ていられるからだ。
 今日もその特等席に座って、窓の外を眺めていた。流れていく街の景色を見ていると、何も考えなくて済む。
 すると、再びスマートフォンが震えた。嫌な予感を感じながらそれを見ると、また母からのメッセージだった。
 
『まだ学校なのかな? お父さんはもう帰って来ました。待っています』
 
 待っています。
 
 何気ないその一文が、今の私には重石のように思えた。

 待ってくれなくていい。私のことなんて忘れてほしい。
 だって私は、あなたたちのことを忘れたいのだから。
 
 家族と距離をとるようになってから、自分のことが嫌いになった。むしろ、自分のことが嫌いになったから家族と一緒にいられなくなったのかもしれない。
 キラキラと輝くような理想の家族像の中に、私の居場所が見つけられなくなってしまった。
 すべてはあの日、私が真実を知ってしまったからだ。
 
 現実から目を逸らすように、私は窓の外を見た。
 見慣れた公園、スーパー、郵便局。家のすぐ近くだ。もうすぐ家に着いてしまう。
 
 嫌だ。帰りたくない。話したくない。向き合いたくない。
 何も知らないままでいたかった。でも、もう元には戻れない。
 
「一条団地前、一条団地前です。お降りのお客様いらっしゃいませんか?」
 
 運転手の少し低めの声がする。家の最寄りのバス停だ。

 降りなければ。
 でも降りたくない。
 降りてしまったら、家族と、自分と向き合わなければならなくなる。
 
「……発車します」
 
 プシュ、とバス独特の空気が抜けるような音がして、扉が閉まる。
 そしてバスは動き出した。道路沿いにある私の家が見える。明かりがついている。私を待っているのだろうか。
 

 景色はどんどん変わっていって、家から離れてほっとしている自分と、このままどこへ行けばいいのだろう、と今更不安になる自分がいた。
 確かこの先はずっと住宅地だ。この路線の終点は操車場になっていて、バスもそこで車庫に入るはずである。
 
 どうしよう。やっぱりどこか適当な所で降りて、反対方向のバスに乗って家に帰ろうか。
 でも、家に帰ってどうすればいいのだろう。そもそも、まだバスはあるのだろうか。この方向のバスはこれで最終だから、反対方向の最終バスももう行ってしまったんじゃないだろうか。
 
 頭の中でじっと考えているうちに、バスの乗客はいつの間にか私一人になっていた。
 同じ高校の生徒たちも、会社帰りのサラリーマンもいない。一人になると、急に不安が襲ってきた。

 帰ろう。次で降りよう。バスがもう無かったら、歩いて帰ろう。
 そう思って慌ててバスの前方の電光掲示板を見ると、次は終点、と太めのゴシック体で書かれているのが見えた。
 
 しまった。もう終点まで来てしまった。
 
 どうすることもできず、ただ私は座っていた。
 もう帰れなくてもいい。帰ったところで、私の居場所はないのだ。随分遠くまで来てしまったが、それもどうでもいい。案外、家族は喜んでいるかもしれない。私がいなければ、家族は前と変わらず過ごせるのだから。

 そう考えた途端、急に涙が溢れてきた。知らない場所まで来てしまった不安と、帰る場所のない孤独感が一気に押し寄せてくる。
 
「学生さーん? 終点ですよ」
 
 急に声をかけられて、ぱっと顔を上げる。そこには、困った顔をして私を見つめる運転手さんがいた。

 すっと通った鼻、薄い唇。切れ長の目は、鈍く輝く琥珀色を宿している。
 こんな状況にも関わらず、私は日本人離れしたその美しさに見入っていた。

 すると、彼がいきなり私の顔に手を伸ばす。そして、私の目元を手袋をしたままの指でそっと拭いた。
 
「ひっ! な、なにを……!」
「……泣いてたの?」
 
 そこでようやく、自分が泣いていたことを思い出す。
 恥ずかしい。終点まで居座って泣いているなんて、何かあったのがバレバレではないか。
 ただ黙って俯いていると、その運転手さんが心配そうに眉を下げて尋ねてくる。
 
「家はどのへん? 一人で帰れる?」
「あ、えっと……」
「ごめんね。このバス、これで車庫に入っちゃうんだ。なんだったら、親御さん呼ぶ?」
 
 彼の言葉を聞いて、胸に開いた穴に冷たい風が吹き込むような思いがした。
 乗り過ごして終点まで来てしまったなんて言ったら、また心配をかけてしまう。そのうえ、帰れないから迎えに来てだなんて言えない。帰れない。

 そう思ったら、世界で自分は一人きりになってしまったような気がして、拭いてもらったはずの涙が再び流れ出した。
 
「いや……嫌、なんですっ……家に、帰りたくない……!」
 
 初対面の人の前でぼろぼろと涙を流してしまうほどに、自分は追い詰められていたらしい。
 泣きたくないのに、どうしても涙は止まってくれない。

 そういえば、人前で泣くのなんて何年ぶりだろう。
 昔は泣き虫だった。何か思い通りにいかないとすぐに泣いて、両親を困らせた。今では、泣くことはおろか、自分の気持ちさえ両親には話せなくなってしまった。
 
 そのまま泣き続けていると、運転手さんが私の肩にぽん、と手を置く。手袋越しでも、その手は確かに温かかった。
 
「……分かった。帰りたくないんだね。でも、ずっとここに居ると怒られちゃうんだ。とりあえず降りて、そこのコンビニで待ってて」
 
 彼はそう言って、操車場の向かいにあるコンビニを指差した。状況を理解できないまま荷物を持たされて、背中を押されてバスから降りる。
 
「俺、バス車庫入れして勤怠切ったら行くから。勝手にどっか行っちゃ駄目だよ、コンビニにいてね」
「へっ? あ、あのっ……!」
 
 私が何か言う前に、彼はもう一度バスに乗って行ってしまった。

 ぽつん、とその場に立ち尽くす。一体どういうことだろう。
 とりあえず、見知らぬ場所に来てしまった今、頼れるのはあの運転手さんしかいない。彼の言う通りにしよう。
 
 運転手さんが指差した向かいのコンビニに向かって、雑誌を立ち読みしながら彼が来るのを待つことにする。
 でも、雑誌の内容なんか頭に入ってくるはずもなく、私は不審者さながら自動ドアが開閉するたびにそちらに目をやっていた。
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