光と音を失った貴公子が望んだのは、醜いと厭われた私の声でした。

緋田鞠

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   ***

 離宮へと移動する日。
 アマリアは、久し振りに王都にある屋敷で朝を迎えた。
 王城の個室を与えられたものの、日々の仕事はお仕着せで行うし、茶会や夜会への招待もないから、持って行っていたのは、僅かな手回り品のみ。
 ランドールとアレクシスには休暇がなかったが、アマリアもまた、丸一日の休暇と言うものは、補佐官室付となってからは一度もなかった。
 与えられた休暇はせいぜい半日のもので、その時間も王宮内の書庫で過ごしていたから、特に必要なものがなかったのだ。
 だが、ランドールの休暇中の話し相手、と言う仕事では、お仕着せではなく、デイドレスで過ごすように指示されてしまった。
 その為、五日間の滞在に必要な準備をするべく、昨日の業務終了後、屋敷へと帰宅していた。
 離宮へ向かう馬車は、ランドールの侍従ジェイクが手配してくれている。
 王家の紋章付きの馬車では目立つので、地味な馬車が迎えに行きますけど、中身は王家仕様ですから、安心して下さいね、とはアレクシス談。
 所謂、お忍び用なのだろう。
 アマリアは、久々の自宅での朝食を終えた後、旅装へと着替えた。
 離宮には、ゆっくり行っても馬車で半日掛からない程度だそうだ。
 幾ら、王家の馬車とは言え、馬車内の空間は限られている為、スカートの生地の分量が控えめで、長い間、座り続けても苦しくならないように、上半身のゆとりがあるものを選ぶ。
 マイルスの離宮は水場に囲まれているので、王都よりも涼しいと聞いたが、じわじわと気温が上がり、汗ばむ時期の事。
 てろんとした手触りのペティコートに、深紅の髪色が映える落ち着いた青灰色の薄物のドレスを重ねる。
 離宮滞在中は、王城と同様に身の回りの事を全て、自分でしなくてはいけない。
 その為、コルセットを締め付けるようなドレスではなく、一人で背中の釦で脱ぎ着出来るものを選んでおいた。
 その分、腰回りが緩くなるのを、サッシュベルトで締める作りだ。
 髪型も、ピンをたくさん使って編み上げると、移動中に辛くなるので、両横の髪を編み込んで後ろに一つに結んだ他は、腰まである長い髪をそのまま、後ろに流しておく。
 服を詰めた旅行鞄に僅かに隙間があったので、お気に入りの詩集を一冊と、編み掛けのレースの肩掛けを入れた。
 実際に、「話し相手」としてランドールの傍にいる時間がどの程度あるものか、想像がつかないからだ。
 準備を万端に整えて、馬車の迎えを居間で待っていると、出仕する父が顔を出した。
「アマリア」
「お父様」
「補佐官室の仕事はどうだ?同じ侍女とは言え、王宮の侍女とは違うだろう?」
 ギリアンは、ランドールの体の事を知らない。
 これまでのように執務しているのだから、大した怪我は負わなかったのだろう、溜め込んだ仕事の処理を優先する為に、表に出て来ないのだろう、と思っている。
「そうですね…最初は戸惑う事もありましたが、今では遣り甲斐を感じております」
 父が、婚約破棄された自分を案じて王都に呼び寄せた事を、十分理解しているアマリアは、にこりとギリアンに笑い掛けた。
 アマリアの笑顔を見て、ギリアンがホッとした顔を見せる。
「あ~…で、だな。ヘイネード殿から、お前が王城勤務の騎士達に、その、恋文を渡されていると聞いたのだが…」
「嫌ですわ、お父様。揶揄わないで下さい」
「だが…」
「お手紙を頂く事があるのは事実ですけれど、恋文などと思われては、騎士様方に申し訳ないです」
 ギリアンは一瞬言葉に詰まって、娘の思いがけぬ幼さに苦笑した。
「そうか…単なる手紙か」
「そもそも、コバルに婿養子に来て下さる方でないと、私は結婚出来ませんもの。王城にお勤めの騎士様にそれを望むなど、高望みと言うものでしょう」
 淡く微笑む娘の姿に、ギリアンは胸を締め付けられる思いで、思わず言い募る。
「前にも言ったが、コバルは領主が変わってもやっていける。後継ぎの事など、考えずともよい。お前は、お前の幸せを考えてよいのだぞ?」
「私の、幸せ…?」
 きょとんとしたアマリアを見て、ギリアンは後悔の念に苛まれた。
