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第八章 江東の小覇王と終焉の刻

第九十六話 界橋の戦い

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袁本初えんほんしょ公孫伯圭こうそんはくけいは、どちらも強大な勢力を持っている。
しかし、“反董卓連合”の盟主でありながら、目覚ましい打開だかい策を講ずる事が出来ず、冀州を平定し終えたばかりの本初に見切りを付けた河北の諸侯らは、次第に伯圭の側へと傾倒して行った。

その為本初は、磐河ばんがまで出撃して来た伯圭の勢いに恐れを抱き、彼の従弟いとこである公孫範こうそんはん渤海ぼっかい太守の印綬を送って、伯圭との講和を図ったが、渤海郡に入り兵を手に入れた公孫範は、軍を率いて青州せいしゅう徐州じょしゅうの黄巾党の残党らを撃破し、その勢力を吸収して伯圭の元へと向かった。
この事で伯圭の勢力は更に強大となり、県で袁紹軍の朱霊しゅれいと戦い敗走させる。

天は我々に味方している…!
勢いに乗った公孫瓚軍はそのまま西進を続け、更に界橋かいきょうを目指し進軍した。

“界橋”とは文字通り、“境界に掛かる橋”と言う意味で、冀州鉅鹿きょろく郡と甘陵かんりょう国の境であり、そこには清河せいかと言う河が流れている。
伯圭は磐河に兵を駐屯させ、そこに本営を置くと、対する本初は広宗こうそうで彼らを迎え撃つ構えを見せ、清河を挟んで公孫瓚軍と袁紹軍は対峙たいじする形となった。

伯圭の幕舎へ訪問者が現れたのは、その日の夕暮れの事である。

「玄徳、良く来てくれた!」
伯圭は嬉しそうに弟弟子おとうとでしを迎え入れた。
玄徳は暫し談笑を交え、此処へ至るまでの経緯などを簡素に語っていたが、やがて膝を進め、彼を強く見詰めるとこう言った。

「伯圭殿…袁本初との対立は止めて、兵を引いては貰えないか…?」

それを聞いた伯圭は、途端に気色きしょくを悪くする。
今、形勢は伯圭の側が有利であり、本初は窮地に立たされている。
彼には、最強の騎馬軍団とも言うべき“白馬義従はくばぎじゅう”があり、玄徳が言い出す事が理解出来なかった。

「何故その様な事を言うのだ?」
伯圭は訝しげに問い掛ける。

「袁本初は反董卓連合の盟主であり、未だその名声は高く、それを討つには大義名分が足りない。諸侯らは伯圭殿がいたずらに武を以て本初をおびやかし、領土の拡大を狙っていると思うだろう…」
玄徳が語るのを、伯圭は面白く無い表情で見ているが、彼は構わず続けた。

「それに今、本初の元には先生がいらっしゃる。本初を攻撃すれば、師に歯向かう事に等しい…!」
彼の言う“盧先生”とは、盧植ろしょく(子幹)の事である。

盧子幹は、郷里に隣接する上谷郡で隠遁いんとん生活を送っていたが、本初が冀州牧となった時、招かれて彼の軍師となっていた。

それを聞くと、伯圭は稍々やや疑いの眼差しを玄徳に向けた。
彼は密かに袁本初と繋がり、自分をおとしいれに来たのではあるまいか…?
玄徳は河内かだいで袁本初と会っており、その時に彼と公孫瓚打倒の密約を交わしていたのかも知れない。

「伯圭殿…俺を疑っておられるか…?」
彼が怪しんでいる事に気付き、玄徳は眉をひそめ問い掛けた。

「今、俺は勢いに乗り、向かう所敵無しだというのに、丁度この時期にお前が現れ、兵を引けと言う…」
「疑われても仕方が無い、か…」
玄徳は苦笑を浮かべる。

「悪いが玄徳、お前の提案を受け入れる訳には行かぬ。」
「では、はっきりと言おう。この戦には勝てない…!」
「?!」
伯圭は思わず瞠目どうもくしたが、直ぐに鋭い眼差しで玄徳を睨み付ける。

「それは、どう言う意味だ…?!何故負けると分かる?!」
「負ける、とは言っていない…だが勝つ事は出来ぬであろう。“悪い兆し”がある…」
それを聞くと、途端に侮蔑ぶべつの色を瞳に浮かべ、伯圭は嘲笑した。

