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第五章 虎狼の牙と反逆の跫音

第五十三話 秘密の賭け

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宴が果て、董仲穎の屋敷の門を足早あしばやに通り過ぎようとした時、背後から孟徳は呼び止められた。
振り返ると、そこには小柄な老人が立っている。

さい先生…」
「私のしゃで、お送りしましょう。」
微笑する彼の誘いに応じて、孟徳は彼の車に乗り込んだ。

「私が付いていながら、仲穎殿の暴挙を止められず、誠に面目めんぼく無い…」
深い溜め息と共に、伯喈は力無くそう漏らす。

一度は仲穎からの招聘しょうへいを断った伯喈だったが、仲穎からの恨みを買う事を恐れ、雒陽へやって来てその幕下ばくかへ入った。
彼は仲穎に、儒学的な道徳観念や徳治とくち主義(徳のある統治者が徳をもって人民を治める事)による政治論を説いたが、仲穎には理解し難いものであったろう。
仲穎の持つ求心力とは、一族や仲間たちの間でのみ発揮されるものであり、他人に対しては全く発揮されないのである。
伯喈は常に、自分の無力さを感じざるを得なかった。

「蔡先生が、責任を感じる必要は有りません。」
孟徳は、伯喈の皺の多い細い手を取って、彼の白い眉毛の奥に覗く瞳を見詰めた。

冀州きしゅうに逃亡した袁本初は、反対勢力を集めており、宿敵の丁建陽をたおす事も出来ず、ぐずぐずしておれば誰に足をすくわれるか分からない。その状況に、相国は内心焦りを感じているのです…」

「その通りであろう…」
伯喈は強く頷き、孟徳の時勢を読み取る力の強さと正確さに感心した。

「こちらは、決して焦っては成りません。今、王先生と私は反目し合っている。少なくとも、相国の目にはそう映っている筈…」

孟徳はあの日以来、司徒しとの王子師とは会っていない。
仲穎の傘下に入った事で、孟徳は彼とたもとを分かつ事になったのである。

すっかり日が落ち、薄暗い曹家の屋敷の門前で車が止まると、孟徳は伯喈に礼を述べて車を降りた。
相変わらず小雪が舞い、冷たい風が頬を刺す。
孟徳は門前にたたずみ、去って行く伯喈の車が闇に溶け込むまで見送った。



数日ののち、再び孟徳は仲穎に呼び出され、楽文謙がくぶんけんを伴って彼の屋敷へ向かった。
長い廊下を渡り、広々とした庭を右手に見ながら、仲穎の側近に案内されて仲穎の居室の前へ辿り着く。
「従者の方は、廊下でお待ち頂きます。」

「俺は、孟徳殿の護衛だ!傍を離れる訳には参らぬ!」
側近の言葉に、文謙は怒りをあらわにする。

「文謙、大丈夫だ。此処で待っていてくれ。」
「しかし…」
不満を表情に表す文謙の肩を叩き、孟徳は微笑した。

扉を開き中へ入ると、室内に仲穎の姿は無く、孟徳は室内を歩いて見て回った後、奥にあるらしい寝所を覗き込んだ。
すると奥のしょうの上に、上半身裸のままで横になっている仲穎の背中が見えた。

この様な寒冷かんれいの日に…
見ているだけで寒気がする。
孟徳は寝所の外から、小さく咳払いをしてみたが、仲穎は起き上がる気配を見せない。

「曹孟徳が参りました。」
今度はそこから呼び掛けてみた。
しかし、仲穎はやはり反応を示さない。

呼んでおいて、何だ…!
孟徳は内心むっとし、結んだ口を歪めた。

今なら、仲穎を暗殺出来るのではないか…
孟徳はそう思ったが、今は剣をいて来ていない。
たが、先程の仲穎の居室の壁に、宝剣が何本も飾られていたのを思い出し、孟徳は振り返って居室の壁に視線を送った。