 トゥランジア家は家柄だけは古いが、そのせいなのか、子供になかなか恵まれない。
 ギリアンの父も二人兄弟で、ギリアンは一人息子だ。
 アマリアは遅くに生まれた一人娘で、トゥランジア家に仕える者達や領民から、幼い頃から婿養子を取る事を望まれていた事には気づいていた。
 ギリアン自身も、アマリアには交流のある貴族の家から、爵位を継がない次男か三男と娶せて、領地を継がせる事が幸せなのだと考えていたのだが…それがどれだけ、アマリアの心に負担となっていたのか、思い知る。
 母を生まれた時に亡くし、父であるギリアンは王都で離れて暮らし、幼いアマリアの心を丸ごと受け止めて、甘えさせてやれる存在がいなかった事に、今更気づいた。
 素直で優しく育ってくれたから安心していたが、それはただ、周囲の期待に応えたいが為だったのだろう。
 周囲の望むように。
 それが行動指針だから、アマリアには自分の希望がない。
 父や領民の望むまま、婿養子を取ろうとする。
 父の望むまま、王宮に勤める。
 一度も我儘を言わぬよく出来た子だ、とセルバンテスに自慢すると、彼が何か言いたげな顔をしていた事を、思い出した。
 彼はきっと、アマリアの何処か歪な心のありように気づいていたのだろう。
「そうだ、アマリア。お前自身の幸せだよ。コバルの事を心配する必要はないのだ。お前が、この人と添いたい、と思う方があれば、嫁いでよいのだよ」
「ですが…」
「直ぐに、思う人が現れるとは私も思っていない。けれど、婿養子を前提に考える必要は、ないのだ。私は、アマリア、お前が幸せになってくれる事が、望みなのだよ」
「…少し…難しいですが…努力しますわ」
 きっと、今のアマリアには、それも「父の望み」として努力を要する事柄なのだろう。
 どう言えば伝わるのか判らなくて、ギリアンは唇を噛み締めた。



 トゥランジア邸の車寄せに停まったのは、大きめの箱型馬車だった。
 綺麗に手入れされた毛並みを持つ鹿毛の馬が二頭、装飾はされていないものの、上質な木材で作られた黒い客車を引いている。
 御者を務めるジェイクが、素早く御者席から飛び降りると、アマリアの鞄を御者席の後ろにある荷物置き場に載せた後、客車に乗り込む為の踏み台を置き、馬車の扉を開けた。
 ジェイクは、アマリアより僅かに視線が高い程度と男性の平均身長ながら、しっかりとした筋肉が服の上からも見てとれる若者だった。
 侍従としてだけではなく、護衛の役割も果たしているのだろう。
 薄い茶色の髪は短くつんつんと立ち上がり、吊り上がった目は鋭いのに、何処か人懐こさも感じさせる。
 ジェイクに手を支えられて乗り込むと、先客がこちらに顔を向ける。
 これまで身に着けていた魔法石の仮面ではなく、黒い布で目隠しをしたランドールだ。
 白いシャツに若草色のジャケットを羽織り、同色のトラウザーズに身を包んでいる。
 見慣れた文官の白い宮廷服以外の服装に、アマリアは思わずドキリとした。
 モールやレースと言った装飾はされていないものの、大きめに仕立てられた襟に施された深緑の繊細な刺繍が、仕立ての良さを物語っている。
「殿下、おはようございます。離宮まで、ご一緒させて頂きます」
 馬車の中なので、僅かに身を屈める事しか出来ないが、挨拶の礼をしてランドールの向かい、進行側に背を向けて座ると、ランドールは少し躊躇してから、口を開いた。
「おはよう。…アマリア嬢」
 ランドールの傍で勤めるようになって三か月近く。
 初めて名を呼ばれて、アマリアは思わず息を飲む。
「私の名を…ご存知だったのですか」
 彼自身がそうだと思っていたわけではないが、従者を動く家具位にしか思っていない貴族は存在する。
 侍女、侍従、とだけ認識し、個別の名を覚える必要性を感じない人々が。
 ランドールが自分の名を呼ばないのは、「侍女」との距離を取る為だと思っていた。
 彼は、王弟令息。不用意に女性を近づけてはいけない身の上なのは、十分に承知している。
「当たり前だろう、アマリア・トゥランジア伯爵令嬢。…王城では、貴女の表向きの立場は侍女だが、実際には、貴女がいなければ私は執務を行えない。だからと言って、補佐官と同様に扱う事も出来ない。どう呼ぶのが一番適切なのか…悩んでいた。今は休暇中だからな。貴女が嫌でなければ、こう呼ばせて欲しい」