「そう言えば…昔からお前は、そんな様な事を言うくせがあったな…!馬鹿々々ばかばかしい、そんな理由で兵を引く事など出来るものか…!」

伯圭は、玄徳のそういう得体の知れない所が昔から嫌いであった。
彼の目から見れば、玄徳は愚鈍ぐどん卑賤ひせんの身でありながら、そのくせ何処か神秘的で、同じ年頃の若者たちに慕われていたのが気に食わない。

者の癖に…っ」
彼はそう言ってやりたかったが、一度小さく息をつき、

「玄徳…残念だが、お前たちを此処へ置いてやる訳には行かぬ。」
と言って、目の前に座す玄徳から視線をらす。

「………」
致し方無いか…
玄徳は嘆息しながら瞼を閉じ、両膝の上に乗せた拳を固く握り締めた。

子龍しりゅう、伯圭殿の事を宜しく頼む。」

彼らが立ち去る事を知り、急いで駆け付けた子龍を振り返ると、玄徳は出立の準備を整えていた手を止め、彼の肩を叩いて言った。
子龍は暫し黙し、心細いと言いたげな表情で見詰めていたが、やがて

かしこまりました…!」
と、少し瞳を赤く染めながら拱手し、彼に微笑を向ける。

その後、沈み行く夕陽を浴びながら遠ざかって行く玄徳の義勇軍を、子龍はまぶしそうに目を細め、何時いつまでも見送った。


このころ、伯圭の軍は五万にもふくれ上がっており、対する本初の軍は凡そ一万にも満たなかった。
玄徳の義勇軍が欠けたくらいの事は、伯圭にとっては痛痒つうようも感じない。
早速、界橋の橋を超えた公孫瓚軍は、伯圭自ら先陣を切って袁紹軍に戦いを挑んだ。

数の上では、袁紹軍は圧倒的に不利な状況と言えるが、配下には田豊でんほう沮授そじゅ許攸きょゆう逢紀ほうき郭図かくと審配しんはいら参謀に加え、文醜ぶんしゅう顔良がんりょう朱霊しゅれい張郃ちょうこう麴義きくぎ淳于瓊じゅんうけいなど優秀な将が揃っている。

その中でも最も武勇に優れ、恐れられている猛将が文醜であった。
文醜は、立ちはだかる一万もの歩兵部隊を僅かな手勢で蹴散けちらしながら、伯圭を狙って突き進む。

伯圭が討ち取られては、公孫瓚軍は総崩れとなってしまう。
食い止めようと配下の将たちが文醜に挑み掛かったが、彼らは次々に馬から蹴落とされ、文醜はまたたく間に伯圭のまたがる白馬へと肉迫にくはくした。

伯圭はげきを構え、文醜と数合に渡り撃ち合った。
伯圭も武勇にはひいでているが、流石に文醜が相手では劣勢を強いられる。

「くっ……!」
一瞬の隙きをつき、伯圭は素早く馬首を返すと界橋の橋まで逃げ帰ったが、文醜は諦めず追撃し、遂に橋の上で追い付かれてしまった。
文醜の剛腕から放たれた戟の刃が、唸りを上げて迫り来る。

次の瞬間、伯圭の目前にまで迫った刃を、何者かが鋭い槍の槍撃そうげで跳ね返した。

「伯圭様、今の内です…!」
「!?」
振り返って見れば、それはまだうら若き将である。

かたじけない…!」
伯圭は彼に向かってそう言うと、一散に自陣の方へと駆け出す。
文醜は、強く歯噛みをして一旦馬を引き、戟を旋回させると彼を睨み付けた。

豎子じゅしめ…っ、刀のさびになりたいか!退かねば斬り捨てるぞ!」

文醜が凄みのある大声たいせいを放ったが、白馬に跨がる若武者は平然とした様子で手にした長槍を構え直し、

「俺は、趙子龍と申す!此処から先へは、一歩も譲る訳には行かぬ…!」

そう言って、退く所か文醜の前へ立ち塞がる。
文醜は大きく舌打ちをすると、目をいからせて彼に撃ち掛かった。

仲間の元へと辿り着いた伯圭は、そこでようやく橋の上で文醜と激突する子龍をかえりみた。

「あの若武者は、一体何者か…?!」
側にいた部下に問うと、

「彼は、兄に代わって義勇兵を率いて来た、趙子龍という若者です。昨夜、殿の幕舎へ挨拶に来ていた筈ですが…?」
部下はそう答えたが、伯圭には余り記憶が無い。
彼には元々人を見下す癖がある。子龍が挨拶に現れた時も、ろくに彼の顔を見る事も無く、おなりな対応をしていた。

