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第七章 魔王の暴政と小さき恋の華

第七十九話 鈴星への想い

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伯斗はいぶかしげな表情でその青年を見ると、少し考える素振そぶりをしてから、ゆっくりと口を開いた。

「さあ、残念ながらその様な人物は知りませんね…」
「そうですか…」
それを聞いた青年は、酷く落胆した様子で肩を落とし、「では…」と小さく頭を下げて立ち去ろうとした。

「もし見掛けたら、伝えておきましょう。貴方あなたのお名前は?」

青年を呼び止めると、彼は自分の頭をきながら振り返り、

「申し遅れました。僕は、虎淵こえんと申します。曹孟徳様は、僕のあるじです。」
そう言ってさわやかに笑うと、再び彼に向かって拱手した。

鈴星の事を考えると、孟徳の事も迂闊うかつに他人に話すべきでは無いと判断した伯斗は、黙ったまま彼に挨拶を返し、丘を越え、来た道を引き返すその後ろ姿を見送った。

本当に孟徳の味方かどうか、本人に確認を取る必要がある…
伯斗はそう思い、彼の姿が完全に見えなくなると、きびすを返して河へ戻って行った。

「兄様ーーーっ!!」

生い茂る草木をき分けて、大きく手を振りながら此方へ走って来る鈴星の姿がある。
見れば、彼女の後ろを付いて走っているのは孟徳であった。
二人は息を切らせながら、河辺で魚を魚籠びくに詰め込んでいる伯斗の元へと走り寄った。

「兄様、魚は沢山れた?」
そう言って、鈴星は伯斗が手にした魚籠の中を覗き込む。
伯斗はその様子に、ふふっと笑い、

「ああ、今日は調子が良い。あと少し捕ったら、市場へ売りに行こう。」
そう答えた後、今度は顔を上げて孟徳を見る。

「どうだ、お前も一緒に行くか?」

伯斗に問われ、孟徳は彼に微笑を向けながら大きくうなづいた。

三人は魚の入った魚籠をそれぞれの手にげ、そこからそう遠く無い小さな城邑じょうゆうの門を潜った。
市場へ出向くと、そこには空腹にあえぐ近隣の貧しい邑人むらびとたちが、食料を求めて大勢群がっていた。

酸棗さんそうの連合軍は兵糧が尽きると、近隣のむらから略奪を行った為、何処も食料難に喘いでいるのだ…董卓が長安へ逃げ去った今、最早“反董卓連合”とは名ばかりで、瓦解がかいの一途を辿っている…」
「………」
伯斗が憂いの眼差しで語るのを聞きながら、孟徳は複雑な思いで彼らを見詰めた。

成皋せいこう県の敖倉ごうそうを奪う事が出来れば、戦略の拠点を築けるだけでは無く、十万の連合軍の兵糧問題も解決する事になった筈である。
敖倉は曲阜きょくふの東にある敖山ごうざんに作られた巨大な備蓄倉庫であり、戦国時代には度々ここが戦略拠点とされた。
連合軍が一致団結して敵に当たれば、徐栄じょえいの軍に敗れる事も無かったかもしれない…
そう考えると、心底から悔しさが込み上げ、孟徳は唇を強く噛み締めた。

彼が連合軍の指揮官の一人であるらしい事に、薄々勘付かんづいていた伯斗は、黙ってその横顔を見詰めていた。
が、ふと自分の足元に一人の童子が指をくわえ、彼の腰にげられた魚籠びくを見詰めて佇んでいる事に気付いて視線を落とした。

「坊や、どうした?腹が減っているのかい?」
柔らかく微笑しながら問いかけたが、童子は黙ったまま答えない。
伯斗は腰を下ろして片膝を突くと、童子を見上げてその手に魚籠の中から取り出した魚を一匹握らせた。

「さあ、持ってお行き。母や兄弟たちが待っているのだろう?」
童子は不思議そうな顔で、何度もまばたきを繰り返したが、やがて踵を返して走り去って行った。

「兄様、魚を売りに来たのではないのか?」
「困っている時は、お互い様だ。捕った魚は、邑人たちに分けてあげなさい。」
訝しげに問い掛ける鈴星に、伯斗は笑い掛け、魚籠の中の魚を取り出し彼女に差し出す。

「兄様ったら…全く、人が良いのだから…!」
鈴星はやや呆れた様な口調ではあったが、彼のそういう所もまた良く理解している。言われた通り、邑人たちに魚を分け与えた。
それを見ていた孟徳も彼らの側へ行き、鈴星と共に邑人に魚を配るのを手伝った。

