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めくりめく日々
(4)
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「見惚れられるのも、君からなら悪くない。日本(この地)で珍奇な色合いでも、君の目を引くためだけにあると思うと、喜ばしく思う」
「……? 旦那さま?」
楓は疑問顔で健斗の言葉の意図を問うた。まさか言葉通りの意味ではあるまいと思う。健斗は苦笑し、まだ早いか、と呟いた。
「いや、何でもない。それより今週も書斎の整頓をありがとう。君が整理してくれるおかげで、帰って来てから仕事をするのが楽になった」
「い、いえ。お役に立ててうれしいです」
話題が変わったので戸惑いながら楓がそう言うと、健斗は、ふ、と笑って楓の頭を撫でた。
「君はいつでも私の為に尽くしてくれるからな。たまには我儘になってもいいんだぞ?」
我儘……? ついぞ考えたことのない言葉を聞いて、楓は真顔で悩んだ。そして先程、英吉利では経験できないことだろうと思った理由について、訊ねた。
「ではあの、旦那さま。ひとつ、お伺いしても良いでしょうか……」
「なんだ?」
ぎゅっと手を握る。嫌な汗が、滲んでくるようだった。
「ス、ステイシーさんとは、どのようなお方だったのでしょう……」
人となりを知って、どうしようというのだろう。でも、英吉利に残してきた、健斗に縁深いひとだと分かっているだけで、楓の胸の底が落ち着かない。自分が何故こんなふうになっているのか理解できなくて、楓は混乱した。しかし健斗は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたあと、ふふふっと息を吹いて笑った。
「ステイシーは英吉利で飼っていた犬の名前だぞ、楓」
「い……」
い……、ぬ……。
楓がぽかんとしていると、いやいや、思わぬ嬉しい質問だった、と健斗が満足そうな顔をする。
「だ、旦那さま、わらわないでください! 私、本家でステイシーさんのお名前を聞いた時から、ずっと……」
「悪かった、悪かった。それで、ずっと……、なんだっていうんだ?」
なに、とは……。
楓は胸に手を当てて考えた。健斗がステイシーを忘れられないと言ったのに、胸が騒いだ気がした。犬だと知って、安心している。でも、何故……?
(旦那さまは私を妻にとおっしゃってくださったわ……。それなのに……)
楓を認めてくれた健斗に、妻として恩返しが出来れば良いではないか。それ以上の、なにを求めるのか。酷く欲深になっているような気がした。これでは堀下のして来たことと、何も変わらない。強欲な思いは、身を破滅させる。戒めなければ。
(私は、旦那さまの為に、お役目を果たすだけ……。それだけなのよ……)
楓は奥歯をきゅっと噛みしめた。
翌日曜日はダンスの練習だった。家の一番奥の扉の向こうには個人の家としては大きめの広間があり、楓と健斗は洋装でその場にいた。
「パーティーではワルツとタンゴが踊れれば問題ない。ワルツは後ろに一歩、横に一歩、前に一歩、でワンセットの単純なダンスだ。覚えてしまえばなんということはない」
健斗が楓の前に立って楓の右手を掬いあげた。
「こうして、互いに手を持ち」
そうして、健斗の右手が腰に回る。
「!」
「こうして私は君の体を支える。君は左手を私の腕に回しなさい」
「は、はい……」
とは言っても、今まで触れたこともなかった手と手が触れあっていること、腰を支えられたその感触が背筋を張ってくることで、楓はいたたまれない羞恥に襲われた。姿勢を取る為に健斗が手を引けば、楓と健斗の体の距離は一気になくなって、上体が折れずとも耳元でひそやかな話が出来そうな距離だ。楓は琴子が、今日は何人もの殿方と踊ったのだと自慢げに話していたことを思い出した。その話から分かることは、踊る相手が健斗一人ではないということだ。
(も、もしかして、こんなことを旦那様以外の男性ともしなければならないの……!?)