「…そうであったか。あの若者、中々のごうの者だ!」
伯圭は感嘆し、文醜と互角に撃ち合う子龍を改めて見直した。

文醜は、身の丈八尺(約185cm)以上もあり、顔は獬豸かいち(伝説の神獣)の様な形相の大男である。
その剛腕から放たれる戟の破壊力は凄まじかったが、数合撃ち合うも子龍は退かず、文醜の攻撃に食らい付いていた。

子龍に撃ち負ける事は有り得なかったが、食らい付く彼のそのしつこさに、文醜は稍々やや苛立ちを覚え始める。

その時、ふと振り返った文醜の目に、遥か後方の丘の上に突如現れ、軍旗を掲げて此方へ向かって来る何処かの軍勢の姿が映った。

「…!?」
目を凝らすと、その軍旗には「劉」の文字が見える。

「殿、あれをご覧下さい!」
「おお、あれは…!玄徳の兵たちではないか…?!」
伯圭は思わず、驚きの声を上げた。

玄徳の率いる義勇軍はたちまち戦場へと到達し、次々に敵を蹴散らしながら界橋の橋へ向かって来る。

「ええい…っ面倒だ、引くぞ…!」
その様子を見た文醜は悔しげに顔をゆがめ、伯圭の追撃を諦めて馬首を返すと、味方に撤退命令を送った。

文醜の軍勢に蹴散らされたものの、伯圭にはまだ自慢の“白馬義従”が無傷で残っている。
再び勢いを盛り返した公孫瓚軍は、界橋から凡そ南へ二十里の地点まで進軍し、そこへ布陣したのであった。


「玄徳、良く戻って来てくれたな…!」

その夜、伯圭は幕舎へ玄徳、雲長、翼徳の三兄弟を呼び寄せ、集まった彼らに酒を振る舞って労をねぎらった。
その場には子龍も呼ばれており、彼は玄徳らの姿を嬉しそうに見詰めている。

「伯圭殿は、俺にとって大切な兄弟子で恩人でもある。見捨てて行けば不義ふぎとなろう…」
玄徳が目を細めて微笑するのを見て、伯圭は内心不快感を覚えた。

こいつめ…良い人振ってはいるが、自分の警告を聞かなかった俺の事を、内心嘲笑っているに違いない…
伯圭の胸に抱く思いとはそれである。

今日の所は彼に助けられたとはいえ、玄徳を側に置けば、また本初との対立に難癖をつけられるであろう。

「今日はお前たちのお陰で、あの文醜を追い返す事に成功した、感謝する。所で玄徳…実は、袁公路から平原国へいげんこくに人を送って欲しいと頼まれていてな、高唐県こうとうけんを引き受けてはくれまいか?」
伯圭は彼らに酒を勧め、努めて柔和にゅうわな態度で、玄徳の顔色を伺う様に問い掛ける。

「伯圭殿の頼みなら勿論もちろん、喜んで引き受けよう。」
玄徳は目元に微笑を漂わせ、彼と酒をみ交わしながら、にこやかにそう答えた。

伯圭の幕舎を後にした玄徳ら三兄弟と子龍は、それぞれの陣営へ向かい肩を並べて歩いた。

「兄者、このまま伯圭殿の元を離れても良いのか?」
「ああ…伯圭殿は俺を快く思っておらぬし、今の彼の勢いを止める事は、俺には出来ぬであろう…」
雲長の問い掛けに、玄徳は余り感情を表す事無く答える。

「構わぬではないか、俺たちも此処は居心地が悪い。だが、根無ねなし草の兄者に居場所をくれると言うのだから、そこは感謝しよう!」
伯圭の玄徳に対する態度が一番気に入らなかった翼徳は、玄徳が伯圭の元を離れて平原国へ行く事が思いの外嬉しいらしい。

