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第五章 虎狼の牙と反逆の跫音
第五十四話 督郵の男
しおりを挟む澄み渡る青空の下、辺りには平坦な田園風景がどこまでも広がっている。
城壁に囲まれた小さな邑里にある役所の門を、一人の中年の男が足早に潜って行く姿があった。
役所の中はもぬけの殻である。
壁際に置かれた棚には書簡が山の様に積まれており、書斎の机にも開いたままの竹簡たちが、無造作に投げ出されていた。
「はぁ…」
男はそれを見て小さく溜め息を吐くと、その部屋を出て裏庭の方へ向かった。
裏庭からは、大勢の子供たちの声が聞こえている。
師の声に合わせて、皆で復唱している声である。
男は子供たちの後ろから、前方に立っている背の高い師に声を掛けた。
「関雲長殿、県尉殿は一体、何処に居られるのか?!」
雲長は振り返り、その中年の男を見下ろすと、白い歯を見せて笑った。
「これは里長殿、兄者なら多分…邑の子供らを連れて、川へ釣りに行っているのではないか?」
「つ、釣りですと!?仕事を放り出して、釣りをしていると言うのですか?!」
里長は声を上擦らせながら、呆れた様に目を剥いた。
その顔を見て、子供たちが一斉に笑い声を上げる。
里長は憤然とした様子で子供たちに何かを言おうとしたが、構っておられぬといった表情で踵を返し、その場からさっさと立ち去った。
「ねぇ、師亜様、何を釣ろうとしているの?」
木陰の大きな岩の上に腰を下ろした玄徳の隣で、幼い童子が頬杖を突きながら問い掛ける。
小川の周りには、同じように釣り糸を垂らした少年少女たちの姿があり、下流では楽しげに水浴びをする、たくさんの童子たちの相手をしている、張翼徳の姿もあった。
「ふふ、何が釣れるかな?そろそろ、釣れる兆しが見えるぞ。」
玄徳は童子に微笑を向けながら、長い釣竿から垂らした糸を、少しだけ上下させた。
黄巾討伐の後、その時の功績が認められた玄徳は、中山国安熹県の尉に任命される事となった。
早速、玄徳は関雲長、張翼徳の二人の義兄弟たちを連れ、この片田舎へとやって来た。
『県尉』は、小さな邑の警察署長の様なものである。
それでも玄徳は職務に励み、毎日村々を見回っては悪党やその輩を討伐し、邑里の治安を護って立派に統治した。
邑民たちも次第に彼を慕い、いつしか"剣聖師亜"の名で呼ぶ様になっていた。
そんな玄徳の元へ現れた里長は、小川に架かった橋を渡りながら彼に呼び掛ける。
「県尉殿!仕事をほっぽり出して、呑気に釣りですか…!?」
木漏れ日に手を翳して、橋を渡って来る里長の姿を認めた玄徳は、少し残念そうに童子を振り返った。
「どうやら、釣れたのは里長殿であったか…」
そう言うと、僅かに苦笑を浮かべる。
玄徳は岩からひらりと地面に降り立ち、近付く里長に拱手した。
「県尉殿、陳情書はまだ片付いておりませんぞ!それに、お尋ね者が現れたとの報告も…」
里長が矢継ぎ早に話すのを、玄徳は手で制する。
「里長殿、余り大きな声を上げないでくれないか。魚が逃げてしまう。」
「こんな時に、魚など釣っている場合では有りません!」
里長は玄徳の手を押し退けて、更に声を荒げる。
「良いですか、以前もお伝えした通り、近々郡の督郵(監察官)が此処へやって来る事になっているのです。あの役所を見れば、県尉殿は首になってしまいますぞ!」
「分かった、分かった。仕事はきちんと熟します。ご心配無く。」
笑って答える玄徳を、里長は不安気な表情で見詰めた。
「県尉…玄徳殿、あなたが来てから、この邑は活気を取り戻しました。黄巾の乱で、すっかり荒れ果てたこの邑に笑顔が戻る日を、邑民たちがどれだけ待ち望んでいた事か…」
里長はそう言うと、振り返って小川で戯れる子供たちを眺めた。
玄徳も同じ様に目を細め、その光景を眺める。
「里長殿、彼らはもう、立派に自分たちの足で立ち直っている。俺がいなくても、大丈夫だ…」
「冗談は止して下さい!さあ、役所へ戻って仕事を片付けましょう!」
玄徳は里長に急かされ、渋々岩の上の童子に釣竿を手渡し、小川から離れると橋を渡った。
それから三日後の夕刻、小雨が降り頻る中、役所の門を激しく叩く者があった。
応対に出た部下が、血相を変えて玄徳の居る書斎へ戻って来る。
「玄徳殿、郡の督郵が到着したそうです…!」
「そうか…では早速、面会を申し入れてくれ。」
溜まっていた仕事を殆ど片付け、残りの書簡に目を通していた玄徳は、顔を上げずにそう答えた。
「はい…それが、その…」
部下は、どこか歯切れの悪い口調で返す。
不審に思った玄徳が顔を上げると、
「督郵は、玄徳殿にはお会いにならないそうです。」
と、戸惑い気味に答えた。
「…?」
それでは一体、この邑へ何をしにやって来たのか…?