「…勿体ないお言葉です、殿下」
「ランドール」
「え、」
「私は休暇中だ。ランドールと呼んで欲しい」
「そんな、畏れ多い」
「私が、そう呼んで欲しいのだ」
「…承知致しました…ランドール様」
 乞われるままに名を呼んで、アマリアは呼称が異なるだけなのに高鳴る胸を持て余し、 頬の熱を散らすように、客車の中をぐるりと見渡した。
 長身が多い男性王族のお忍び用なのだろうか。
 一般的な馬車よりも広く大きな作りではあるが、それでも閉鎖された空間である事に変わりはない。
 長旅に備えて、座席にはたっぷりと羽毛を詰めたクッションが幾つも置かれており、窓には日差しを遮る為のレースが掛けられていた。
 ゆったりと腰を掛ける余裕はあるものの、ともすれば、ランドールの長い足に向かい合う己の足が触れてしまうのではと不安で、アマリアはそっと姿勢を正して、膝の位置を遠ざける。
「アマリア嬢は、マイルスに行った事はあるか?」
「いいえ。私はこれまで、トゥランジア家の所領であるコバルを離れる事は殆どなく、ロイスしか訪れた事がないのです。王都も、王宮に伺候するまでは数える程しか…」
「そうか。マイルスは、ロイスの北にある。三角州が始まる地だな。主な産業は観光だ。離宮は、その最北端に建ち、三方を川に囲まれ、南には濠が築かれている。濠を渡るには、跳ね橋を下ろす必要があるから、容易に出入り出来る場所ではない」
「歴史書で読みましたが、ロイスが戦地となった時代には、王都を守る最後の砦としての役割があったとか。そのような場所をこの目で見る事が出来るなんて、嬉しいです」
 弾むようなアマリアの声に、ランドールの頬も緩む。
「それは良かった。和平が結ばれてからは、離宮として王家が使用している。何代にも渡って手を入れているから、濠の外から見る姿と、中の様子は全く異なる。楽しみにするといい」
「はい」
「以前から、貴女が地理に詳しいのは判っていたが…歴史にも詳しいのだな」
「どちらも、本で得た知識だけですわ。文字で読んだだけですので、十分に理解出来ていないものも多いのです。…お恥ずかしい事です」
「いや、本を読み、それを記憶している事が素晴らしい」
 女性貴族であれば、本を読んだとしても詩集や小説が多く、歴史書や地理書を手に取る者は少ない。
 ランドールに褒められて、アマリアの頬が赤く染まった。
「マイルスまで三刻程ある。良ければ、コバルについて、教えてくれないか。私は、隣領のネランドは訪れた事があるが、残念ながら、コバルは未踏なのだ」
「はい、私で宜しければ」
 アマリアは、生まれ育ったコバルについてランドールが尋ねてくれた事に、微笑む。
 特産品があるわけでも、名勝地があるわけでもない地方の領に、その領を治める者への礼儀だろうと、王族である彼が関心を示してくれた事が嬉しい。
「コバルは、テベ川から離れた水源の乏しい平野にあります。国境の地ネランドと隣り合ってはおりますが、主要な街道から離れている為、旅行者が足を延ばす事は滅多にありません。元々は、耕作に余り向いていない土地です。過去には牧畜や果樹栽培に挑戦した事もあるようですが、いずれも上手くいきませんでした。しかし、他に特産物もない為、穀物庫としての役割を果たすべく、トゥランジア家では代々、領民と共に努めて参りました。祖父の代で灌漑技術を導入し、近年、安定した収穫が上げられるようになってきております」
「灌漑…あぁ」
 何かを思い出すように、ランドールが声を上げて頷く。
「やはり、貴女だったのか。半年程前だったか、王宮の書庫にいただろう?」
「は、はい。覚えて…おいでだったのですか」
「広く開かれている筈なのだが、文官以外に書庫を利用する者は少ない。ましてや女性は、私が見る限りは初めてだったからな。印象に残っていた。あの書物は、役に立ったか?」
「はい。祖父も父も、我が領に合った方法を模索していたのですが、他にも挑戦してみる価値のある方法が書かれておりました。領地で取り仕切ってくれている家令に伝えて、幾つか工事を進めている所です」
 ランドールの唇が、笑みの形に弧を描く。
「そうか。アマリア嬢はコバルの領地経営にも携わっていたのだったな」
「トゥランジア家の子供は、私一人ですから」
「だが、一人娘でも、経営は父や家令に任せきりと言う令嬢は多い」
