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第八章 江東の小覇王と終焉の刻
第百話 鳳儀亭
しおりを挟むその琴の音色は、華やかでいて何処か儚げな響きである。
広間に響き渡る美しい旋律に、来客たちは皆うっとりと聞き惚れていた。
やがて、屋敷の庭先から、しとしとと小さな雨の音が聞こえ、琴の音に混ざり合って実に幻想的な音色を奏でている。
侍女の靭やかな指先が最後の弦を弾き終わると、広間には暫し静寂の時が流れた。
「奉先、お前はどう思う?」
突然、仲穎が隣の席に座していた奉先に声を掛ける。
微動だにせず、目を瞠って侍女の姿を凝視していた奉先は、はっと息を呑んで振り返った。
「か、彼女は…」
僅かに声を上擦らせたが、深く息を吸い込み直ぐに冷静さを取り戻す。
「…絶世の美女だ…と思います。」
「そうか、わしもそう思う。」
仲穎は目に微笑を浮かべて言うと、侍女を顧みて問い掛ける。
「侍女よ、名は何と申す?」
すると彼女は、ゆっくりと伏せた長い睫毛を上げて彼に視線を注ぎながら、ふっと微笑み掛け、
「麗蘭、と申します。」
落ち着いた声でそう答えた。
「麗蘭か、見事な琴であった。退がって良い…!」
仲穎の言葉に小さく礼を返し、麗蘭は琴を抱えてゆっくりと後ろへ退こうとした。
その時、
「待て…っ!」
突然、仲穎が呼び止めた。
「?!」
思わず、びくりとして立ち止まった麗蘭は、頭を低く下げたまま小さく息を呑んだ。
稍々視線を上げて彼を見ると、訝しげな眼差しでこちらを伺い見ている。
その様子に奉先も思わず腰を浮かせ、今にも立ち上がりそうになっていた。
「そなた…わしと、何処かで会った事は無いか…?」
仲穎は顎髭を片手で撫でながら、首を捻って問い掛ける。
目を細めて彼女を見詰めながら、記憶を辿り何かを思い出そうと模索しているらしい。
暫し張り詰めた空気が会場を包み込み、来客たちも息を呑んで仲穎の次の言葉を待った。
その間、誰一人声を発する者は無く、ただ屋敷の外で降り続く雨音が小さく鳴り響いているだけである。
やがて、麗蘭は着物の袖を口元に当て、くすくすと笑うと
「太師にお会いするのは、今日が初めてで御座いますよ。」
目元に柔らかく微笑を湛え、臆する事無く答えた。
「わしの、思い過ごしか…」
そう小さく呟いた仲穎は、
「はははっ!そなたの様な美女を、忘れる筈は無いな…!」
更には自分の膝を打ち、声を上げて笑い出す。
すると会場中からも笑いが起こり、その場の空気は一転した。が、広間の入口に座していた王子師だけは緊張の面持ちのまま、じっとりと汗の纏わり付く拳を固く握り締め、広間を出て行く麗蘭の姿を黙って見送っていた。
「嗚呼…わしの寿命は、今日で十年は縮まったであろう…!」
宴が果て、屋敷へと帰り着いた子師は自分の居室へ入るや、そう言ってその場にへたり込んだ。
「ははは!子師様、しっかりして下さい。さあ、私の肩に掴まって…」
麗蘭は陽気に笑い、彼の腕を取って自分の肩に掴まらせると、体を支えて牀の上に座らせた。
「わしは、とても見て居られなかったぞ、麗蘭殿…!いつか見破られるのではと思うと、生きた心地もしなかった…!」
「言ったでしょう、私を信じて下さいと…!」
「だが、仲穎の目を何時までも欺いてはいられまい。そうなる前に方を付けねば…!」
