光と音を失った貴公子が望んだのは、醜いと厭われた私の声でした。

緋田鞠

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   ***

 ランドールが、光と音を奪われてから二か月半。
 元より器用な方だと自覚しているが、習うより慣れろとは、よく言ったものだと思う。
 自分の寝室と、内扉で繋がった執務室、応接間の三か所だけを行き来しているので、見えなくても然程慎重にならずに歩けるようになった。
 最初のうちこそ、家具に脛をぶつけて悶絶し、扉を開けるつもりで額をぶつけていたが、次第に距離感を掴めるようになってきた。
 目と耳を塞がれて発達したのは、空間把握能力だけではない。
 嗅覚も、鋭くなったと思う。
 入室した人物が訪いを告げる前に、漂う香りで判別出来る人物が増えてきた。
 アレクシスは柑橘系の爽やかな香り、セルバンテスは珈琲のような香ばしい香り。
 何よりも、アマリアの鈴蘭のような清潔感のある香りが鼻先を擽ると、気持ちが落ち着く。
 夜会で令嬢達がたっぷりと吹き付けている薔薇や百合のような華やかな香りではなく、自己主張の控えめな香りは、仕事を補佐する時の彼女によく似ている。
 初めは、彼女が、突然欠如した自分の目と耳の代わりを果たしてくれるから落ち着くのだ、と思っていた。
 最初に見たものを母と慕う雛のように、唯一声が聞き取れる彼女に安堵するのだと。
 一目惚れならぬ一聞き惚れと言うのか、女性にしては低い、包み込むような落ち着いた彼女の声は、胸の奥深くに届き、安心させる。
 けれど、どうも、それだけではないらしい。
 アレクシスから、アマリアは騎士達に慕われているのだと聞いた時に感じた動揺。
 初めての気持ちに、それが何なのか判らずに戸惑ったが…一晩考えて、それはどうも、嫉妬と言うものらしい、と気づいた。
 嫉妬。
 誰に?
 騎士達に、だ。
 自分はまだ、アマリアの顔をまともに見た事もない。
 仕事の為に一日中、傍にいるが、私的な会話など、交わした事もない。
 それを、臆せずに出来る騎士達に、嫉妬した。
 道具、と言う程、割り切っていたわけではないが、最初は、自分の体が回復したら、これまで通り、王宮の侍女に戻る人間だと思っていた。
 廊下ですれ違った時に、声位は掛けるかもしれないが、仕事の接点がなければ、それで終わる関係だと。
 けれど。
 今は、違う。
 従姉妹達や、茶会や夜会で遭遇する令嬢達を見ていて、貴族女性の仕事は、社交であると思っていた。
 政治的な話や、学術的な話が出来ないのは仕方がない。そもそも、貴族女性にそれを求めていないのは、自分達、男性なのだから、と。
 だがアマリアは、当初想定していた目と耳の補助だけでなく、ランドールの執務そのものを補助してくれている。
 補佐官達は、それぞれ専門の分野に関しては知識が突出しているが、専門外に関してはさっぱり判らない。
 アマリアは、専門的な知識については劣るが、分野の偏りなく、広範囲の知識を有する。
 これまで、ランドール一人では間違いなのかどうか確信の持てない疑問は、それぞれ専門の補佐官に差し戻し、確認させていた。
 結果として、やり直しが必要だったものもあるが、問題なかったものもあり、時間が余分に掛かっていた
 現在では、ランドールにない知識をアマリアが、アマリアにない知識をランドールが持つ事が多い為、補い合った上で、専門補佐官の確認の有無を判断する事が出来る。
 結果、これまでよりも順調に審査が進んでいる。
 今後、アマリアなしでは執務が滞ると心配になる程だ。