「そう…ですね。私が携わる事が良かったのかどうかは判りませんが、少しでも父や領民の役に立ちたくて」
 声が小さくなったのは、領地経営を巡って婚約者と揉めた事があるからだろう。
「トゥランジア伯は、家ではどんな父君なのだ?」
「父…ですか?コバルは、王都より馬車で七日かかる場所にありますから、手紙はまめに届けてくれましたが、父が帰宅するのは半年に一度程でした。その度に、馬車にたくさんの書物を積んで来てくれるので、父の帰宅をとても楽しみにしておりました」
「書物?トゥランジア伯は、娘への土産に書物を持ち帰っていたのか?」
「はい。コバルでは、書物は大変貴重なものです。父が不在の間、幾度も同じものを読み返していたので、新しい書物は本当に楽しみで。…ですが、それはある程度成長してからの事。正直な所、幼い頃は、王都で流行っているお菓子だとか、お人形だとか、そんなものが欲しいと思っていた事もあるのです」
 アマリアの声に、苦笑が混ざるのを聞き取って、ランドールも笑う。
「だろうな。幼い娘に与えるのに相応しい書物など、数が限られる筈だ」
「父は、その辺りが少し…父に兄弟はおりませんし、近い親族もおりません。娘との接し方が判らなかったのだろうな、と今では思うのですが」
「では、アマリア嬢は王都の菓子や人形は手に入れられなかったのか?折角、父君が王都勤めだと言うのに」
 ランドールが尋ねると、アマリアがくすりと笑った。
「そう言ったものは、セルバンテス様が土産に下さったのです。『ギリアンは気が利かないからな』と仰って」
「セルバンテスが?確か、トゥランジア伯とは古い友と聞いたが」
 王城の家令であるセルバンテスは、王都に程近い領地を治める侯爵家の次男として生まれた。生家は現在、嫡男の兄が継いでいる。
 王都から離れたコバルに縁があるとは思えない彼とギリアンが、旧友とは不思議なものだ、と、改めてランドールは思う。
「セルバンテス様と父は、王都の幼年学校で寮の同室だったそうなのです。セルバンテス様のご実家は王都の近くにありますから、長い休暇には父と一緒にコバルへ来て過ごされていたそうですよ。逆に、短い休暇には、父がセルバンテス様のご実家にお世話になっていたようです」
「ほぉ」
 貴族の子息が十三の年から五年間通う幼年学校は、特例を除いて寮生活を送る。
 ランドールもアレクシスやジェイクと共に通ったものの、その特例の為、寮生活は経験していない。
 多くの使用人に傅かれて育った少年達が、寮生活を通して身の回りの事を自分で出来るようにするのは、和平条約こそ結んでいるが、この平和が永久的なものではない事を知っているからだ。
 もしも、この国が再び戦火に飲まれた時、貴族には民を守る義務がある。
 その時に、自分の世話すらままならないのでは話にならない。
「あのセルバンテスに幼年学校時代があったとは、俄かには信じがたいな…」
 ランドールが生まれる前から王城にいるセルバンテスは、子供心にも厳しい「爺や」だった。
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「恐らく、セルバンテス様は、亡くなった母の墓参に来て下さっていたのです。父と母とセルバンテス様と、三人で親しくしていたそうですから」
 ランドールは言われて、セルバンテスがアマリアの母であるエミリアの愛を、ギリアンと競ったのだと言っていたのを思い出した。
「母君は、どのような方だったのだ?」
「母は…私が生まれた時に亡くなったので、私自身は母を知りません。家に母の姿絵がありましたが、父やセルバンテス様が仰るように私に似ている、とは余り思えなくて…確かに、髪や瞳の色は似ているのですが、母は私よりも小柄な人だったそうですし」
「母君のご実家には、貴女のような髪色の方が多いのだろうか」
 深紅など目立つ髪色だろうに、ランドールの記憶する限り、その髪色が特徴の貴族はロイスワルズ国内にいない。
 トゥランジア家のような地方の伯爵家が、他国の貴族と婚姻を結んだとなれば、王都でも話題になる筈だが、少なくともランドールの耳にそのような話は入っていない。
 問われたアマリアは、目の見えていないランドールにも伝わる程に、戸惑う。
「アマリア嬢?」
「あの…亡くなった母の実家を知らない、と言うのは、普通の事なのでしょうか…」
