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菱文を纏う
(6)
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(この娘は一体……?)
今日、なにをしていたかと健斗に問われたとき、咄嗟に取り繕えなかった自分が恨めしい。楓はそう思った。何も良い子ぶって、静子の手伝いをしていたなどというつもりもないのに、それでもそれ以外の理由を咄嗟に思いつけなくて、口ごもってしまった。結果、健斗に訝しげにされてしまって、検分するような目つきで眺められてしまった。忙しい仕事を終え、帰って来た主に対して、穏やかに過ごしてもらうべきお飾りの妻が、なんたることか。
「座りたまえ」
それでも、楓が何も言えずにいると、健斗はそう言い、食卓への着席を求めた。堀下に引き取られてから十年間、茂三や琴子たちと食事を共にしたことなぞ一度もないし、かといって、雑事の多くを担っていた楓は使用人たちの食事時間にも間に合わなかった。もっとも、食事自体も使用人が与えられるそれではなかった為、楓は残った野菜のくずなどで、自分で調理するしかなかったのだが。
そう言う訳で、誰かと食事を共にする、という行為は、両親が生きていた頃までさかのぼらなければならない。過酷な堀下での十年間で、その記憶はすり切れ、おぼろげにしか思い出せない。だから、誰かと向かいに面と向かって座って食事だなんて、それだけで緊張することがらだ。
健斗は席に着いた楓が箸を取ろうとしないことを指摘した。
「静子が二人分作っていったのだから、無駄にしてはいけない。君も食べるんだ」
そう言って、健斗はみそ汁を飲むと、鰆の照り焼きの身を器用に裂いて口に運んだ。……緊張していた肺から小さく息が漏れる。みそ汁を作ったのは、朝同様、楓なのだ。
(旦那さまが訝しがらずに食べてくださったわ……)
勿論、静子が作ったと思っているからこそ、健斗も口にしているのだ。そうは思っても、自分のしたことが実となっている事実を目の前で見て、楓はくっと唇を噛んだ。ここで喜んだら何事かと思われる。この食事は静子が作ったもの。それでいい。ただ、楓が勝手に、充実感を感じているだけのことだ。
(だって、子爵家のお嬢さまは、料理なんてしないんだもの)
だから、知られてはいけない。楓は健斗の顔を見ずに、食事を黙々と進めた。
翌朝の朝食も、健斗は詮索せずに美しい所作で食べてくれた。心の内に滲み湧く喜びのようなものと、それを感じてしまう罪悪感のはざまで楓が揺れていると、綺麗に食事を食べ終えた健斗が、静子を呼んで食堂を出て行った。楓は遅れながらも食事を食べ終え、食器を片付けた。
(あら……?)
織機を食器棚に片付けようとして、ふと気づく。食堂に置かれた大きな食器棚の上の方、ウイスキー瓶の隣に、楓がこの家で使ったことのない洋食器の奥に、綺麗な札が貼ってある缶に気が付いた。黒の缶に楕円の山吹色の札が貼ってあるそれは、外国語の文字が書かれていて、いかにも健斗由来の物であると分かる。
(旦那さまのものよね……? 食器棚にしまってあるということは、食事に関するものかしら……。あとで静子さんに聞いてみよう)
楓はまるで宝物を見つけたかのような気分になりながら、食器を片付け、健斗の部屋へ向かった。
楓が織機を片付けている頃、健斗は私室でネクタイを締めながら静子に確認をしていた。
「君の言った、偏見の目、とやらについて考えたのだが、もしかして、彼女は私の思っているような人物ではないのだろうか。だから、私の問いに、何も答えないのだろうか」
思案気に訊ねる健斗に、静子は口許に静かな笑みを浮かべて応じる。
「どうして、そうお感じになられましたか」
「噂と違って、成りが貧相だ。子爵令嬢ともあろう娘の身なりが、着るものの所為ではなく、あんなに貧相な理由が分からない。それに、書斎の書類を整えたのは、静子じゃないだろう? 書斎のものは、弄らないことが、私との約束だった。それを知らない人間は、この家に彼女しか居ない」
「そうお感じになられて、健斗さまは楓さまをどうされたいと思われるのですか」
静子に、更に問い詰められて、思案する。彼女が健斗の問いに答えようと答えなかろうと、彼女の実家の子爵位の力を得ることに関しては変わりがないし、自分が彼女に求めるのはそれだけの筈だ。それなのに、どうして自分は、彼女の挙動を気にしているのか。