玄徳は首を捻った。
その時、雨に濡れながら里長が書斎へ飛び込んで来た。
「県尉殿…!督郵に一体、何をしたのです?!」
里長は激しく肩で息をしながら、青褪めた顔で玄徳を見上げる。
「今し方、県尉殿が罷免されるとの報告が…!」
「何だって…?!俺は何も…いや、それ所かまだ会ってもいない…!」
玄徳は思わず立ち上がって、手にした書簡を机の上に投げ出した。
「いや、待て…」
ふと玄徳は冷静さを取り戻し、自分の胸に手を当てた。
朝から何やら胸騒ぎがしていた。
これは、悪い兆しだ…!
「督郵に会って来る…」
短くそう言うと、呆然と立ち尽くす里長の横を素早く通り過ぎ、玄徳は雨の中へ出て行った。
その頃、督郵は邑里に住む富豪の屋敷に部屋を借り、屋敷の主人から手厚いもてやしを受けていた。
「どうか督郵様、我が廖家をよろしくお願い致します…!」
主人はそう言って、金銀の詰まった箱を家来たちに運ばせ、機嫌良く酒を飲む男の前に差し出した。
男は酔眼を上げてそれを眺め、
「良かろう、わしに任せておくと良い!」
そう言って口の端を上げて、にやりと笑う。
督郵の男は壮年ではあるが、立派に整った顎髭と口髭を持っている。
その上、男は良く見ると目鼻立ちの整った美男であり、自分でもそれが良く分かっているらしく、立派な顎髭を撫でながら、自分自身に陶酔している様子であった。
「所で、県尉殿には、もうお会いになりましたか?」
主人のその問い掛けに、それまで機嫌が良かった督郵は急に顔色を変え、鋭く酔眼を向けた。
「そんな奴の事など、どうでも良いわ!どの道、県尉は罷免となるのだからな!」
「え?!玄徳殿が罷免に…?!ま、まさか…彼は我々の為に良く働いて…」
主人がそこまで言い掛けた時、突然督郵は立ち上がり、主人の顔を足で蹴り飛ばした。
「そいつの名をもう一度言ってみろ!次は命の保証は無いぞ!」
男の余りの剣幕に、主人は鼻から大量の血を流しながら恐れ戦いた。
主人が家来たちに助け起こされ、怖ず怖ずと室内から出て行くのを、男は冷めた目付きで睨み付けている。
「あの玄徳が…いつの間にやら、漢の役人になっていたとは…」
男は、窓の外で次第に強くなる雨音を聞きながら、面白くない顔でそう一人呟いた。
「兄者、何処へ行くんだ?!」
書斎での騒ぎを聞き付け、裏庭の方から走って来る翼徳と出くわした。
「今から、督郵に会いに行って来る。お前たちは、此処で待っていてくれ…!」
そう言って役所の門を足早に潜った時、今度は雲長が走り寄って来た。
「兄者、俺たちも一緒に行くぞ。何があろうと、俺たちは何時も一緒だと、誓い合った仲であろう!」
雲長が強い口調で言いながら自分の胸を拳で叩き、二人は急いで玄徳の後を追い掛ける。
振り返った玄徳は二人を見詰め、黙ったまま小さく頷くと、三人は肩を並べ次第に強くなる雨の中、傘も持たずに足早に歩いた。
督郵が宿泊している富豪の屋敷へと辿り着いた頃には、雨足は一層強くなり、三人はすっかりずぶ濡れの状態であったが、それには構わず、玄徳は握った拳で激しく屋敷の門を叩いた。
やがて応対に現れた屋敷の使用人は、彼らの姿を見て驚き、慌てて門を閉じようとした。
「待て…!督郵が此処へ泊まっているだろう?彼に会いに来た!」
咄嗟に玄徳は、閉まり掛けた門を手で押さえ、使用人に呼び掛けた。
「と、督郵殿は、県尉殿にはお会いになりません…!お帰り下さい!」
「何故だ?!」
おろおろとしながら門を押し戻そうとする使用人に、玄徳は食い下がる。
「それには、お答え出来ません!お帰りを…!」
「…そうか、分かった…」
玄徳は顔を伏せ、小さくそう呟くと、
「後で、修理代を請求してくれ…!」
言うが早いか、屋敷の門を思い切り蹴破った。
使用人はその勢いで後方へ吹き飛ばされ、地面に倒れて気を失う。
三人は素早く屋敷の中へ入り、彼らの行く手を遮ろうと向かって来る他の使用人たちを、素手で次々に打ち倒して行った。
やがて、奥から剣を携えた用心棒たちが現れ、容赦無く三人に斬り掛かって来る。
先頭を走る玄徳は素早く腰の剣を抜き放つと、襲い来る剣刃を弾き飛ばし、相手を素早く体落としで投げ飛ばす。
雲長、翼徳の二人も剣を手に、用心棒たちの攻撃を撥ね退けながら、空拳で彼らを叩き伏せた。
巨漢の翼徳の腕から繰り出される打撃は、用心棒たちの剣を破壊する程の威力であり、突き出された数本の槍を素早く躱した雲長は、彼らの槍の柄を掴み取り、全て真っ二つにへし折ってしまった。
流石にその光景には、用心棒たちも震え上がる。
遂に、三人は督郵の泊まる部屋の前までやって来た。
玄徳は入り口の扉の前に立ち、暫し扉を睨み付けていたが、やがて顔を上げ勢い良く開いた。
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