大正政略恋物語

遠野まさみ

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母の願い・亀甲

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 辰雄が遠い眼差しになる。事故で洋一を亡くしたのは辰雄たちの所為じゃないし、辰雄の跡を継ぐものが必要だったことも事実だ。大学で経営を学び、道雄(ちち)の力になろうとしていた努力が、日本で叶っているのなら、それに越したことはない。道雄(ちち)の会社は自分より優秀な兄が支えるだろうから。

「あのまま英吉利に居ても、兄の影にしかなれなかった。日本に来たことは、私にとっても良い転機になりましたよ」

「そう言ってくれると心強いよ。楓さんと二人でしっかりと盛り立てて欲しい」

「はい……。ところで、養父上」

「なんだ?」

 健斗はこの前から気になっていたことを、辰雄に訊ねることにした。

「楓が子爵令嬢として教育を受けていない旨はお伝えしたかと思いますが、この件、義父上は堀下をどのようになさるおつもりですか?」

 健斗の疑念はこれだった。楓は辰雄が堀下に縁談を持ちかけた要件を満たしていない。健斗たっての希望と、楓の着物に関する知識を有用とし、辰雄は今回楓を受け入れたが、峯山を騙した堀下自身に峯山がなにか行えば、それは楓に跳ね返る。それを危惧した。

「正直に言えば、騙されて憤慨はしている。しかしお前が楓さんに心酔している様子を見ると、楓さんに害のあることは出来んよ。暫く様子を見て判断しようと思う。楓さんは子女教育以上のことを、お前にもたらしてくれているようだからな。なに、子女教育など今から学ぶのでも間に合う。心配するな」

 辰雄の言葉に、心底安心した。ホッと安堵の息を吐くと、しらず武雄を前に緊張していたようだった。この時代、自由恋愛が叫ばれているとはいえ、未だ家父長制度の影は各家庭に色濃く、そういう意味では健斗も辰雄の意見を窺わざるを得なかった。

「お前が女のことで気をもむ時が来ようとはな。良い傾向だ。お前の許に来たのが楓さんで安心したよ。彼女を大切にしなさい」

 辰雄に言われなくても大切にするつもりではあるが、年長者の言う事には意味があると思っているので、深く頷いておいた。
 




「今日はありがとうございました」

 楓が健斗と並んで辰雄に頭を下げると、辰雄はまた来なさい、と微笑んでくれた。気安い笑みに、楓も肩の力を抜いて微笑むことが出来る。

「はい、またお邪魔できれば」

「ここに来なくとも、今度催すパーティーで会えるだろうから、君も気楽に思っていればいい」

 健斗の言葉にも頷く。和気あいあいと別れの挨拶を交わしていると、屋敷の奥から千鶴子が出てきた。手にはたとう紙を持っている。

「健斗、これを……」

 渡されたものは、大島の亀甲文様の着物だった。亀の甲羅を模したこの模様は、長寿の願いを意味する。実子の代わりに海を越えて来てくれる健斗の為に、願いを込めて仕立てていたのだと言っていた。

「義母上、これは……」

 思わぬ贈り物をされた健斗は、目を丸くしている。

「あなたが峯山に尽くしてくれていると聞いています。わたくしなりの労いです」

 ぱちぱち、と健斗が目を瞬く。客間で健斗の前から姿を消した人とは思えない程、今の千鶴子は自分に向き合っている。一体何が、と思ったが、この短い間に千鶴子に起こったことと言えば、楓と言葉を交わしたことのみ。どんな言葉を交わしたのだろと推察する。

「健斗。楓さんとステイシー以上に仲良くな」

 辰雄から懐かしい名前が出て、苦笑する。

「言われずともです」

 三人の中で笑いが起き、その場に起こった笑いの渦に、楓だけ入っていけなかった。疑問顔をしていただろうか、健斗にどうしたと尋ねられて、楓は素直に疑問を口に出した。

「ステイシーさんという方は、旦那さまのお知合いですか?」

 そうじゃなかったら、辰雄の言い方にはならないと思うのだが、他にどう聞けばいいのか分からず、素直に聞いていた。すると、

「日本(こちら)に来るときに別れた、忘れられないやつのことだ」

 と、健斗が微笑んで言うので、健斗に思い出し笑みを浮かべさせることが出来るくらいに親しい、思い出深い女性なのだな、と理解した。すると、胸の奥がなんだか少し、もやもやした。

(……? 何かしら……。すっきりしない……。カステラを食べ過ぎたのかしら……?)

 めったに食べるものではなかったから、胃がびっくりしているのかもしれない。夕飯は控えめにしようと、楓は思った。




 
 本家を後にし、自動車に乗り込むと、エンジンを掛けたまま、千鶴子の件を帰路の途中で楓に訊ねてみる。

「楓……。つまらないことを聞くが、義母上の所に行っている間、なにか話をしたか?」

 健斗の言葉に楓は穏やかに微笑んだ。

「お着物のお話を、いたしました」

 しかし応えるのはその言葉だけ。だが、自分の功績をつまびらかにしない所が、楓の良い所だと思う。彼女はこうやって、誰にも自身のことを誇らず生きてきたのだ。その生きざまを、いとおしいと思う。

(借りがまた増えてしまったな)

 しかし、それも悪いことではないと思う。補い、補われながら、二人で人生を歩む。その道筋を、健斗は嬉しく感じていた。




 
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