 だが、仕事の助けになるからと言う以上に、穏やかな声を、香りを、そっと寄り添う熱を、失いたくないと感じるようになっていた。
 きっかけは、何だったか。
 仕事を分散させる為の案を、控えめながらも提案してきた時だっただろうか。
 顔と名前を同時に覚える習慣のランドールにとって、顔の判らないアマリアは、何処かふわふわした輪郭のない存在だった。
 耳に残る声も、清楚な香りも、はっきりと存在感を示しているのに、顔が判らないと言うだけで、現実味が薄く感じていたように思う。
 その彼女と、仕事上の内容とは言え言葉を交わすうちに、ランドールは自分の中に女性に対する偏見があった事に気づき、そして、アマリアがその偏見を凌駕してなお、興味深い人物である事を知った。
 気が付けば、アマリアはランドールの心の中で、大きな存在となっていた。
 彼女の私的な面を、何一つ、知らないと言うのに。
「…殿下?いかがなさいましたか?」
 物思いに耽っていたら、アマリアが書類を読み終えた所だった。
 署名の有無を尋ねられて、慌てて返す。
「っすまない、少しボーっとしていたようだ。もう一度、読んで貰えるか?」
「はい、承知致しました」
 苛立つ様子もなく、アマリアがまた初めから、淡々と書類を読み上げる。
 抑揚を抑え、地名や重要な項目のみ、声を少し張る方が、ランドールが聞き取りやすいと判明した中で、段々と出来上がった読み方だった。
「この件は、これでよい」
「署名なさいますか?」
「あぁ」
 頷くと、アマリアが墨壺の蓋を開けたのだろう、墨の匂いが嗅覚を刺激する。
「御手を失礼致します」
 ランドールの右手をそっと掴んだアマリアが、署名の位置まで誘導した。
「こちらです。通常の書類よりも、署名欄が狭いので、いつもの八割程の大きさがよろしいかと」
 ランドールの人差し指に己の手を添えて、
「こちらから、こちらまでです」
 署名欄の大きさを、なぞって知らせる。
 いつもであれば、署名欄の位置を知らせるだけなのに、今回は特殊な条件だったからだろう、アマリアの熱を右腕全体に感じて、思わずランドールは息を飲んだ。
 鼻先に香る鈴蘭の香りが、墨の匂いを覆い隠してしまう。
 自分の頬が、熱を帯びた事にランドールは気づいた。
「…殿下?」
「あぁ、いや、判った。ペンを」
 ランドールが頷くのを見て、アマリアは墨を吸わせた硝子ペンを手渡す。
 署名の済んだ書類は、吸い取り紙に余分な墨を吸わせた後、乾くまで棚に広げておき、王宮の執務室とランドールの執務室を行き来するアレクシスが来た時に、まとめて渡すのだ。
 アマリアは、署名がはみ出さないようにする為か、いつもよりも近い位置で書類を覗き込んでいるらしい。
 ランドールが僅かに身じろぐだけで、服が擦れ合う位置に立っている。
 早い鼓動を意識しながら、ランドールは、署名の大きさの調整に苦慮する振りをして、ゆっくりと署名した。
(これは…)
 鈴蘭の香りを、胸一杯に吸い込む。
(私は…彼女を、)
 動揺して普段と様子の違うランドールが気になるのか、アマリアが小さく尋ねてくる。
「殿下、休憩なさいますか?お茶をお淹れしましょう」
「あぁ…そうしてくれるか」
 執務中に、仕事以外の事を考えるなど、これまでのランドールではあり得ない事だった。
 お湯を貰いにアマリアが執務室を出ると、思わず深く溜息をついて、一人であるのをいい事に背もたれにだらしなく体を預け、天井を仰ぐ。
 目が見えない事にも慣れて来たのに、どうしようもなくもどかしくて、硬質な仮面を両手で覆った。
