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幸福の燕
(6)
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再び驚く。
「バッグのことを、ご存じなんですか?」
楓は、健斗から贈られた、今日持って来たバッグに触れた。森内が言う雪輪のバッグとは、健斗が今日の為に工房に作らせた雪輪に桜の模様のバッグのことだ。
「社長に相談されましてね、今日の為に楓さまにあつらえるものについて。奥さまを象徴するものがよろしいのではないかと、申し上げました」
「そうだったんですか……」
楓に内緒で古典文様のものを選ぶときに、誰かを頼ろうと思うのは、健斗が着物に親しんでくれた証だろう。柄の意味は相応しいかどうか疑問だが、健斗の気持ちが嬉しくて、頬がほころぶ。
「社長と楓さまは、いわば両家の為にご結婚なさったはずなのに、まるで自由恋愛結婚の様で、羨ましい限りです」
森内がそう言うが、楓は兎も角、健斗はどうだろう。健斗は楓を妻とし、重んじてくれるが、彼が本当に自由恋愛をしたら、楓などは選ばないだろうと思う。
「私は旦那さまの妻として、まだまだ足りないことだらけです。森内さまにもご指導いただきたく、よろしくお願いします」
楓の言葉に、森内がやさし気なまなざしでぽつりと呟いた。
「社長が羨ましい」
「え?」
きょとんと森内を見ると、彼は目を細めて楓を見つめた。
「楓さまは、器量は勿論、夫の事業も下支えし、かつ気配りも忘れない、素晴らしい女性だと申し上げたのですよ。実に惜しい」
「?」
惜しい、とは。健斗を支えるに足りないことは自覚しているが、では足りない所とはなんだろう、と思っていると、ダンス中の手をぐっと引かれた。上体が傾いで森内に重心を預ける格好になってしまう。
「社長よりも先に、僕が出会いたかった」
黒い瞳に射抜かれる。その奥にあるものに戸惑い、楓が困っていると、森内は深追いせずに放してくれた。楓は彼に対して頭を下げる。
「申し訳ございません。旦那さまより先に森内さまにお会いしたとしても、私は森内さまに心を預けられたか、分かりません」
楓の揺るがぬ思いを聞いて、森内の口端がゆがんだ。
「そうですか、実に惜しい」
意味深に呟いて、森内は楓を解放した。
新しい取引の商談を終えて楓の所に戻ろうとした健斗を呼ぶ声がした。
「峯山さま。少しお話があるのですわ」
声にちらりと振り向くとそこには琴子が居た。彼女の顔を見ただけで眉間に皴が寄るのが分かる。
「嫌ですわ、そんな顔をなさらないでください。わたくし、健斗さまにお招きいただいてはせ参じましたのに」
優美に微笑む琴子に、しかし健斗は睥睨したまま冷たく言い放った。
「体裁上、仕方なく招いただけだ。君たちには微々たる恩義も感じていない」
「まあ、酷い言われようですこと。ですが、このような場を設けたのは、才知溢れる健斗さまの失敗だと思いますわ。本来ならわたくしが、健斗さまの隣に並び立つべきでしたのに」
回りくどく述べる琴子に、苛立ちが募る。琴子は睨まれたままだというのに、芯がずぶといのか、全く意に介さず続けた。
「私が本当の堀下子爵嫡子ですわ。あの娘は、私から見合いを奪って出て行った、卑しい育ちの娘です。私の方が、健斗さまのお役に立てます」
予想通りの言いぐさで、若干鼻白んだ。全くこの娘の視野の狭さにはあきれる。
「彼女が子爵嫡子ではないことくらい、とうの昔に知っている。そして、君や君たちが、どれほど酷い人間であるかと言うことも、知っている。君たちは彼女にろくに食事もとらせず、本来なら血縁である彼女を子爵家の養子として育てるべきだったのを、賃金も支払わないで使用人として扱った。君たちの非道さに、私は怒りすらを感じている」
健斗が述べるのを聞いた琴子は、焦りの色を見せた。まさかそのことが知れていないとでも思っていたのだろうか? 図々しいにもほどがある。
「でもあの子は上流社会での生き方を知らないんですのよ!? 健斗さまが妻にお求めになられる機転もなにも、利きやしません!!」
「そんなこと、これから覚えて行けばいいだけのことだ。それに先程公爵夫妻に、心のこもった贈り物を選んでくれた。それだけのことを、彼女は出来る。君が心配することではない」
「で、でも……!」
言い縋ろうとする琴子を、今度こそ突き放す。
「君の言い分は私の心を苛立たせるだけだ。これ以上聞いていると不快になるので失礼する」
「健斗さま!」
いくら名を呼ばれても、もう振り向かない。雑音を耳に出来る程、健斗は心が広くないのである。
(くやしい、くやしい、くやしい!)