「実家との関係にもよるが、亡くなった娘の墓参をしたい、と思う者の方が多いのではないか?」
「そう、ですよね…私には、母の親族と言う方に会った記憶がないのです。もしかすると、紹介されていないだけで、家にいらしていたのかもしれませんが」
 ランドールの知るギリアンは、義理堅い男だ。
 亡くなった妻の実家に、忘れ形見の娘を連れて行かないとは思えない。
「…昔から、不思議だったのです。私は、母の両親を知りません。幼い頃は、母が遠方から嫁いできたから、訪れるのは難しいのだろうと思っておりました。もしくは、父の両親と同じように亡くなっているから交流がないのだ、とも思い込んでおりました。けれど、私は、母の家名も知りません。大きくなるにつれて、交流がなくとも家名すら知らされないなんて、何かがおかしい、と感じるようになりました。それとなく尋ねてみても、父は話を逸らして、答えてくれた事はありません。やはり…親族にすら会った事がないのは、不自然なのですね」
 見えていないのに、ランドールの視線がこちらに注がれている気がして、アマリアは俯く。
「父もセルバンテス様も、私が屋敷の外に出るのを嫌がりました。幼い頃は、女なのだから安全の為には仕方ないと思っておりました。でも、他のご令嬢のお話を聞くと、皆様、領地視察の名目でお出掛けになっています。私は…侍女を連れていても、護衛を連れていても、駄目だと言われて…。父は領地に帰って来ると、隅から隅まで視察に赴くのに、どれだけせがんでも、伴ってはくれませんでした。書物はたくさん与えて貰いました。けれど、それを読んで、実物を見たいと興味を持っても、駄目だと言われるのです。母が亡くなっていますから、父は私に何かあったらと不安なのだろうと、従っていましたが…私が、人前に出せないような、親族に会わせられないような、娘なのではないか、と、思って…っ」
 アマリアの声が僅かに震えているのに気づいて、思わずランドールは手を伸ばした。
 指先に触れたアマリアの手を握ると、アマリアが小さく息を飲む。
 だが、振り払う事はしなかった。
「誰にも、話せなかったのだな」
「…っはい…」
 父は、王都で離れて暮らしている。
 信頼するセルバンテスも同様だ。
 家の使用人が仕えているのは、飽くまで家長であるギリアン。
 父はアマリアを愛していると言ってくれるが、アマリアが外に出たいと望んでも、それとなく拒む。
 外の事に興味があるのなら、家庭教師をつけよう、と、多岐に渡る分野の教師をつけてくれたが、家から出してはくれなかった。
 その為、領民には、アマリアは虚弱な娘と思われている。
 実際には、食が細いだけで大きな病気一つした事もないのだが。
 いつしか、アマリアは自分の希望を口に出す事を止めてしまった。
 何かを望んでも、手に入る事はないからだ。
 望んでも与えられない事実は、アマリアの心を見えない刃で傷つけていく。
 それでも、自分が期待に応えられればいつか叶うのでは、と、父の望むままに、家令や領民の望むままに努めてきたけれど、家の為の婚約は破棄され、王宮でも思うような評価を得られていない。
「貴族の娘として、婿養子を取り、家を継ぐ事が私に唯一出来る仕事だと思っていたのに、婚約破棄されてしまって…父や領民の期待に応えられず、何もかも失った思いで王宮へ参りました。王宮での仕事も、懸命に励みましたが…至らずに、周囲の方とうまく出来なくて。なので…ランドール様には、心より感謝しております」
 アマリアは、俯いていた顔を上げて、ランドールの顔を見つめる。
「…私に?」
「はい。私は…生まれて初めて、お役に立てている、と言う実感を頂く事が出来ました。きっかけが、ランドール様のお体が損なわれた事によるものですから、喜ばしいものではありませんが、偶然、あの場にいた私の声が、お役に立てた。ランドール様のお耳に届いた。少ない選択肢から選ばざるを得なかった結果ですから、本当は私である必要などないのでしょう。でも、そうと判っていても、ここにいていい、出来る事がある、と言われたようで、安心したのです。貴族の娘としても、侍女としても求められず…男性に生まれれば領民も安心したのでしょうが、女性として否定されるからと言って、男性になれるわけではありません。…努力をしても受け入れられないのに、努力では叶わない事など、どうすればよいのか見当もつかなくて…」