子師が言うと、彼は大きく頷き、
「勿論です。私が此処へ来たのは、その為なのですから…!」
力強くそう答えた。
雨は既に霧雨へと変わっていたが、まだ細い糸を垂らしたかの様に降り続き、庭先の木々の葉を濡らしている。
屋敷の広間に集まっていた客の殆どが退室し、そこには仲穎と李文優、そして奉先の三人が残った。
「…太師、あの女は刺客の可能性もございます。充分に注意が必要でしょう。女の素性を、私が探っておきます。」
文優が冷静な口調で語るのを聞いて、仲穎は小さく鼻で笑った。
「あの王子師が、わしの暗殺を企てていると…?ふんっ、あの男にそれ程の度胸など有るものか!それに、例えわしを殺したとして、誰があいつの支持になど従う?子師にはわしの軍を統率する力など無い…!」
そう言って、手に取った盃に残った酒を一気に飲み干す。
奉先は二人の会話を、少し俯いたまま黙って聞いていた。
文優に一瞬、何か言いたげな表情を見せたものの、まだ彼を完全に信じ切っている訳では無い。
彼が屋敷で語った話自体が虚構の可能性も捨て切れない。
それに、彼は弘農王の生母である何太后を無慈悲に毒殺しているのである。
丁建陽暗殺の件に関しても、建陽が難色を示したと言いつつ独断で奉先を寝返らせる策を用いていた節が有り、李月の甥だと名乗る、李元静と言う若者を奉先に会わせたのも彼の策略であった。
目的を達成する為なら、平気な顔で他人の命を奪う様な男なのだ…
そう思うと、彼に何でも打ち明ける気持ちにはなれなかった。
「将軍、浮かぬ顔をしておられますね?」
不意に文優に問い掛けられ、はっとして顔をあげると仲穎も彼を顧みた。
「お前は、あの侍女に随分と見惚れていた様子であったな?気に入ったか?」
「いえ、まさか…!そういう訳では…」
仲穎に問われ、思わず狼狽える。
「俺はまだ妻を娶ったばかりで、妾を持つには早い…それに、妻は今身籠っておりますので…」
「何、それは初耳だ!何故早く言わぬ?!」
「実は、俺も今日知ったばかりなのです…」
そう答え、彼が苦笑を浮かべて頭を掻くと、
「そうか、それはめでたい!子が産まれたら、わしが名付け親になってやろう。」
仲穎は機嫌の良い声色で言うと陽気に笑い、彼の肩を力強い手で何度も叩く。
顔を紅潮させた奉先は、少し含羞を帯びた表情で彼に頷いた。
仲穎の邸宅から出た頃には、既に雨は上がり、辺りは白い霧で覆われていた。
夜風は稍々冷たかったが、少し火照った彼の体には心地良い感触である。
霧に咽ぶ街道を一人歩いて行くと、やがて広々とした庭園の脇を通り掛かった。
そこには大きな池があり、周りには深緑の木々が幾つも植えられている。
その池を跨ぐ様に、色鮮やかな朱い欄干の橋が架けられていた。
既に灯籠の灯りは消され、辺りは薄暗いが、霞んだ月の仄かな光がぼんやりと池の周りを照らし出している。
ふと、何気なくそちらを眺めると、霞む霧の中に浮かび上がる朱色の橋の欄干が目に入った。
見れば、橋の上には人影がある。
その人物は、鮮やかな蒼い布を張った天蓋(傘)を頭上に翳し、一人佇んでいた。
「…?!」
この様な夜更けに、しかもすっかり雨も上がっていると言うのに傘を差している事自体が不自然に思え、奉先は眉を顰めてその人物を凝視した。
すると、その人は僅かに傘を上げてこちらに視線を送る。
あ、あれは…!?