「バッグのことを、ご存じなんですか?」
楓は、健斗から贈られた、今日持って来たバッグに触れた。森内が言う雪輪のバッグとは、健斗が今日の為に工房に作らせた雪輪に桜の模様のバッグのことだ。
「社長に相談されましてね、今日の為に楓さまにあつらえるものについて。奥さまを象徴するものがよろしいのではないかと、申し上げました」
「そうだったんですか……」
楓に内緒で古典文様のものを選ぶときに、誰かを頼ろうと思うのは、健斗が着物に親しんでくれた証だろう。柄の意味は相応しいかどうか疑問だが、健斗の気持ちが嬉しくて、頬がほころぶ。
「社長と楓さまは、いわば両家の為にご結婚なさったはずなのに、まるで自由恋愛結婚の様で、羨ましい限りです」
森内がそう言うが、楓は兎も角、健斗はどうだろう。健斗は楓を妻とし、重んじてくれるが、彼が本当に自由恋愛をしたら、楓などは選ばないだろうと思う。
「私は旦那さまの妻として、まだまだ足りないことだらけです。森内さまにもご指導いただきたく、よろしくお願いします」
楓の言葉に、森内がやさし気なまなざしでぽつりと呟いた。
「社長が羨ましい」
「え?」
きょとんと森内を見ると、彼は目を細めて楓を見つめた。
「楓さまは、器量は勿論、夫の事業も下支えし、かつ気配りも忘れない、素晴らしい女性だと申し上げたのですよ。実に惜しい」
「?」
惜しい、とは。健斗を支えるに足りないことは自覚しているが、では足りない所とはなんだろう、と思っていると、ダンス中の手をぐっと引かれた。上体が傾いで森内に重心を預ける格好になってしまう。
「社長よりも先に、僕が出会いたかった」
黒い瞳に射抜かれる。その奥にあるものに戸惑い、楓が困っていると、森内は深追いせずに放してくれた。楓は彼に対して頭を下げる。
「申し訳ございません。旦那さまより先に森内さまにお会いしたとしても、私は森内さまに心を預けられたか、分かりません」
楓の揺るがぬ思いを聞いて、森内の口端がゆがんだ。
「そうですか、実に惜しい」
意味深に呟いて、森内は楓を解放した。
新しい取引の商談を終えて楓の所に戻ろうとした健斗を呼ぶ声がした。
「峯山さま。少しお話があるのですわ」
声にちらりと振り向くとそこには琴子が居た。彼女の顔を見ただけで眉間に皴が寄るのが分かる。
「嫌ですわ、そんな顔をなさらないでください。わたくし、健斗さまにお招きいただいてはせ参じましたのに」
優美に微笑む琴子に、しかし健斗は睥睨したまま冷たく言い放った。
「体裁上、仕方なく招いただけだ。君たちには微々たる恩義も感じていない」
「まあ、酷い言われようですこと。ですが、このような場を設けたのは、才知溢れる健斗さまの失敗だと思いますわ。本来ならわたくしが、健斗さまの隣に並び立つべきでしたのに」
回りくどく述べる琴子に、苛立ちが募る。琴子は睨まれたままだというのに、芯がずぶといのか、全く意に介さず続けた。
「私が本当の堀下子爵嫡子ですわ。あの娘は、私から見合いを奪って出て行った、卑しい育ちの娘です。私の方が、健斗さまのお役に立てます」
予想通りの言いぐさで、若干鼻白んだ。全くこの娘の視野の狭さにはあきれる。
「彼女が子爵嫡子ではないことくらい、とうの昔に知っている。そして、君や君たちが、どれほど酷い人間であるかと言うことも、知っている。君たちは彼女にろくに食事もとらせず、本来なら血縁である彼女を子爵家の養子として育てるべきだったのを、賃金も支払わないで使用人として扱った。君たちの非道さに、私は怒りすらを感じている」
健斗が述べるのを聞いた琴子は、焦りの色を見せた。まさかそのことが知れていないとでも思っていたのだろうか? 図々しいにもほどがある。
「でもあの子は上流社会での生き方を知らないんですのよ!? 健斗さまが妻にお求めになられる機転もなにも、利きやしません!!」
「そんなこと、これから覚えて行けばいいだけのことだ。それに先程公爵夫妻に、心のこもった贈り物を選んでくれた。それだけのことを、彼女は出来る。君が心配することではない」
「で、でも……!」
言い縋ろうとする琴子を、今度こそ突き放す。
「君の言い分は私の心を苛立たせるだけだ。これ以上聞いていると不快になるので失礼する」
「健斗さま!」
いくら名を呼ばれても、もう振り向かない。雑音を耳に出来る程、健斗は心が広くないのである。
(くやしい、くやしい、くやしい!)
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