(私は、彼女に好意を持っている)
 何処までの関係を望んでいるのか、自分でも漠として判らない。
 ただ、婚約破棄を受けて、異性との関係に躊躇しているだろうアマリアを思うと、一方的に気持ちを押し付ける事はしたくない。
 王族から求められたら、彼女に拒否権はない。
 ランドールの心情として、本当に嫌ならば拒んで欲しいと思っていても、身分制度が根付いているこの国では、内心でどう思っていても、拒めるとは思えない。
 それに、彼女の父は、長い事、王宮に勤めている書記官長ではあるが、身分は伯爵。
 彼女自身にいたっては、王都での生活経験も浅い地方貴族だ。
 王族が異性に好意を示す事は、そのまま、婚約者候補として名が挙がる事を示す。
 いずれ王弟となる身の婚約者候補として、公爵令嬢や侯爵令嬢を差し置いて、周囲の誰をも認めさせられるのか。
「…だが、離したくない」
 交際した上で互いの気持ちを確かめてから求婚する、と言った平民に一般的な結婚までの流れは、王族であるランドールには縁のないものだ。
 王族である自分が、ただ相手を知る為に交際する等、許されない。
 後ろ暗い関係ではないと表明する為にも、婚約者候補として社交界に広く認知させる必要があるのだ。
 もしも、そうなったら、彼女は、高位の貴族達から嫌がらせを受ける事になるだろう。
 王族に娘を嫁がせる為なら、王族に嫁ぐ為なら、何でもしそうな父親とその娘達の顔が、続々と思い浮かぶ。
 アマリアは、社交界での交流が殆どなかった、と聞いた。
 成人して直ぐに婚約した相手が、彼女を茶会や夜会でエスコートするのを嫌がったかららしい、とは、アレクシス調べだ。
 婚約者がいるのに、他の相手にエスコートを頼むわけにはいかないのだから、社交界の経験が少ないのは当然だろう。
 王宮に上がっても、侍女達の中で遠巻きにされている、と侍女長のエリカからも報告を受けている。
 容姿が目立つ事、優れた能力を持ち、他の侍女が苦労した仕事を直ぐに覚えてしまう事、口数が少なく、侍女達の噂話に乗って来ない事…女性の世界でそれらは、仲間ではない、と認定されてしまう要素らしい。
 これでは、彼女に悪意を持つ人物の情報を提供してくれる伝手も、それとなく守ってくれる相手もいないだろう。
 一緒に仕事をしていて、彼女の能力が文官と引けを取らない位に高い事は判っている。
 けれど、文官として優れている者と、社交界で幅を利かせている者が同じではないように、女性の世界でも、本人の能力と社交界での影響力が等しいわけではないのだ。
 今現在、目と耳に障りのあるランドールは、アマリアを慕わしく思っている。
 だが、王族の結婚が、個人の好悪のみで決定出来る程、簡単なものではない事も、十分に理解出来ていた。
「…私は、どうしたいのだ」
 アマリアを、ずっと傍に置いておきたい。
 他の男の隣に、立たせたくない。
 王族の自分の傍にいる苦労を、させたくない。
 目が見えないからこそ、他の要素に左右されずに彼女の内面を好ましく思っているのだが…目が見えるようになった後も、純粋に好意のみで慕う事が出来るものなのか、自信がなかった。
「失礼します」
 叩扉と共に、アレクシスが入室し、天井を仰いだままのランドールの姿に驚いて声を上げる。
「殿下?どうなさいました?アマリアさんは?」
 思わず、いつもの調子で声を掛けてから、ランドールには雑音だった、と黙り込むと、アレクシスの言いたい事は伝わったのか、ランドールが気だるげに答える。
「彼女は今、湯を貰いに行っている。私は…そうだな、少し、気分が乗らない」