彼らと肩を並べ、暫し無言で付いて歩いている子龍を玄徳は振り返った。

「子龍、良かったらお前も一緒に行かぬか?伯圭殿への義はもう果たしたであろう?このまま此処へ残れば、お前の身も危うくなる…」

「俺は…此処へ残って、伯圭様を全力でお助けする積もりです。」
子龍は稍々暗い声色で答える。
それから目を上げると、じっと玄徳の顔を見詰めた。

「あなた方にお会い出来て、本当に良かった。“運命”という言葉は信じておりませんでしたが、玄徳殿との出会いは、きっと運命だったと思うのです…」

彼はうるんだ瞳に、輝く星空の光を集め輝かせる。

伯圭殿と生死を共にする覚悟か…
そう思い、少し悲しげな眼差しで玄徳は彼を見詰め返した。

彼はまだ若く、やがては天下に名だたる名将となる素質を持っている。
こんな所で死なせては惜しい…
玄徳は強くそう思ったが、彼の神聖な忠義の心を惑わす様な事は言いたく無い。

「そうか…武運を祈る。」
子龍の肩に手を乗せ、玄徳は小さくそうとだけ言った。


翌朝、伯圭の本陣を訪れて別れの挨拶を終えた玄徳らが幕舎を出ると、そこに子龍が立っている。
彼は、片手に一冊の書簡を固く握り締め、肩を小さく震わせていた。
見送りに来てくれたのかと思い、声を掛けようとしたが、どうやら様子が可怪おかしい。

「どうした?子龍…」
「実は…兄が亡くなりました。俺が故郷くにを発ってから、間もなくの事だったそうです…」
子龍は握り締めた書簡を玄徳に差し出しながら、大粒の泪をこぼす。

「そうだったのか…」
「兄の喪に服すので、これから伯圭様へ報告に参ります。」
「では、故郷へ帰るのか?」
「はい…暫くは、此処を離れねば成りません…」

天は、子龍を生かそうとしているのだ…!
俯く彼を見詰めていた玄徳は、この時心の中で強くそう感じていた。

「そうか…兄をうしなった事は、悲しいであろうが仕方の無い事だ…のこされた者はそれを乗り越え、生き続けなければならない…」

子龍の震える肩を力強く掴むと、その肩を強く揺さ振る。

「お前の兄は、此処にも居ると言う事を忘れないでくれ…!」

玄徳の言葉に、赤い目をした子龍は大きくうなずき、彼の力ある瞳を仰ぎ見ると泪で濡らした頬を紅潮させながら微笑した。

別れ道に差し掛かり、子龍は乗って来た馬を玄徳の馬に寄せる。
伯圭の本陣を離れた彼らは、それぞれの目的地へ向かって此処からは別々の道を進まねばならない。

「玄徳殿、雲長殿、翼徳殿…皆さんが、俺にとっては大切な兄上たちです!機があれば、またいつか必ずお会いしましょう…!」

子龍はそう言って爽やかに笑った。

「ああ、その日が来る事を信じて、待っている…!達者でな、子龍。」

玄徳は微笑を浮かべて彼の手を強く握り締めたが、その手を放すのが名残なごり惜しく思われ、小さく歯噛みをする。
子龍も同じ様に感じているのか、少し悲痛な表情を浮かべながら、じっと握り締める彼の手を見詰めていた。

やがて彼らはそれぞれの道へ別れて進み、遠ざかるその姿を互いに何度も振り返っては眺めた。

「子龍は良い奴だったな…あんな弟が出来て嬉しい。」
「ああ、だがいつか兄を超える日が来るかも知れぬぞ…!」
翼徳がぽつりと呟くと、雲長が笑って彼の肩を叩いた。

「俺が、あいつに負ける筈など無いであろう…!」
思わず翼徳は頬をふくらませ、雲長を振り返ってむっとした表情を浮かべる。

「いつか再び巡り会った時、がっかりされぬ様に俺たちも精一杯精進しょうじんしようではないか!」
その様子を見て笑いながら言うと、玄徳は高い蒼天を見上げた。

「幾多の困難が、この先にも待ち受けている…だが己を信じ、切り開いて行かねば成らぬ…!」

遥か彼方まで広がる蒼天は、やがて紫紺しこんの雲をまとい深い藍色あいいろに染まる。
期待と不安の入り混じった彼らの軍勢は、やがて沈み行く夕陽に照らされながら、稜線りょうせんの彼方へと消えて行った。

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