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第五章 虎狼の牙と反逆の跫音
第五十五話 新たなる旅立ち
しおりを挟む部屋の中では、男をもてなす為に集められた美女たちが悲鳴を上げ、次々と開かれた扉から逃げ出して行く。
そんな中、部屋の奥には片膝を立て悠々と酒を飲んでいる男の姿がある。
男は勢い良く酒器を卓の上に置き、酔眼を上げて玄徳を睨んだ。
「玄徳…!久しぶりではないか、元気そうだな…!」
男は大声でそう呼び掛けると、口を歪めて不気味に笑う。
「やはり、あんたか…!」
玄徳は剣を鞘に収め、ゆっくりと男に近付いた。
「ははは、わしを覚えていてくれたとは、嬉しいではないか!」
男は笑い声を立てているが、冷酷さを持ったその目は笑っていない。
「まあ座れ、久々の再会だ。暫く見ぬ内に、すっかり大きくなった…」
そう言いながら男は、自ら酒を杯に注ぎ入れ、玄徳の前に差し出す。
玄徳は黙ってそれを見下ろしていたが、やがてゆっくりと腰を下ろし、卓を挟んで男と向かい合った。
その両隣に、翼徳と雲長も座る。
「お前の母は、まだ健在か…?」
男は薄笑いを浮かべたまま、そう問い掛けた。
「兄者、この人は…」
雲長が呟き、玄徳を見上げると、
「俺の、母を捨てた男だ…!」
真っ直ぐに男を見据え、そう答えた。
その時、遠くから雷鳴の轟きが聞こえ、静まり返る室内に微かに低く鳴り響いた。
玄徳と男は、無言のまま暫く睨み合っていたが、やがて不敵に笑いながら男が口を開く。
「人聞きの悪い事を言うな、村長から何を聞いたか知らぬが、わしがあの村を出たのは、お前の母の所為だ…!」
「どういう意味だ…?!」
再び酒を煽り始める男の姿を、玄徳は怒りの表情で睨み付ける。
「お前が村を去り、帰って来なくなってから…あの女は、わしがお前を殺したのだと疑う様になった。幾ら説明しても信じて貰えず、やがて常軌を逸した女は、わしを殺そうとまでしたのだ…!」
「母上が、まさか…!」
玄徳は驚きの声を上げ、瞠目した。
「あの女は…結局わしなんかよりずっと、お前の事を愛していたのだろう…母親とは、そんなものだ…」
男は小さく溜め息を吐きながら、酒の入った杯を口へと運ぶ。
両膝の上で拳を強く握り締め、玄徳は目を伏せて俯いた。
母を狂わせたのは自分だったのだ…
激しい後悔の念が沸き上がる。
しかし、どの道自分が傍に居ては、母を不幸にするだけだと分かっていた。
あの頃の自分には、どうする事も出来ず、選択する道は他に無かった…
母が自分を産んだその時から、運命は定められていたのだ。
「母上…」
幼い頃、膝の上で甘える玄徳を優しい瞳で見下ろし、「備や…」と囁きながら、温かい手で頭を撫でてくれた母の姿が思い出される。
玄徳の拳の上に、涙の雫がはらはらと舞い落ちた。
肩を震わせて泣いている玄徳を横目に見ながら、男は鼻でふんっと笑う。
「村を出た後、知り合った女が、たまたま豪族の娘でな…その娘壻になり、わしは今の地位を手に入れたと言う訳よ…!」
男の語る内容は、殆ど玄徳の耳には入って来なかった。
「まあ、いずれにせよ、わしはあの村を去る気であった。わしの様な色男が、あんな年増女など、本気で愛すると思うか?!」
声色に嘲りを含めながら、男は愉快げに高笑いをする。
俯いていた玄徳は徐に顔を上げ、赤い目を向けて男を睨んだ。
「俺の事は、幾らでも罵れば良い…!だが、母を愚弄する事だけは絶対に赦さぬ…!」
「何だ、わしを脅す積もりか?!」
男は尚も、目元に嘲笑を浮かべている。
握った拳を怒りに震わせながら、男を睨み付けている玄徳の姿からは、言い知れぬ瘴気の様なものが漂っている。
それを感じ取ると、急に男の背筋に悪寒が走った。
「全く…昔から、お前は気味の悪い餓鬼だった…!」
目元から笑いを消し、そう言い捨てると同時に、男は手にした杯の酒をいきなり三人に浴びせ掛け、杯を投げ捨てる。