 声に諦めが滲んだのが判って、ランドールは触れたままのアマリアの指先を、少し強く握った。
「貴女の声に助けられているのは確かだ。耳からの情報に集中しているからか、貴女の声で聞くと、頭の表面を滑るだけだった案件も、不思議と頭に入るしな。だが、それだけではない」
「…ランドール様」
「自分の理想の仕事の仕方とは違っていたが、膨大な仕事量に執務の見直しをする余裕など、これまで持つ事が出来なかった。だが、このような状況になり、貴女が異なる視点を与えてくれた事で、一人で抱え込まずとも、分配出来る仕事もあると気づく事が出来た。結果として、一件一件の内容について思いを巡らすだけの時間の余裕を持てるようになったのだ。それに、これまでならば見落としていた書類の間違いにも細かく気づいてくれるから、幾度も差し戻すものが少なくなった。お陰で、一つ一つの案件にかかる時間が減少している。補佐官室を預かる者として、私こそ感謝している。貴女がいてくれたから、成しえた事だ」
 真摯なランドールの言葉に、アマリアは言葉を失う。
「勿体ないお言葉です…」
「当然の評価だ。貴女はもっと、自分の価値を認めるべきだと思う。侍女としての評価が正当なものだったのかどうかは、私には判らない。だが、補佐官の仕事の補助としては、貴女は誰よりも優秀だ」
 ランドールは熱心に言い募ってから、ハッと手を離した。
「…すまない。思わず手を…気分を、害してはいないだろうか」
「いいえ、滅相もない事でございます。有難うございます。私の泣き言を、受け止めて下さって」
 アマリアが、微笑む。
 その微笑みが見えるわけではないのに、緩んだ空気にランドールも微笑みを返した。
 日常的に、執務で彼女の手に触れていると言うのに、仕事から離れて触れる手は、いつもと違う温かみがある。
「ランドール様は…配下にも目を配って下さって、本当に素晴らしい上役ですわね」
 アマリアには、自分のこの態度が、部下に対する心配りに見えるのか、と、思わずランドールは苦笑する。
 彼自身は、そうとは受け取っていないからだ。
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「まぁ、それは、ランドール様がお仕事に真摯に向かい合ってらっしゃるからでしょう?」
「鬼である事は、否定してくれないのだな?」
「私の口からは何とも…」
 くすくすと笑う声に、ランドールの心も浮き立つ。
 茶会や夜会で令嬢達があげる忍び笑いには、あれほど、心を逆撫でされていたのに、状況が違うだけで、こちらの受け止め方も変わるものなのか。
 二人で一しきり笑い合った後、馬車の中は静寂に満たされた。
 決して、重い空気ではなく、言葉がなくても心が触れ合っている気がする。
 仕事上の会話だけでは考えられない位、アマリアの心が開かれているように思えて、ランドールは満足気に笑みを浮かべた。
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柚木崎 史乃
ファンタジー
女伯グリゼルダはもう不惑の歳だが、過去に起こしたスキャンダルが原因で異性から敬遠され未だに独身だった。 二十二年前、グリゼルダは恋仲になった王太子と結託して彼の婚約者である公爵令嬢を陥れようとした。 けれど、返り討ちに遭ってしまい、結局恋人である王太子とも破局してしまったのだ。 ある時、グリゼルダは王都で開かれた仮面舞踏会に参加する。そこで、トラヴィスという年下の青年と知り合ったグリゼルダは彼と恋仲になった。そして、どんどん彼に夢中になっていく。 だが、ある日。トラヴィスは、突然グリゼルダの前から姿を消してしまう。グリゼルダはショックのあまり倒れてしまい、気づいた時には病院のベッドの上にいた。 グリゼルダは、心配そうに自分の顔を覗き込む執事にトラヴィスと連絡が取れなくなってしまったことを伝える。すると、執事は首を傾げた。 そして、困惑した様子でグリゼルダに尋ねたのだ。「トラヴィスって、一体誰ですか? そんな方、この世に存在しませんよね?」と──。

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