やがて、寝所へ足を忍ばせて侵入した孟徳は、牀の上で微動だにしない仲穎の背後に静かに近付く。
腕を伸ばし、仲穎の肩を掴もうとした瞬間、

「わしを殺しに来たのか?曹孟徳…!」

仲穎が突然声を上げ、大きな身体を起こして孟徳を鋭く振り返り、彼を睨み付けた。

「相国…!私は…」
驚いた孟徳は瞠目どうもくしたが、彼の手には何も握られてはいない。
孟徳は床に両膝を突き、仲穎に向かって揖礼ゆうれいした。

「………」
仲穎は牀の上に座り、孟徳を黙って見下ろす。

「相国が、私を此処へお呼びになったのでは…?」
戸惑った表情のまま、孟徳は目を上げて仲穎を見上げた。

「わしが…?そうか、そうであったな…」
仲穎は自分の顎髭を指でしごき、ふと思い出した様に呟く。

不思議そうに見詰める孟徳に再び視線を戻した仲穎は、やや口元に笑みを浮かべながら、彼の白い首筋へ手を伸ばし、その細い顎を掴んで顔を近付けた。

「孟徳、わしが怖いか?」
仲穎は底冷えする様な目で孟徳の瞳を覗き込む。

「怖く無い、と言えば嘘になります…」
「では、今わしを殺そうと考えたか?」

背筋を、冷たい汗が流れるのを感じた。
額にも汗が浮かんでいる。
この男に嘘は通じない。それも孟徳には分かっていた。

「しかし…私は生憎あいにく剣を持っておりませんので…」
「剣なら、隣の部屋にあったろう?何故取って来なかった?」

「それは…」
孟徳は少し声を震わせたが、

「私には、闇討ちは性に合いません…!」

そう強く答えながら、孟徳は仲穎を睨み返す。
それを見た仲穎はにやりと笑うと、孟徳の顎を掴んでいた手を放した。

「肝の座った奴だ…気に入ったぞ、孟徳!お前が、わしを殺せる日が来るであろうか?!」
そう言って、仲穎は豪快に笑声しょうせいを放ち、牀の上で上体を退け反らせて笑った。

「そんな事より、お前に聞きたい事があってな…」
「私に、ですか…?」
孟徳は怪訝けげんな表情を向ける。

「呂奉先という男を知っているか?」

その問いに孟徳は思わず眉を動かし、眉間に皺を寄せた。

冷たい風が屋敷の庭に吹き込み、寝室の窓をがたがたと鳴らしている。
室内の空気は冷たく、重苦しく感じた。
孟徳は床に跪いたままで、仲穎の探る様な目線を浴びている。

何故なぜ、その様な事をお聞きに…?」

「お前が、その男と知己ちきの間柄であると聞いたのだが…」

孟徳は一度小さく息を吸い込み、吐き出しながら呼吸を整えた。

「はい、確かに。彼は私の元従者でした…」
それから瞼を下げ、床へと視線を落とす。

何故なにゆえお前の従者であった男が、丁建陽の養子となり、その護衛となったのか?」
「詳しい経緯は、私にも分かりませんが…私の元を離れた後、呂龍昇りょりゅうしょう殿の配下になった筈です。」

「では、その男は次々とあるじを替えているという訳か?」
仲穎は身を乗り出して、更に質問を投げ掛ける。

「奉先は…誰よりも忠義にあつい男です…!」

孟徳は視線を上げると、仲穎の鋭い目を見詰め返してそう答えた。

「ほう…では、その忠義に篤い従者が、お前の所へ帰らぬ理由は何か?」
「そ、それは…」
言い掛けて、孟徳は言葉に詰まった。

むしろ、それは俺が知りたい…
孟徳は困惑した目で視線を泳がせ、再び俯いた。

仲穎は、ふんっと鼻で笑った後、

「"忠義"など、利の前には無力である。その男は、実に欲望に忠実と言えよう…!」
そう言って声を上げて笑った。

孟徳は目を閉じ、俯いたまま握った両手の拳を小さく震わせていた。
奉先が戻らぬ理由が、思い当たらぬ訳でも無い。

『その男には、良いきざしが見えぬ…』
『どちらかが、死ぬ事になってもか…?!』

降龍こうりゅうの谷で、劉玄徳に言われた言葉を思い出す。

もし、奉先が玄徳に会って、同じ事を言われていたとしたら…
あいつがそれを信じるにしろ、信じぬにしろ、俺を危険に巻き込む様な真似はしない筈である。
孟徳は着物の上から、胸に下げてる翡翠ひすいの首飾りに手を押し当て、その熱を感じ取った。