あっという間に捕った魚たちは無くなり、彼らは空の魚籠をぶら下げて市場を後にした。
市場の門を潜ると、伯斗が鈴星を振り返り声を掛ける。

「鈴星、此処へ来るのも久し振りであろう?少し邑内ゆうないを見て回っても良いのだぞ。」

すると、鈴星は瞳を輝かせて彼を見上げ、瞬く間に頬を紅潮させた。
その顔を見て、伯斗は目元に微笑を浮かべる。

「余り遠くへは行くなよ。私は孟徳と一緒に、城門の近くで待っているから。」
「うん、兄様。有り難う!」
鈴星はそう言うと、嬉しそうに大通りの方へ駆け出した。

遠ざかる彼女の後ろ姿を見詰めながら、伯斗は少し苦笑を浮かべて呟く。
「いつも、あの小さな邑に閉じ籠もっているからな…たまには羽根はねを伸ばしてやらないと可哀想であろう。お洒落しゃれな髪飾りや、着物の一つでも買ってやりたい所だが…」

それからおもむろに視線を孟徳へ向け、じっと彼の瞳を見詰めた。

「…?」
孟徳が不思議そうに首をかしげると、伯斗は真剣な眼差しのままで口を開いた。

「実はな、今日お前を探しているという若者に会った。」
「?!」
「歳はお前と同じくらいだろう。彼は、“虎淵”と名乗っていた。」

虎淵が、俺を探しに…!

「鈴星をかくまっている事もある。迂闊うかつに他人に居所を知られたく無かったのでな…お前の事は知らないと言って置いた。分かってくれ。」
「………」
孟徳は少し落胆した表情を見せたが、小さく彼に頷いた。

「あの子は、お前の事を気に入っている様だが…お前は、仲間の元へ戻らねば成らぬのであろう?俺がお前を助けたのは、天の導きにるものだ。去りたい時に去って行っても良い。」

「……!」
伯斗の言葉に、顔を上げた孟徳は困惑して微笑する彼の顔を見詰めた。

このまま、鈴星とは此処で別れた方が良いのだろうか……?
孟徳の胸には複雑な思いが押し寄せる。

一刻も早く虎淵に自分の無事を伝えたいが、このまま此処を去れば、今生こんじょうの別れとなって仕舞うかも知れない。
鈴星に真実を明かさず想いも伝えられぬままで、一生に悔いを残す事には成らないか……?!

その瞳に困惑の色が生じているのを読み取った伯斗は、彼に歩み寄り声を掛けようとした。その時、

「何だと、お前連合軍のやつか…!この邑でも食料を奪って行く積もりか?!」

突然遠くから邑人の怒鳴り声が聞こえて来た。
振り返って見ると、市場の門の辺りに人集ひとだかりが出来ている。

「ちっ違います…!僕は人を探しているだけで…略奪なんてしていません!」
邑人たちに取り囲まれた人物は慌てて弁解する。

「黙れ!お前たちの所為せいで、わしらは皆、食料難に苦しんでいるんだ!」
「そうよ!どうやって小さな子供たちを育てて行けと言うの…!」
「おい、みんなでこいつを捕まえて、さらし首にしよう!略奪に来る連中への見せしめだ…!」

邑人たちは口々に彼を罵り、武器を手に迫った。

「止めないか、お前たち!彼は略奪とは関係無いと言っているだろう!」
興奮する邑人たちを押し退け、間に割って入った伯斗が青年の前を塞ぐ。

「それにお前たちこそ、河辺で死んだ兵士から金品を奪い取ったであろう…!お互い様では無いか…!」
更にそう言って怒鳴ると、邑人たちは少しの悪そうな顔をしたが、幾らか落ち着きを取り戻し、皆不満の表情を浮かべつつもやがてその場を去って行った。

「またお会いしましたね、虎淵殿。」
「ああ、貴方は先程の…!お助け頂き、有り難うございます!」
伯斗が微笑を向けると、虎淵は安堵あんどの表情で彼を見上げる。
それから、ゆっくりと後ろを振り返りながら、伯斗が視線を送った先を見るよううながすので、虎淵は眉をひそめつつその視線の先を辿った。

するとそこには、小波さざなみの様に引いて行く邑人たちの間に佇んでいる一人の青年の姿がある。
その姿を認めた瞬間、虎淵は思わず大きく息を呑んだ。

「も、孟徳様…!!」

山並みに沈み行く夕陽に赤く照らし出され、驚きの表情でそこへ立ち尽くしているその美しい顔立ちの青年は、紛れも無く彼が探し求めていた人である。
次の瞬間、弾かれた様に走り出した虎淵は、勢い良く孟徳の体に抱き着いていた。

「孟徳様、孟徳様…!嗚呼ああ、良かった…!きっと、生きていると信じておりました!!」
虎淵は彼の体を思い切り抱き締め、声を震わせて何度も彼の名を呼ぶと、大粒の泪をこぼす。
その抱き締める力が余りに強く、孟徳は息が出来ずに彼の腕の中で藻掻もがいた。

くっ…苦しい…!

