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第八章 江東の小覇王と終焉の刻

第九十五話 桃園の誓い

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“義兄弟”という言葉を知らぬ訳ではないが、自分の様な得体えたいの知れない者と義兄弟になりたいと言い出すなど、雲長の気が知れぬと思い呆れた。

「そうだ。俺は今から、お前と義兄弟になると決めた!」
「俺なんかと義兄弟になっても、詰まらぬだけだ…」
「それでも構わぬ。」
そう言って、雲長は白い歯を見せて笑う。そして、

「良し、では俺は今からお前の義兄弟だ。義兄弟となったからには、生死を共にすると誓おう。お前が死ぬと言うなら、俺も一緒に死ぬ…!」

「え……?!」
途端に彼の腕を掴み、帯で自分の腕に固く縛り始める雲長を、玄徳は驚きのまなこで見た。

「さあ、これでお前が此処から飛び降りれば、間違いなく俺も一緒に飛ぶ事になる。信用してくれるな?」

そう言うと彼は玄徳の隣に立ち、奈落の底を見下ろしながら少しぞっとした様な声で呟く。
「此処から飛び降りれば、確実に死ねるであろうな…」

「馬鹿な…お前が死ねば、悲しむ者は大勢いるであろう…?!」
「ああ、当然だ!以前、故郷で人をあやめたと話したな。友人の妹を助ける為だった…俺は彼女に惚れていたからな…相手は腕っ節の強い大人だったが、俺はそいつを石で殴り殺した。彼女は、邑を出て行く俺に、何時まででも待っていてれると言ったのだ…俺が死んだと知れば、きっと彼女は悲しむ…」
俯きながらそこまで話すと、雲長はおもむろに顔を上げ、玄徳を見詰めた。

「だが、それも仕方が無い…俺は、一度約束した事は絶対に破らぬ。さあ、こういう時は勢いが肝心だ!気持ちが揺らぐ前に、さっさと飛び降りよう!」
「………」
玄徳は暫し黙し、隣で何度も深呼吸を繰り返しながら、飛び降りるを計っている雲長を見詰めていたが、やがて、ふっと鼻で笑った。

雲長は、自分自身を人質ひとじちに取ったのだ。
彼が崖から飛び降りれば、一緒に飛び降りる。と言うその言葉に嘘は無いが、玄徳が他人を道連れにする事を良しとしないと読んでいたのであろう。

「どうした?飛ばぬのか?」
雲長は眉根を寄せ、玄徳の顔を覗き込む。

「…今日の所は、止めておこう…」

玄徳が言うと、彼は途端とたんにほっと安堵の表情を浮かべ、にやりと笑うと、

「そうか…!何も死に急ぐ事はない。嫌でも、人は必ず死ぬものだ!」
そう言いながら、たちまち互いの腕を縛っていた帯を解いて玄徳の肩を強く叩く。

「実は、翼徳の屋敷の裏にある、桃園とうえんの花が見頃でな…仲間たちと集まって、宴会を開く約束をしている。お前も一緒に行こうではないか!」
「…俺が行っては、迷惑を掛けるであろう…」
「何を言う、俺たちは義兄弟だ。他の者に何と言われようと、そんな事は気にするな!」
そして玄徳の肩を強く抱き寄せながら声を上げて笑うと、やがて共に肩を並べて歩き、二人はその場を後にした。


屋敷の門を強く叩くと、中から翼徳が顔を覗かせる。

「雲長兄貴、遅かったではないか!何だ…そいつ、生きていたのか?!」
雲長の顔を見ると嬉しそうに笑ったが、後ろに立っている玄徳に気付き、一瞬驚きの表情を見せたものの、彼は忽ち怪訝な表情を浮かべた。

「ああ、この邑の英雄だぞ。入っても良いか?」
「そ、それは構わぬが…随分汚れているではないか、そんな格好で入られては困る…!」
困惑の表情を浮かべる翼徳は、雲長の耳に囁く様に言いながら、襤褸ぼろを纏った玄徳を顎でしゃくる。

「分かった。風呂を借りるぞ。」
雲長は笑いながら玄徳の肩を引っ張り、我が家の様に知り尽くしている彼の屋敷の中をずかずかと歩き回って浴室へと向かった。

すっかり体の汚れを落とし、翼徳に借りた真新しい着物に着替えた玄徳は、雲長に連れられ屋敷の裏へと案内された。

「………!」
扉を開き、目の前に広がる光景に玄徳は思わず、はっと息を呑んだ。

そこには、想像していたよりずっと広々とした美しい桃園が広がっている。
その美しさは言葉では表現出来ぬ程であったが、何か胸の奥から熱い物が込み上げて来る様に感じる。