健斗相手にだってこんなに恥ずかしいのに、他の男性なんて、無理だ。
「楓。余分なことは考えないで」
そわりと耳元でささやかれた健斗のやさしい声音に、心臓がどきりと反応する。いったん跳ねると走り続けてしまう動悸をどうすることも出来ない。
「君が何を危惧しているか、大方分かるが、今は淑女(レディ)として遜色ないふるまいを身に付けなければならないことは、分かっているね?」
ずばりと今の健斗の行いの本質を正され、楓は言葉に詰まり、頷いた。恥ずかしいなどと言っている場合ではない。健斗の妻としての役割を全うしなければ。覚悟を決め、顔を上げる。
「も、申し訳ありませんでした、旦那さま。続きをお願いいたします」
「……? 旦那さま?」
楓は疑問顔で健斗の言葉の意図を問うた。まさか言葉通りの意味ではあるまいと思う。健斗は苦笑し、まだ早いか、と呟いた。
「いや、何でもない。それより今週も書斎の整頓をありがとう。君が整理してくれるおかげで、帰って来てから仕事をするのが楽になった」
「い、いえ。お役に立ててうれしいです」
話題が変わったので戸惑いながら楓がそう言うと、健斗は、ふ、と笑って楓の頭を撫でた。
「君はいつでも私の為に尽くしてくれるからな。たまには我儘になってもいいんだぞ?」
我儘……? ついぞ考えたことのない言葉を聞いて、楓は真顔で悩んだ。そして先程、英吉利では経験できないことだろうと思った理由について、訊ねた。
「ではあの、旦那さま。ひとつ、お伺いしても良いでしょうか……」
「なんだ?」
ぎゅっと手を握る。嫌な汗が、滲んでくるようだった。
「ス、ステイシーさんとは、どのようなお方だったのでしょう……」
人となりを知って、どうしようというのだろう。でも、英吉利に残してきた、健斗に縁深いひとだと分かっているだけで、楓の胸の底が落ち着かない。自分が何故こんなふうになっているのか理解できなくて、楓は混乱した。しかし健斗は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたあと、ふふふっと息を吹いて笑った。
「ステイシーは英吉利で飼っていた犬の名前だぞ、楓」
「い……」
い……、ぬ……。
楓がぽかんとしていると、いやいや、思わぬ嬉しい質問だった、と健斗が満足そうな顔をする。
「だ、旦那さま、わらわないでください! 私、本家でステイシーさんのお名前を聞いた時から、ずっと……」
「悪かった、悪かった。それで、ずっと……、なんだっていうんだ?」
なに、とは……。
楓は胸に手を当てて考えた。健斗がステイシーを忘れられないと言ったのに、胸が騒いだ気がした。犬だと知って、安心している。でも、何故……?
(旦那さまは私を妻にとおっしゃってくださったわ……。それなのに……)
楓を認めてくれた健斗に、妻として恩返しが出来れば良いではないか。それ以上の、なにを求めるのか。酷く欲深になっているような気がした。これでは堀下のして来たことと、何も変わらない。強欲な思いは、身を破滅させる。戒めなければ。
(私は、旦那さまの為に、お役目を果たすだけ……。それだけなのよ……)
楓は奥歯をきゅっと噛みしめた。
翌日曜日はダンスの練習だった。家の一番奥の扉の向こうには個人の家としては大きめの広間があり、楓と健斗は洋装でその場にいた。
「パーティーではワルツとタンゴが踊れれば問題ない。ワルツは後ろに一歩、横に一歩、前に一歩、でワンセットの単純なダンスだ。覚えてしまえばなんということはない」
健斗が楓の前に立って楓の右手を掬いあげた。
「こうして、互いに手を持ち」
そうして、健斗の右手が腰に回る。
「!」
「こうして私は君の体を支える。君は左手を私の腕に回しなさい」
「は、はい……」
とは言っても、今まで触れたこともなかった手と手が触れあっていること、腰を支えられたその感触が背筋を張ってくることで、楓はいたたまれない羞恥に襲われた。姿勢を取る為に健斗が手を引けば、楓と健斗の体の距離は一気になくなって、上体が折れずとも耳元でひそやかな話が出来そうな距離だ。楓は琴子が、今日は何人もの殿方と踊ったのだと自慢げに話していたことを思い出した。その話から分かることは、踊る相手が健斗一人ではないということだ。
(も、もしかして、こんなことを旦那様以外の男性ともしなければならないの……!?)
健斗相手にだってこんなに恥ずかしいのに、他の男性なんて、無理だ。
「楓。余分なことは考えないで」
そわりと耳元でささやかれた健斗のやさしい声音に、心臓がどきりと反応する。いったん跳ねると走り続けてしまう動悸をどうすることも出来ない。
「君が何を危惧しているか、大方分かるが、今は淑女(レディ)として遜色ないふるまいを身に付けなければならないことは、分かっているね?」
ずばりと今の健斗の行いの本質を正され、楓は言葉に詰まり、頷いた。恥ずかしいなどと言っている場合ではない。健斗の妻としての役割を全うしなければ。覚悟を決め、顔を上げる。
「も、申し訳ありませんでした、旦那さま。続きをお願いいたします」
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