「えぇ?お疲れが出たんですかね…」
 聞き取れないまでも、心から心配しているアレクシスの様子は脳内に鮮明に浮かんだ。
 何かと顔を出すセルバンテスも、宮廷魔術師サングラも、これまで接点は余りなかったが魔術医療師エルフェイスも、声の調子でどんな表情なのか容易に思い浮かべられる。
 けれど。
 アマリアの顔は、浮かばない。
 長い赤い髪の侍従が、あの事件の起きた部屋にいた、と言う記憶はあるが、顔を伏せがちにしていたからか、はっきりと顔を見なかった。
 声も匂いも鮮明なのに、彼女はどんな表情で自分を見ているのか、全く予想がつかない。
 願わくば、自分の目を、同じように見つめ返して欲しい。
「…重症だ」
 小さく呟くランドールに、益々アレクシスが慌てるのを気配で感じていると、アマリアが戻って来た。
「アレクシス様。いらっしゃっていたのですね」
 唯一聞き取れる柔らかな声で、他の男の名を呼ばないで欲しい。
 独占欲が胸の中で膨らんで、思わずシャツの胸元を掴むと、アレクシスとアマリアが慌てたように声を上げるのが判った。
「殿下?!苦しいんですか?!」
「エルフェイス様をお呼びしましょうか?」
 魔術医療師の名を出して、アマリアが心配している。
 自分の身を案じてくれると思うと、じわじわと心の底が温かくなる。
「…大丈夫だ。茶を頂こうか」
「はい、お淹れ致しますね」
 カチと、茶器の触れる硬質な音がした後、清涼感の中に甘さのある香りが部屋中に広がる。
「どうぞ」
 執務机の上から、書類や墨壺、ペンを移動させて、万が一、茶器を引っ繰り返しても問題ないようにしてから、アマリアはランドールの前に茶器をそっと置いた。
「まだお熱いので、火傷なさいませんよう」
 完全無欠と思われているランドールの弱点である猫舌に、さり気なく注意を促してから、アマリアはアレクシスの元にも茶器を運ぶ。
「あぁ、そうだ、殿下、ご報告が。アマリアさん、伝えて頂けますか?」
「はい。殿下、アレクシス様よりご報告です」
「何だ」
「陛下の在位記念式典ですが、チートスからの来賓が変更になりました。ローワン王太子殿下ではなく、レナルド国王陛下、御自ら、ご来臨賜れるそうです」
 アマリアが、アレクシスの言葉をそのまま伝える。
「…レナルド陛下が?」
 呟くと、ランドールは考えるように右手を顎に当てた。
「レナルド陛下は、国内の視察には精力的に動かれるが、国外へは滅多にお出でにならない事で有名な方だ。その陛下が、予定を変更されてまでロイスワルズに…」
「今回のアンジェリカ王女殿下の件で、直接、顔を合わせる機会をお作りになりたいのでは」
「その可能性は高いな。ご要望があれば、個人的な面談の時間を作れるように、余裕のある日程にしておいてくれ」
「承知致しました」
 アレクシスは頭を下げると、スッと仕事の顔から切り替える。
「あと三週間で記念式典ですね。式典は、王宮の文官武官の長と各国来賓のみ出席ですが、夜会にはアマリアさんも、トゥランジア伯爵令嬢として参列して下さいね」
「え?」
 アマリアは驚いてアレクシスの顔を見上げ、続けてランドールを窺った。
「記念式典の夜会にご招待されているのですか?ですが…私は王宮の侍女ですから、夜会の時はお客様のご案内があるのでは」
「貴女は補佐官室付きですから、お客様のご案内には携わりませんよ。既に夜会に関係する人員は確保済みです」
「でも…後一週間もすれば、殿下の抱えてらっしゃる問題も解決するのですよね?そうしたら私は、王宮の侍女に戻るのでは」
「おや、誰が殿下が回復するまで、と言いましたか?」