劉玄徳…お前は今、何処で何をしているのか…?
孟徳がふとそんな事を考えていると、仲穎が独り言の様に呟いた。

「上手くやれば、利に釣られてこちらに寝返るやも知れぬな…」

孟徳は思わず瞠目し、仲穎を見上げた。

「奉先に、丁建陽を裏切らせるお積もりですか…?!」

「何だ、元従者の事が心配か?」
「いえ…ただ、それは難しいのではと…」
孟徳が口篭くちごもると、仲穎は口の端をあげて、にやりと笑う。

「わしには、出来ぬと言いたいのか?では、見事奴を寝返らせる事が出来たら、わしの勝ちを認めるか?!」
仲穎は両膝に手を突き、身を乗り出して孟徳の顔を覗き込む。
狼虎の如き鋭い眼差しで間近に迫られ、額には汗が浮かんだが、

「もし本当に、心服させる事が出来たなら…相国の勝ちを認めましょう…!」

孟徳はそう答え、少し冷静さを漂わせた瞳で彼の目を睨み返した。

「ははは!良いぞ、勝負と言うからには、何か賭けるものが必要だな!」
仲穎は愉快そうに笑い、自分の顎を撫でながら考え始める。

「そうだな、もし奴が寝返らなかったら…わしは"相国"の座をお前に譲り、皇帝陛下の後見人にしてやる!だが、わしの勝ちなら…」
そう言うと、鋭い眼光をひらめかせ、素早く孟徳の首筋に手を伸ばした。

「お前の首を貰おうか…!!」

「!?」

次の瞬間には、仲穎の大きな手が孟徳の首を捕らえていた。
孟徳は思わず息を呑んだが、その手にはばまれ上手く喉を通らない。
額に浮かんだ汗が、頬を伝って流れた。

「命を賭けるには、割りに合わぬか?」 
仲穎は目元に微笑をたたえ、苦しそうに顔をゆがめる孟徳の姿を愉しんでいる様だった。
孟徳はその腕を解こうと足掻あがいたが、彼の腕はびくりともしない。

仲穎は元々残忍な性分である。
勿論、自らの力を誇示こじする目的も有るが、ただ単に殺戮さつりくを愉しんでいる部分もある。
人々に恐怖心を抱かせ、屈服させる。それが彼のやり方なのである。

「わ、分かりました…私の、命を賭けると約束しましょう…!」

孟徳は苦痛にあえぎながらも、しっかりした声で答えを返す。
それを聞き届けた仲穎は、掴んでいた手を離すと、

「孟徳、男に二言は有るまいな!わしをあざむこうとすれば、八つ裂きでは済まさぬぞ…!!」

笑いを収め、凄みのある声でそう言うと、仲穎は孟徳を鋭く睨み付ける。
解放された孟徳は、床に手を突き激しくせたが、やがて呼吸を整え、仲穎に向かって拱手きょうしゅした。

「はい、約束は必ず守ります…!」

仲穎の寝所から出ようと戸口へ向かった時、背後から仲穎に呼び止められた。

「これは、わしとお前だけの"秘密の賭け"だ。他人には、決して漏らしてはならぬぞ…!」
そう言って、仲穎はにやりと笑みを浮かべ、自分の口に手を当てる。

振り返った孟徳は黙って小さく頷き、彼の居室を後にした。


足早あしばやに廊下へ出ると、待ちびていた文謙が走り寄って来る。
彼は孟徳の顔色がすぐれない事に直ぐに気付き、歩調を合わせて歩きながらいぶかしげに問い掛けた。

「孟徳殿、一体何があったのです?!」
「別に、何も無い…ただ、奉先の事を聞かれただけだ…」

「奉先…あの男、生きていたとは驚きです。まるで"不死鳥"の様だ…」
文謙は眉を寄せながら呟く。
彼の横顔を見詰め、一瞬ふっと笑った後、

「"不死鳥"か…面白い事を言う…」

孟徳はそう言って、広い庭の方へ目を向けた。
すると、庭の片隅にある大きな池に、一羽の白い大きな鳥が羽ばたいているのが見えた。
日の光にきらきらと輝く翼を羽ばたかせ、飛び立つ鳥の姿を、孟徳は目を細めて何処までも見詰め続けた。

結局、仲穎との「秘密の賭け」について、孟徳は最後まで文謙には話さなかった。



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