虎淵は、はっとして孟徳の肩を掴み、今度はぐいと引き離す。
そして孟徳の首に巻かれた包帯を見詰めて問い掛けた。

「孟徳様、怪我をされているのですか?!その首は…?」
「喉に矢傷を負っていてな、今はまだ声を出す事が出来ぬのだ。」
そう答えながら、伯斗が二人に歩み寄った。

「そ、そんな…大丈夫なのですか?!」
心配そうな顔で見詰める虎淵に、孟徳は苦笑を浮かべながら小さく頷いて見せる。
すると、

「兄様、孟徳…どうかしたのか?」

そこへ戻って来た鈴星が、彼らのただならぬ様子を感じ取り、いぶかしげに近付くと、そこに現れた第三の人物の顔を見上げて二人に問い掛けた。

「あ、貴女は…もしや、鈴星様では?!」
突然、虎淵が驚きの声を上げる。

「!?」

それに驚いたのは孟徳である。

まずい…!虎淵は、鈴星を知っている…!

「あなた…誰?」
鈴星が眉をひそめてその顔をじっと見詰めると、虎淵は苦笑を浮かべ、

「覚えていらっしゃいませんか?僕は、曹家で孟徳様…いや、麗蘭様の従者を……っ」
そこまで言い掛けた時、咄嗟に孟徳が手を伸ばし、虎淵の口を塞いだ。
孟徳は首を強く横に振って、何かを訴え掛けている様だが、虎淵は訳が分からず彼の腕を振り解く。

「も、孟徳様…っ、どうしたんですか?!」
「………!!」
酷く狼狽ろうばいした様子の孟徳に、虎淵は首をひねる。
すると鈴星は目を見張り、

「…虎淵…?そうか、思い出した…!お前は確か、奉先の弟子で麗蘭の従者だった…」
そう言って虎淵の顔をじっと見詰め、その後はっとして孟徳を振り返る。
信じられないと言った表情の鈴星は、唇を震わせ目元を赤くしながら孟徳を見詰め、問い掛けた。

「孟徳…?お前…お前だったのか…?!やっぱり…お前が、麗蘭なのか…?!」

鈴星の顔は見る間に紅潮し、両耳の端まで真っ赤になって行く。

「………っ!」
怒りに震える彼女の瞳を凝視ぎょうしする事が出来ず、孟徳は思わず戸惑った様に視線を足元に落とした。
それを見た鈴星は俯き、握った拳をわなわなと小刻みに震わせる。

「ずっと…ずっと、わらわの事を…だましておったのだな…!」

違う…!鈴星、俺は……!

慌てて顔を上げた孟徳は、必死にそう訴えようとしたが、次の瞬間、真っ赤な顔を上げた鈴星が鋭く彼を睨み付けた。
その瞳には、大粒の泪があふれている。

「お前なんか…お前なんか、大嫌いだ!!」

そう叫ぶと同時に、手に握っていたらしい結んだひもの様な物を孟徳に目掛けて投げ付け、鈴星は彼に背を向けて走り去ろうとした。

「…鈴星…!!」

「?!」

その呼び声に、鈴星は思わず立ち止まった。
咄嗟に口から出たその声は、酷くかすれてはいたが、それでも孟徳は必死に声を絞り出した。

「…お前を、騙す積りでは無かった…!だが、お前を傷付けてしまって…ごめん、許してくれ…」

振り返った鈴星の瞳に溢れた泪が、頬を伝って流れ落ちる。

「…本当に…ごめん…」
目元を赤く染めながら、孟徳は再びそう呟いた。
鈴星は黙ったまま彼を見詰めていたが、やがて泣きながら顔をそむけてその場から走り去ってしまった。

その様子を、虎淵は訳も分からず呆然と見詰め、静かに孟徳に歩み寄った伯斗は、彼の足元に落ちている結ばれた紐を拾い上げた。

それは、彼らを照り付ける夕陽の色を吸い込んだ様な、唐紅からくれない色のかんを結ぶ為のひもである。

「鈴星のやつ…お前の為に、の金でこれを買ったのであろう…」
そう呟き、小さく溜め息をくと、立ち尽くす孟徳の前にそれを差し出した。
孟徳は赤い目でそのひもをじっと見詰めていたが、やがて顔を上げ、

「伯斗殿…色々と、世話になりました…」

そう言って彼に向かって拱手きょうしゅし、力無く肩を落として歩き始める。
伯斗は黙ったまま、立ち去る彼の後ろ姿を見送った。

「あの…孟徳様、僕…何か悪い事を言ったのでしょうか?」
「…いや、気にするな。これで、良かったのだ…」

困惑した顔で問い掛ける虎淵に、孟徳はそう答えたが、彼の表情は浮かないままであった。

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