 困惑するアマリアに、ランドールも深く頷く。
「貴女には、補佐官室付きの辞令が渡っている筈だが?」
「はい、頂いております」
「そこに、期限が書いてあったか?」
「…いえ…ですが、私は、殿下の補佐をしているだけです。ご回復されたら、私の仕事は不要ではないでしょうか」
 戸惑いつつも、自分の主張をするアマリアに、ランドールは溜息を吐いた。
「そうだな、確かに、私が回復すれば、これまでのように文書を読み上げて貰う必要はなくなる」
「はい」
「だが、貴女にいなくなられるのは困る」
「…え?」
 ランドールに求められているように聞こえて、アマリアの胸が高鳴る。
(そんなわけ、ないのに)
「仕事が山積みで万年人手不足なんですよ、補佐官室は」
 アレクシスの言葉に、アマリアは目を瞬いて、淡く微笑んだ。
(…そうよね)
「何が出来るか判りませんが、私がお役に立つのでしたら…」
 アマリアの固い声の調子に、何か気づいたランドールが首を傾げて、アレクシスへと顔を向けた。
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「なので、どうぞ、末永く補佐官室専任でいて下さいね。いやぁ、俺としても、鬼上司…げふん、愛情深い上司のお守りが出来る方が他にいると、ほんと、体が楽で楽で…知ってます?俺、ここ二か月半、休日ゼロなんです…可愛い可愛い婚約者の顔を見る暇もないんですよ~」
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 力一杯言うアレクシスが、アマリアに目で伝達を訴える。
「…だが、執務をしなくとも、私は一人では何も出来ない」
 長年、付き従っている侍従ジェイクは、ランドールの状態を知っている為、湯浴みも着替えも食事も不自由ないが、数日間、会話が成り立つ相手がいないのでは、休暇にはならず、鬱憤が溜まる。
「ですよね。そこで!アマリアさん」
「っはい」
 他人事として話を伝えていたアマリアは、自分の名を呼ばれて驚いて顔を上げた。
「殿下には、執務禁止と秘密保持の為に、王城ではなく、マイルスにある離宮で休暇をお過ごし頂こうと思います。殿下のお体の事を知っている侍従と、厨房から出る事のない料理人だけを連れて行って頂く予定です。ですが…話し相手がいない鬱憤はよぉく判るので、アマリアさん、お供して頂けませんか」
「え?私ですか?」
 アレクシスの言葉をランドールに伝えるのも忘れ、思わず呆然とすると、焦れたようにランドールがアマリアの袖を引いた。
 紳士である彼が、自らアマリアに触れるのは初めての事だ。
「アレクシスは、何と?」
「はい、あの…殿下がお仕事をなさらずに済むよう、また、お体の事が周囲に漏れないよう、マイルスの離宮で休暇をお過ごしになって頂きたいとの事です。その…お話し相手として、私もご一緒に、と」
「っ!」
 ランドールは、アレクシスがいるであろう辺りを思わず睨みつけたが、堪えた様子はない。
「実はですね、これはエルフェイス殿からの指示でもあるんです。これまで、魔法石の装具で視界を覆って暗黒にして来ましたが、これからは、徐々に光に慣らしていく必要があるそうなんです。詳しい手順はエルフェイス殿から説明がありますけど、その間、お仕事による負担を与えないように、との指示でして。なので、俺もついでに休暇を頂きたいなぁ、と」
 アレクシスの言葉に、ランドールは唸るようにして黙り込んだ。
 魔術医療師の指示なのだから、従う他はないのだが。
(彼女と…離宮に?)
 仕事もなく、完全に私的な休暇で共に?
