大正政略恋物語

遠野まさみ

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めくりめく日々

(3)

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「そうですね、こういう柄とかは、奥さまにお似合いになりそうだ」

「こら、なにを勝手なことをしている」

 そこへ健斗が着物に着替えて入って来た。見ると渋面を作って、腕を組んでいる。

「お前にそのような権限を与えたつもりはない」

「これは、失礼いたしました」

 面白そうに微笑んでいる早川と、一方、ちょっと不機嫌そうな健斗の様子におろおろする。しかし早川が謝罪をすると、手に持った書類を机に置き、そのまま座った。そこへ静子が茶を持って来て、部屋の空気が少し和らいだ。

「若旦那さま、そのくらいのことでカリカリしておられては、パーティーでは始終仏頂面をしていなければなりませんよ」

 くすくす笑う静子に、健斗はきまり悪げに咳払いをする。

「旦那さま……?」

「ああ、何でもない。勉強を続けたまえ」

 健斗はそれだけ言ってしまうと、楓たちに背を向けた。




 
(距離が、近すぎやしないか……)

 健斗はチラリと背後のソファテーブルに居る二人を見た。楓が熱心に早川の講義を聞き、頷いたり質問したりしている。二人掛けのソファだから、お互いがお互いの方に向き合い、健斗が食堂で楓と対面しながら食事をするときよりも距離が近い。それに、楓の様子が健斗を相手にしているときよりも気を許しているような気がする。

(私にだって、あのように砕けたようには笑わないのに……)

 健斗と接するとき、どこか一歩控えたような行動になる楓もいとおしいが、正直言って今の早川に対するような、もっとフランクな態度でも接してほしいと思っている。威圧しているつもりはないが、自分はどこか、早川よりも愛想がよくないのだろうか……。

(もしかして、最初に会った時の印象が抜けていない、とか……)

 自業自得すぎて項垂れる。しかしあれから健斗も変わり、楓もまた、変わったと思うのだ。

 かしずくばかりだった彼女から、自らの意思を持ちつつある彼女へ。その成長がここでの生活に寄るものなら、自分は彼女に対して少しは自負を持ってもいいのではないか。そう思って、健斗は椅子の背もたれに上体を預ける。ぎしっと音がして、椅子がきしんだ。




 
「今日はありがとうございました」

 玄関で早川を見送る楓の後ろで、ご苦労だった、と彼にねぎらいの言葉を掛け、楓に対して続ける。

「いきなり三時間の座学は疲れただろう。よく頑張った。早川、次からは時間配分を考えてやってくれ」

「かしこまりました。ではまた、月曜日の午後に参ります。奥さま、お疲れ様でした」

「お気をつけてお帰り下さいませ」

 夕方の景色の中に早川を見送ってから、健斗は楓に声を掛けた。

「座りっぱなしで疲れただろう。少し散歩をしないか」

 楓は健斗の顔を見て、ぱちりと瞬きをした。

「は、はい、是非」

 口元がほころんでしまう。健斗から用のない外出に誘われたのは、これが初めてだった。

 桃色の染まった春の夕暮れは、満開の桜の向こうからやさしい影を足元に落としていた。さりさり、と草履が砂利を踏む音と、遠くから子供たちの笑う声が聞こえる。健斗の半歩後ろを歩いていると、ふと、健斗の歩みがゆったりとしたものになる。自然と楓との距離が近くなり、それで気づいた。

(私が歩くのが遅いから、歩調を合わせて下さっているんだわ……)

 それだけのことに心があたたまる。愚図だのろまだのと罵られていた頃が夢のようだ。

 家々の間を歩き、少し行ったところに神社があった。ここらも桜が沢山植わっていて、鳥居の上から大きな桜が被さり、花びらのすき間から茜に輝く空を映している。

「随分あたたかくなったな。君がうちに来た時は、まだ春先で寒さのぶり返した日だったと覚えている。もう、遠い過去のように思うが」

「旦那さまがあの日のことを覚えてらっしゃるとは思いませんでした」

 邪魔者が来た時のことなんて、記憶するのも嫌だっただろうに。楓が驚いて言うと、健斗がはははと笑って、記憶力は人並みにあると思っているが、と言った。

「あ、いえ、旦那さまに記憶力がないと申し上げたつもりではなくて……」

「ああ、分かっている。それまで私に媚びを売って来た女たちと同じだと思ったのではないかと言いたいのだろう? でも君は違った」

 ふ、と健斗の手が伸びてくる。さらりと楓の髪をなでると、髪に落ちたと思われる桜の花びらを掬った。

「私に対してしなを作らず、突き放した私に怒りもしなかった。だからより、記憶に残った」

 深く微笑みながら、健斗が言う。茜よりもやさしい夕景の中で健斗の金の髪が輝いた幻想的な光景に、楓は見とれた。桜を背景にだったら、英吉利では経験できないことだろうか、と考える。
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