「どうだ、綺麗であろう?!」
桃園の端から端を指差し、翼徳が自慢げに話すのを聞きながら、玄徳は爽やかな風に吹かれ小さく呟いた。

「ああ、美しい…」

自分にまだそんな感情が残っていたのかと思うと、ふと目頭が熱くなる。

「翼徳、他の者たちはどうした?」
辺りを見回して雲長が問い掛けると、

「ああ…知らない者ばかりでは、あいつも面白く無いだろうと思ってな…皆には先に帰ってもらった。」
翼徳は少しが悪そうに自分の頭をく。

彼なりに玄徳に気をつかってくれたのだ…
その心遣いに感じ入り、雲長は目を細めながら彼の肩を軽く叩いた。

爽やかな風に吹かれながら、宴席を設け広げた筵の上に座した三人は、さかずきを傾けながら舞い踊る愛らしい桃の花弁はなびらを眺めて談笑した。
翼徳は、雲長が初めてこの邑へやって来た時の事などを楽しそうに語る。

二人の楽しげな様子を玄徳は黙って見詰めていたが、やがて静かに立ち上がり、それを見た翼徳が、
「どうした?もよおしたのか?」
と言って笑う。

「いや…翼徳、この着物を貰っても良いか?」
「え?ああ…構わぬが…」
振り返った玄徳に問い掛けられ、彼は少し戸惑いながら答えた。

「玄徳、もう行くのか?!」
かさず雲長が立ち上がり、彼の肩にせまり寄る。

「お前たちには、世話になった。あの時、二人が命懸けで俺を助けてくれた事に、今は感謝している…有り難う。」

そう言うと玄徳は目を細め、ひらひらと舞い落ちる花弁はなびらの中、二人に満面の笑みを送った。

彼が笑った顔を見たのは、この時が初めてである。
二人は驚き、歩き去る彼の後ろ姿を呆気に取られて暫し見送ったが、

「待ってくれ、俺を置いて行く積りか?!」
やがて我に返った雲長があとを追って走り出し、玄徳の肩を掴むと強く引き止めた。

「一緒に死のうと、誓い合った仲ではないか…!」

雲長が彼に向かってそう叫ぶと、二人に走り寄った翼徳が驚きの顔で雲長を見上げる。

「雲長兄貴、どういう意味だ…?何だか、凄く怪しい会話に聞こえる…」
翼徳は怪訝な表情で二人に問い掛ける。

「俺と玄徳は“義兄弟”になったのだ…」
振り返った雲長がそう答えると、

「俺は、お前と義兄弟になるとは言っていない…」
玄徳が穏やかな口調のまま否定する。

「それでは、今此処で正式に義兄弟のちぎりを交わそうではないか!翼徳、お前が証人となってくれ。」
「え、俺が…っ?!」
いきなり雲長に肩を強く掴まれ、翼徳は驚きの余り絶句した。
雲長は筵の上に置かれた盃を拾い上げると、その一つを玄徳に押し付ける。

「さあ、此処に誓おう。俺たちは生まれた日は違えど、心を同じくして助け合い、同年、同月、同日に死す事を天に願わんと…!」

「………」
玄徳は手渡された盃を手に、黙って俯いたままうつわの中の白くにごった酒をただじっと見詰めている。

「ちょっと、待ってくれ…!」
声を上げたのは翼徳である。

「雲長兄貴、本気なのか?!こいつと義兄弟になって、どうする気だ?この邑から出て行くのか?!」
「ああ…翼徳、今まで色々と世話になったな。お前の事は、本当の弟の様に思っていた…!」
そう言って雲長が彼の肩を強く叩くと、翼徳は忽ち目元を赤くして瞳を潤ませた。

「雲長兄貴…!兄貴が此処を出て行くのなら、俺も兄貴に付いて行きたい…!」
「翼徳、お前は此処で、何不自由なにふじゆう無く暮らしているではないか。わざわざ故郷を捨ててまで、付いて来る必要は無い…!」
「俺がこの邑から出ないのは、不自由無く暮らしたいからでは無い…!雲長兄貴が此処に居るからだ!」
翼徳は遂に大粒の泪をこぼし、鼻を強くすすってむせび泣く。

「翼徳……」
その姿に、思わず胸を締め付けられた雲長は、彼の肩を抱き寄せて優しくその背を撫でた。

「良いではないか。二人より、三人の方が縁起が良い…!」

「?!」
二人はその声に驚き、同時に顔を上げて振り返る。
そこに立つ玄徳は、出会った頃のすさんだ瞳の影をすっかり捨て去り、柔らかな笑みを浮かべて二人を優しく見詰めている。