「だが…未婚のご令嬢と、二人など…」
「殿下にとっては休暇ですけど、アマリアさんにとってはお仕事ですから」
 歯切れ悪いランドールに、アレクシスがきっぱりと言う。
 それでも躊躇う様子のランドールを窺って、居心地が悪くなったアマリアが口を開こうとすると、アレクシスが先んじて釘を刺した。
「ちなみにですけど、セルバンテス殿は式典準備で大忙しなので、離宮に連れてかれちゃ困ります。耳の酷使も禁止ですから、リリーナ様にお願いするわけにもいきません。俺が殿下とやってるように、手に指で文字を綴るのも、会話は疲れるから不可です。アマリアさん、貴女しか、適任者がいないんですよ。殿下のご回復の為に、お願いします」
「…殿下がよろしければ、私に異存はございません」
「有難うございます。お父上には、許可を取ってありますからね」
 既に根回し済みのアレクシスを、ランドールは再度睨みつけるが、アレクシスは飄々としている。
「じゃ、これで決まりですね。慣らし期間は五日間だそうですよ。なので、三日後から離宮で休暇を取って頂きます。急ぎの仕事は既に終わらせてありますが、明後日までに、出来るだけ進めますからね。一先ず、休憩終了って事で、片付けをお願い出来ますか?」
「はい」
 茶器を回収したアマリアが、厨房に片付ける為に退室すると、ランドールはアレクシスに手を差し出して、胡乱げに低い声を発した。
「…トゥランジア伯の許可が出ていると言うのは、本当か」
 アレクシスは、肯定の意で一度ランドールの掌を叩いてから、
『アマリアさんと殿下の二人、とは話してませんけど』
と綴る。
「っ、それは、騙していると言うんだ!」
『嘘も方便、ですよ』
『書記官長殿には、殿下のお体の話はしてませんからね』
「だが…彼女は未婚だぞ。未婚のご令嬢と男を二人にしておく親はいまい」
『おや』
 くすり、と、アレクシスが笑う気配がする。
『殿下が紳士なら、何も問題ないでしょう?』
「お前…」
 ぐるぐると、ランドールの中で渦巻く思い。
 独占欲。庇護欲。
 彼女の事をもっと知りたいと思う一方で、お互いの立場を考えると、これ以上、惹かれたら危険だとも思う。
 この気持ちが何処からやって来るのか、判らなくて怖い。
 この先、どう動くのが正解か、判らなくて怖い。
「…お前には、私の気持ちなど、手に取るように判っているのだろう?」
 ランドールは、諦めたように溜息を吐いた。
 アレクシスは、ランドールよりも三か月早く生まれた伯爵家の嫡男だ。
 母親が、結婚するまでリリーナの侍女だった事もあり、ランドールの乳母になった。
 その為、アレクシスはランドールが生まれた時からずっと、傍にいた。
 幼い頃から、美しい天使のような子供だと賞賛を受けるのが当たり前。
 教えれば教えただけ身につくから、勉強も剣術も馬術も皆、優れた結果を残す。
 社交界に出てからは、茶会でも夜会でも、出席すれば周りを着飾った令嬢達に取り囲まれる。
 彼女達は、自分を売り込む事に必死で、ランドールを熱く見つめるわりに、彼の浮かべるうんざりとした表情には気づかない。
 いずれは、王家の為になる相手と結婚しなくてはならないのだ、と飲み込んではいたけれど、自分の気持ちを押し付けるばかりの令嬢相手では、その気になどなれなかった。
 そんな令嬢方を鬱陶しく思うランドールの気持ちを、一番よく理解し、その上で忠告していたのはアレクシスだ。
 共に暮らす相手なのだから、冷めた目で一線を引くのではなく、大切にし合えるように努力すべきだ。
 殿下は一度、今いる家族以上に他の誰かを大切に思う経験が必要だ、と。
『さすがに全部は無理ですよ』
 アレクシスが、ランドールの手を宥めるように両手で包み込む。
『でもね、長い付き合いですから、見てれば判ります』
『アマリアさんの事が、気になっているんでしょう?』
 躊躇しつつも、ランドールは僅かに頷いた。
『自分以外の誰かが気になるって、素晴らしい経験だと思います』
『すぐに婚約だとか結婚だとか、考えなくてもいいですよ』
『まずは、アマリアさんとゆっくり、仕事以外の事を話す機会を作りましょう』
 それが、離宮での休暇だと言う。
『その上で、やっぱり傍にいたいと思ったら、そこから考えましょう』
『大丈夫。俺は、殿下の味方です』
「…あぁ」
 自分の気持ちは信じられなくても、それだけは、信じている。
「大丈夫だよ、ランディ」
 幼い頃のように、愛称で呼んで、ぽんぽん、と腕を優しく叩くと、す…っとアレクシスが離れる気配がして、直後、叩扉の音と共にアマリアが戻って来た。
「只今、戻りました」
 きっと、この休暇は、ランドールにとって、得難い経験となるだろう。
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