「わしに危害を加えれば、貴様ら全員、罷免どころでは済まなくなるぞ!!」
「てめぇ!何しやがる…!!」
男が声を荒げて怒鳴ると、翼徳が顔を真っ赤にして怒鳴り返し、勢い良く立ち上がろうとした。
咄嗟に、玄徳の腕が翼徳の肩を押さえる。
雲長も翼徳と同様に、憤然とした表情で俯いた玄徳を振り返った。
「兄者…!」
「お前たちは退がっていろ…手出しは無用だ…」
玄徳は静かに怒りを湛えた瞳を上げ、男を睨み付けた。
その目には、ぞっとする程の殺気が満ちている。
「俺は元々お尋ね者…今更、どんな刑罰が科せられようと同じ事だ…!」
「な、何だと…!?」
男は寒気を覚え、思わずたじろいだ。
「貴様は今まで、数え切れぬ程の女たちの心を踏みにじって、これまで生きて来たのであろう…貴様の様な人間は、天が赦しても、俺は赦す訳には行かぬ…!!」
玄徳はゆらりと体を揺らしながら立ち上がり、足元の卓を蹴り飛ばすと男に歩み寄る。
「おい!貴様、わしに近付くな…!」
男は後退りながら、腰の剣に手を伸ばしている。
次の瞬間、剣を抜き放とうとする男の腕を素早く押さえ、肩で男の胸に激しく体当たりを食らわすと、男の体は後方へ飛ばされ床の上で勢い良く転がった。
玄徳は倒れた男の胸倉を掴んで強引に立ち上がらせ、素手で男の顔面を数発殴り付ける。
再び男が床に倒れると、今度は男を取り押さえながら、部屋の隅で怯える屋敷の使用人たちを振り返り、
「こいつを縄で縛り上げろ!」
と命令した。
使用人たちは慌てて縄を用意し、言われるがままに男を縄で縛り上げる。
玄徳は、縛られた男の体を引き摺る様にして、雨の降り頻る庭へと出て行き、大きな庭木の下へ男を括り付けた。
「わ、わしを、どうする気だ…?!」
男は腫れ上がる血塗れの顔で、声を震わせながら問い掛ける。
「此処であんたを生かそうが殺そうが…どの道、俺は県尉を罷免され、お尋ね者になるだけだ…」
そう言いながら、玄徳は近くに生えている竹の木から枝を一本へし折り、枝に付いた葉を剣で素早く払い落とし始める。
やがて一本の笞を作り上げ、素振りをしてみると、ひゅんひゅんと実に良い音が鳴った。
男はそれを見て顎をがくがくと震わせ、恐怖で声も出せない様子である。
「俺の大事な母を愚弄した罪を、死ぬまで後悔させてやる…!」
玄徳は鋭い目を上げ男を睨むと、笞を振り上げて勢い良く男の体をしばく。
「うぎゃああ!ひいぃ!ひぎゃあぁ…!」
余りの激痛に、叩かれる度男は断末魔の様な悲鳴を上げるが、玄徳は容赦無く男を打ち据えた。
「わ、わしが…悪かった!謝るから、赦してくれ…!」
激しい雨と笞に打たれ、涙と鼻水でぐしょぐしょになった情けない顔を上げて男は懇願する。
「この事は誰にも話さぬ、罷免の話も無かった事にするから…!」
「あんたの言葉など、信じるに値しない…」
泣きながら訴える男の姿を、玄徳は冷ややかな眼差しで見下ろしている。
振り上げた笞は唸りを上げて、更に男の体を打ち据える。
周りで見ている者たちは皆青褪め、鳴り響く笞の音と男の悲鳴を、肩を竦めて聞いていた。
やがて男の衣服はずたぼろになり、遂に男は白目を剥き、口から泡を吹いて失神してしまった。
再び笞を振り上げた時、庭へ降りて来た雲長と翼徳が、彼の腕と肩を押さえた。
「兄者、それ以上やったら本当に死んでしまうぞ!?」
「こんなに謝ってるんだし、赦してやってはどうだ?兄者…」
二人は、男が次第に哀れに思えて来たらしい。
怒りを湛えた眼差しで振り返る玄徳を、眉根を寄せ、眉間に深く皺を刻んで見詰めている。
玄徳は不満の表情であったが、腕を下ろし男を睨むと、
「今日の所は、俺の義兄弟たちに免じて赦してやる…!」
と、低く言った後、屋敷の使用人たちを振り返り、
「解いてやれ!」
と呼び掛け、素早く踵をして歩き出した。