それを見て思わず瞠目すると、橋の上の人影は忽ち池の向こう側へと消えて行った。
橋を渡ったその奥には、“鳳儀亭”と呼ばれる美しい亭がある。
奉先は辺りを警戒し、周りに人影が無い事を確かめてから急いでその橋へと向かった。
足音を忍ばせて橋を渡ると、目の前に垂れ下がる柳の枝を払いながら奥へと進み、やがて鳳儀亭に辿り着く。
そこには、蒼い傘を広げたまま池の方を眺めているらしい後ろ姿があった。
声を掛けようと近付くと、その人は徐に振り返り、若干傘を上げて彼を見上げた。
長い睫毛を蓄えた目元に、黒い大きな瞳を輝かせた美貌の持ち主である。
「孟徳殿…!一体、こんな所で何をしているのだ?!」
思わず奉先は声を荒らげ、彼に歩み寄った。
すると、孟徳は口に指を当てながら彼に声を立てぬよう目配せをして、
「呂将軍、私は“孟徳”ではなく、“麗蘭”ですよ。」
そう言うと小さく笑った。
「冗談を言っている場合か…!何故そんな格好で此処へ?!董仲穎にバレたら殺されるぞ…!」
「お前に、俺の無事を伝えたかったのだ。」
「それなら、公台に書簡を書かせて送らせれば良いではないか。」
「敢えて公台に書簡を送らせなかった。元気な姿を見せて、お前を驚かせてやりたくてな!」
孟徳は悪怯れた様子も見せず、屈託の無い表情で笑う。
それには返す言葉を失った奉先は、
「驚くも何も、心臓が喉から飛び出るかと思った…!とにかく、貴方が無事で良かった。」
そう言って苦笑した。
その様子に、孟徳は目元に微笑を漂わせながら、懐かしそうな眼差しで彼を見詰めた。
「お前も、元気そうだな。虎淵も公台も、皆元気だぞ。お前に会える日を楽しみにして待っている…!」
それを聞くと、奉先は少し目元を陰らせ、小さく「そうか…」とだけ答えた。
それから顔を上げると、眉を顰めて孟徳を見詰め返す。
「軍師の李文優が、貴方の素性を調べると言っていた。そうなれば、仲穎に知られるのも時間の問題であろう。貴方は、此処から逃げた方が良い…!」
「ああ、分かっている。だが、危険は覚悟の上だ…俺は、お前の力に成る為に此処まで来たのだ。俺に出来る事なら、何でも言ってくれ。いざとなれば、俺は仲穎と刺し違えても良いとさえ思っている…!」
「孟徳殿…!貴方に、そんな事はさせられぬ…!」
思わず彼の肩を強く掴んだが、その言葉に胸を強く打たれ、奉先は再び孟徳を見詰めた。
そうだ…孟徳殿はいつも、俺の為に危険を顧みず追い掛けて来てくれたではないか…!
孟徳殿の友情は、今でも何一つ変わってはいないのだ…
そう思うと、不意に目頭が熱くなる。
目の前にいる孟徳はあの頃よりずっと大人びていたが、彼の美しさは今も変わらず、二人の強い絆はまだ健在であった。
「…麗蘭殿か…懐かしいな。」
奉先は瞳を赤く染めながら、彼の肩に流れる長い黒髪を指でそっと撫で下ろして呟いた。
それから、力強い眼差しを彼に向けると、
「董仲穎は俺が必ず斃す…!信じてくれ!」
そう言って、孟徳の肩を強く叩く。
「勿論、信じているさ。積もる話も有るが、今日の所はこれで別れよう。明日の晩、また此処へ来てくれ。」
「ああ、分かった。では、また明日の晩に会おう。」
奉先はそう言って微笑すると、大きく頷いた。
「それでは…」
と言って、孟徳は着物の裾を翻し軽やかに走り去って行く。
奉先は亭に佇んだまま、その後ろ姿を名残惜しげに何時までも見送っていた。
「奉先、出掛けるの?」
翌日の晩、食事を済ませた後、居室で外出の支度をしている所へ貂蝉が姿を現した。
「ああ、人と会う約束をしている。もう遅いだろう?先に寝ていろ。」
そう声を掛けたが、貂蝉はまだ戸口に立ち尽くし、彼をじっと見詰めている。
やがて、
「女の人と会うの?」
と、訝しげに問い掛けて来る。
「まさか、そうではない。男の人だ!」
奉先が笑って答えると、彼女は奉先に近付き彼の顔を覗き込んで言った。
「だって、昨夜帰って来た時、女の人の“香”の匂いがしていたもの…」
貂蝉はまだ若く幼いが、彼女の女の勘の鋭さには驚かされる。
それには思わず、どきりとして、
「“香”を付けているのは、女性だけではない。今時は、男性の嗜みでもあるのだぞ…!」
と、稍々狼狽えながら答えた。
すると彼女は、
「ふうん…」
と、一応は納得した様子であったが、まだ疑いの眼差しで彼を見上げている。
「でも、あれは女の人の匂いだった…」
小さく呟く貂蝉に、奉先は苦笑し、膝を折って彼女の前に腰を下ろすと、
「嘘では無い。時が来れば、その人をお前にも会わせてやるから。信じてくれ。」
そう言って、彼女の大きな瞳を見上げて微笑み掛けた。
「…分かったわ。貴方の事、信じてあげる…!」
彼を見詰めながら、 にこりと笑って答えると、貂蝉は彼の首に腕を回して強く抱き着いた。
居室の開かれた窓から覗く二人の様子を、心配そうな面持ちの雲月が、庭先からそっと眺めていた。
応援ありがとうございます!
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