「俺たち三人で義兄弟になろう!」


爽やかに言うと、玄徳はあふれる泪を着物の袖でぬぐう翼徳に、盃を差し出した。

「ああ、そうだな。二人で居るより、三人の方が心強い…!」
頬を紅潮させた雲長は嬉しそうに答え、玄徳に白い歯を見せて笑い掛ける。
三人は早速、宴席を払いそこへ簡素ながら祭壇を用意すると、改めて義兄弟の契を交わす事にした。

雲長と玄徳は、どちらも年齢より大人びて見えたが、二人は同じ歳である。
翼徳は体格が良く、身の丈は七尺(約160cm)をゆうに超えていたが、この時まだ十四歳になったばかりであった。
そこで雲長は、一番歳の若い翼徳が二人の弟である事は言わずもがな、玄徳を“長兄ちょうけい”とし、自分は“次兄じけい”となる事を提案した。

「玄徳、これからはお前を“兄”と呼び、どんな時も行動を共にすると誓う。兄者…これからは兄者の命は一人の物では無い、三人で一つだ。それを忘れないで欲しい…!」

「ああ、分かった。お前たちが俺を生かしてれたのだ…俺の命は、今日からお前たちの為にあると約束しよう…!」

「兄者…あんたをそう呼ぶのは、何だか気恥きはずかしいが…雲長兄貴が信じる男だ、俺も兄者の事を信じ、一生付いて行くと誓う…!」

こうして、この日三人は美しい花の咲き誇る桃園にいて義兄弟のちぎりを結び、生死を共にする事を固く誓い合ったのである。

「そうでしたか、それは素晴らしい話です…!」

二人から話を聞いた子龍は深く感銘かんめいを覚えた様子で、頬を紅潮させながら稍々やや興奮気味であった。

「しかし…玄徳殿は何故、そこまで命を捨てる覚悟をしていたのでしょう…?」
先程からパチパチと音を立てているき火の炎を見詰めながら、彼が不思議そうに首を傾けると、

「それはな…聞くも涙、語るも涙の話なのだ…」
翼徳は子龍に肩を寄せ、深い溜め息を吐きながら再び彼に語るのであった。


既に漆黒となった空には、満点の星が輝いている。
辺りには広々とした草原が広がり、彼の足元には少し背の高い草花が柔らかい風に揺れている。

孟徳…お前も何処かで、同じ空を眺めているのであろうか…
手を伸ばせば掴めそうなその星空を仰ぎ見ながら、玄徳は遠い友に思いをせた。

玄徳には、最早もはや彼の行方を知る手立ては無いが、確かに何処かで生きているという確信があった。
もしかすると、幽州へ向かえば何か朗報ろうほうが有るのではないか、という期待を持っていたが、ずっと感じていた“良い兆し”の正体は、どうやら趙子龍との出会いだった様である。

玄徳は瞼を閉じて、吹き抜ける風を深く胸の奥に吸い込み、再び瞑想めいそうを始めた。

「玄徳殿、此処にいらっしゃいましたか…雲長殿と翼徳殿から、三人が義兄弟になった頃の話を聞きました。」
嬉しそうに声を弾ませながら背の高い草花の間を縫って、子龍が彼に歩み寄って来た。

「あいつら…どうせまた余計な事を話したな…」
玄徳は子龍を振り返りながら、眉根を寄せて苦笑を浮かべる。

「お三方の強い絆に、とても感銘を受けました…!それから、妹君の事も…」
「………」
黙ったまま玄徳は子龍に向き合い、彼の顔をじっと見詰めた。

「今の玄徳殿のお姿を見れば、亡くなった妹君は、きっと喜んでくれるでしょう…!」

子龍は瞳を輝かせ、満面の笑みを浮かべて彼に言った。

「本当に、そう思うか…?」
「はい。どうしても、あなたにそれをお伝えしたくて…何故か、俺にはそう強く思われるのです…!」
それを聞くと、玄徳は激しく胸を打たれ、思わず瞳を潤ませた。

「そうか…有り難う、子龍…」
「では、お邪魔を致しました。」
子龍は爽やかに言うと、素早く彼に向かって拱手し振り返って、来た道を引き返して行く。
遠ざかる彼の背中を、玄徳はただ黙って見送った。

彼の口からそれを聞くことが出来るとは…
それは、玄徳にとって想像していたよりずっと嬉しい事であった。
彼に前世の記憶など存在しない筈であるが、僅かにそれを感じているらしい。

知らず知らず溢れ出る泪のしずくが、彼の頬を伝い流れ落ちた。

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