大正政略恋物語

遠野まさみ

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傷つけられた薔薇

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 鏡台に映る自分の顔を覗き込む。そこには上気した頬と、差した紅の赤に劣らぬ美しい薔薇のかんざしを挿した楓の姿があった。

『たまには外で食事でもしないか』

 今朝、そう誘ってくれたのは、健斗である。無事に本家との顔合わせも済み、ひと息ついた頃合いのことである。対面で食事をとっていた楓は、言われた言葉に一瞬きょとんとし、そして次の瞬間ぱっと赤面した。今日楓は、小芝屋で仕立てた若草色の草木柄の着物を着ていた。

――『着物が出来てきたら、このかんざしを合わせて、一緒に出掛けよう』

 健斗は着物を仕立てに行った日の夜、楓にかんざしを贈ってそう言った。つまり健斗は、楓を妻として街へ伴いたい、と言ったのだ。

 楓が戸惑いつつも首肯すると、健斗は機嫌よく出社していった。

 そして待ち合わせの時間の一時間前である。楓は先程から鏡台の前を離れられない。

(着物と帯の合わせ、おかしくないかしら……。それに髪だって結い上げるのはあまり得意ではないし……)

 健斗から贈られた着物が届いてからも、楓はそのうちごく一部の着物しか着用しなかった。なにかの理由で離縁されたときに、着古しを返すのでは申し訳ないと思ったからだった。それを咎めたのも、また健斗だ。

『私は贈ったものを箪笥にしまい込まれている方が、よっぽど傷付くのだがな』

 そういう訳で、楓はこの日、新しい着物を下ろした。萌黄色の地に舞扇が華やかな、古典柄の着物である。扇の絵柄に使われている紅色に似た刺しゅうを施した半襟を合わせ、健斗が贈ってくれた薔薇のかんざしを束髪に挿す。普段、手間と働きやすさを考えて一つに括る以外にしていなかったが、こうやって結い上げた自分を見つめると、顔の斜め上に顔を出している薔薇の模様が、みすぼらしい自分に似合わなくて恥ずかしくなる。俯きかけた時、頭の中で以前の健斗の声が蘇った。

――『俯くのは止めるんだ』

 それは、自信の持てない楓に差し出された唯一の手であり、楓の背をしゃんと伸ばしてくれる、希望の言葉だ。俯き、傅いてきた生活が終わり、健斗の横に並び立つ未来へいざなってくれる言葉。楓は髪に挿したかんざしにそっと触れた。

(旦那さまが、居て下さるみたい……)

 それだけで、胸を張れた。不思議だと思う。

「楓さま、お時間は宜しいのですか?」

 廊下から静子の声が聞こえる。楓は鏡台の前から立ち上がった。
 




 ショールを羽織って、待ち合わせ場所に赴く。銀座の時計塔を見つめる交差点で、楓は行き交う人々の中に佇んでいた。夕刻となるこの時間、仕事を終えた人や、これからウインドウショッピングや夜の遊興に赴く人などが行き交い、活気に満ち溢れていた。自分もこれから健斗と落ちあい、この幸福な雑踏の一人になるのかと思って、口許をほころばせていると、こちらを見て棒立ちになっている人を視界に見つけた。

 ……琴子だ。

 琴子は呆けるような顔のあと、憤怒をむき出しにしたような形相に変わり、つかつかとこちらへ歩み寄って来た。



 
 琴子は驚いていた。まさかこんな人ごみの中で、楓を見つけてしまうなんて。しかも楓は、茂三が与えた着物ではなく、上品な萌黄の着物はおとなしい楓に映え、……いや、映えるなどと思いたくない、そんな地味な色しか着こなせない、貧相な娘なのだ、それが幸せそうな笑みを浮かべて行き交う人たちを眺めていた。その表情を見るだけで、彼女が満たされていることを知ってしまう。琴子なんて、八つ当たりをする相手も居なくなって不満が溜まっているうえに、買い物も制限されて、今日だって楓のお披露目パーティーの為のドレスをデパートに見に来たのに、良子があれは駄目、これも高いとうるさくて、結局満足のいくドレスが買えなくて、悔しい思いをして帰る途中なのに。

 琴子はいきり立ったまま、楓の前までずかずかと歩み寄ると、見下すような目つきで彼女を見下ろした。

「あら、ドブネズミにも劣るお前が、こんな華やかなところで何をしているの? もしかして峯山さまの不興を買って、捨てられたの? 物乞いをするなら。もう少し相応しい場所があるでしょう?」

 ああ、この感覚……。心の奥底が満ち足りていく、この感覚……。これこそを、わたくしは求めていた。

 琴子は歓喜に打ち震えながらそう思った。琴子の前で顔色がさえない楓に、もっと彼女をいたぶりたいという気持ちが芽生えてくる。

「お前というあさましい人間は、きっと峯山さまのお慈悲に縋って彼のもとに居るのでしょう。でもその選択は間違いよ。お前のような教養も何もない娘が、社交の場でお披露目だなんて、笑わせてくれるわね。お前のような底辺の娘には、その着物は不似合いよ。私が直してあげるわ」

 琴子はそう言い、持っていた鞄から棒紅を取り出すと、楓の着物めがけて斜めに腕を振った。棒紅の先が萌黄色に一文字に紅の傷をつけ、見るも無残な状態となる。

「あ……っ」

 琴子の前に硬直し、身もかわすことも出来なかった楓がさっと顔を青くすると、琴子は更に乱暴に腕を振り上げ、楓の髪から美しいかんざしを抜き取った。

「こんなもの……!」

 琴子が振り仰いだのは、路面電車の方角。今まさに線路を行き過ぎようとする電車の足元に、それは投げられた。

「あっ!」
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