縄を解かれた男は、息も絶え絶えでその場に崩れ落ちたが、玄徳は振り返る事も無く庭を横切り、その屋敷を後にした。
足早に玄徳の後を追い掛けて行った雲長と翼徳は、やがて彼に肩を並べた。
「兄者、初めから、あの男を殺す気など無かったのだろう?」
雲長が微笑しながら、玄徳の横顔に問い掛ける。
「俺たちが止めに入ると、最初から分かっていたな…だから、俺たちを一緒に連れて行ったのだ。」
「そうなのか?!全く、兄者は人が悪いぜ…!」
玄徳はそれには答えず、口を尖らせながら愚痴る翼徳を軽く振り返り、ふっと笑った。
役所へ戻ると、軒下の縁石に腰を下ろし、里長が待っていた。
三人の姿を認め、里長は立ち上がって出迎える。
「県尉殿…如何でしたか?」
里長は不安な表情で玄徳を見上げる。
「短い間でしたが、里長殿には大変世話になりました…」
そう言って玄徳は里長に拱手し、深々と頭を下げた。
「ああ、やはり…此処を去られるのですね…」
里長は残念そうに首を小さく振り、深い溜め息を吐く。
玄徳は里長の肩に手を乗せ、彼の肩を強く揺すり、
「大丈夫です、里長殿。この邑の人々は我らが居なくとも、立派に生きて行ける…!いや、我々がいつまでも此処に留まっていては成らぬのです…!」
そう言って笑顔を向けた。
里長は赤い目を上げ、雲長と翼徳らの顔を見回した後、彼らに強く頷いた。
翌朝、雨はまだ降り続いていたが、昨夜より雨足は少し和らいでいた。
邑を出て行く三人を、雨の中邑民たちが大勢見送りにやって来た。
「師亜様、行っちゃうの…?」
幼い童子が玄徳の足元へ走り寄る。
玄徳は振り返って、童子を腕に抱き上げた。
微笑を浮かべ、集まって来た子供たちを見回すと、彼らの頭を順番に撫でる。
「ああ、だが何時かまた、此処へ戻って来るかも知れない…その時まで、お前たちがこの邑を護るんだぞ!」
子供たちはその言葉に強く頷いた。
「では、そろそろ行こうか。」
玄徳は童子を足元へ降ろし、馬に跨がると、雲長、翼徳らと共に馬を進ませた。
小川に架かる橋を超えて行く三人を、子供たちが追い掛けながら大きく手を振って見送っていた。
邑の門を潜ると、広々とした田園が広がっている。
彼らはその間を通る細い小道を、何処までも馬で進んで行った。
「兄者、何処か行く当てが有るのか?」
ずっと、疑問に思っていた翼徳が問い掛ける。
「今の所は…無いな…!」
玄徳は涼しい顔で答えた。
「無いのか?じゃあ…何処へ向かってる?」
「さあな…風の吹くまま、気の向くまま…といった所かな?」
「兄者、また俺たちは放浪者になるのか…?!」
翼徳は頭を抱えて、溜め息を吐く。
「ははは!翼徳、俺たちはただの放浪者では無いぞ。"お尋ね者"なんだからな…!」
「雲長兄貴!何がそんなに可笑しいんだよ?!それでは、誰も俺たちを受け入れて呉れぬでは無いか!」
愉快そうに笑い声を上げる雲長を振り返り、翼徳は息巻いた。
「翼徳、心配ばかりしていては、幸運を逃してしまうぞ!」
玄徳は二人を振り返って笑顔を向けると、顔を上げ、雨の降り頻る薄暗い空を見上げた。
「夜明けが必ず訪れる様に、降り続く雨も、いつか必ず止む…俺たちの運命も、闇に閉ざされている時もあれば、必ず日光が差し込む時がある筈だ…」
再び二人に向き直り爽やかに笑った後、玄徳は腰の双剣を抜き取って、それを天高く翳した。
「未来は、俺たち自身で切り開くのだ!」
雲長と翼徳の二人は同時に馬上の玄徳を見上げ、眩しそうに目を細めた。
雲の隙間から、煌めく太陽の光が差し込んでいるのが見える。
やがて暗雲を切り裂く様に、次々と光が地上に降り注ぎ始めた。
やがて雨は上がり、沢山の水溜まりに美しい雲の流れる青空が映し出される。
三人は水飛沫を上げながら馬を走らせ、何処までも続く小道を颯爽と駆け抜けて行った。
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