「……分からないが……、それでも彼女に関して確かめたくはある」
自分でもおかしいと思った。しかし、突き動かされるかのようなこの衝動は、行動しないと収まらないのだとも、知っていた。
今日、なにをしていたかと健斗に問われたとき、咄嗟に取り繕えなかった自分が恨めしい。楓はそう思った。何も良い子ぶって、静子の手伝いをしていたなどというつもりもないのに、それでもそれ以外の理由を咄嗟に思いつけなくて、口ごもってしまった。結果、健斗に訝しげにされてしまって、検分するような目つきで眺められてしまった。忙しい仕事を終え、帰って来た主に対して、穏やかに過ごしてもらうべきお飾りの妻が、なんたることか。
「座りたまえ」
それでも、楓が何も言えずにいると、健斗はそう言い、食卓への着席を求めた。堀下に引き取られてから十年間、茂三や琴子たちと食事を共にしたことなぞ一度もないし、かといって、雑事の多くを担っていた楓は使用人たちの食事時間にも間に合わなかった。もっとも、食事自体も使用人が与えられるそれではなかった為、楓は残った野菜のくずなどで、自分で調理するしかなかったのだが。
そう言う訳で、誰かと食事を共にする、という行為は、両親が生きていた頃までさかのぼらなければならない。過酷な堀下での十年間で、その記憶はすり切れ、おぼろげにしか思い出せない。だから、誰かと向かいに面と向かって座って食事だなんて、それだけで緊張することがらだ。
健斗は席に着いた楓が箸を取ろうとしないことを指摘した。
「静子が二人分作っていったのだから、無駄にしてはいけない。君も食べるんだ」
そう言って、健斗はみそ汁を飲むと、鰆の照り焼きの身を器用に裂いて口に運んだ。……緊張していた肺から小さく息が漏れる。みそ汁を作ったのは、朝同様、楓なのだ。
(旦那さまが訝しがらずに食べてくださったわ……)
勿論、静子が作ったと思っているからこそ、健斗も口にしているのだ。そうは思っても、自分のしたことが実となっている事実を目の前で見て、楓はくっと唇を噛んだ。ここで喜んだら何事かと思われる。この食事は静子が作ったもの。それでいい。ただ、楓が勝手に、充実感を感じているだけのことだ。
(だって、子爵家のお嬢さまは、料理なんてしないんだもの)
だから、知られてはいけない。楓は健斗の顔を見ずに、食事を黙々と進めた。
翌朝の朝食も、健斗は詮索せずに美しい所作で食べてくれた。心の内に滲み湧く喜びのようなものと、それを感じてしまう罪悪感のはざまで楓が揺れていると、綺麗に食事を食べ終えた健斗が、静子を呼んで食堂を出て行った。楓は遅れながらも食事を食べ終え、食器を片付けた。
(あら……?)
織機を食器棚に片付けようとして、ふと気づく。食堂に置かれた大きな食器棚の上の方、ウイスキー瓶の隣に、楓がこの家で使ったことのない洋食器の奥に、綺麗な札が貼ってある缶に気が付いた。黒の缶に楕円の山吹色の札が貼ってあるそれは、外国語の文字が書かれていて、いかにも健斗由来の物であると分かる。
(旦那さまのものよね……? 食器棚にしまってあるということは、食事に関するものかしら……。あとで静子さんに聞いてみよう)
楓はまるで宝物を見つけたかのような気分になりながら、食器を片付け、健斗の部屋へ向かった。
楓が織機を片付けている頃、健斗は私室でネクタイを締めながら静子に確認をしていた。
「君の言った、偏見の目、とやらについて考えたのだが、もしかして、彼女は私の思っているような人物ではないのだろうか。だから、私の問いに、何も答えないのだろうか」
思案気に訊ねる健斗に、静子は口許に静かな笑みを浮かべて応じる。
「どうして、そうお感じになられましたか」
「噂と違って、成りが貧相だ。子爵令嬢ともあろう娘の身なりが、着るものの所為ではなく、あんなに貧相な理由が分からない。それに、書斎の書類を整えたのは、静子じゃないだろう? 書斎のものは、弄らないことが、私との約束だった。それを知らない人間は、この家に彼女しか居ない」
「そうお感じになられて、健斗さまは楓さまをどうされたいと思われるのですか」
静子に、更に問い詰められて、思案する。彼女が健斗の問いに答えようと答えなかろうと、彼女の実家の子爵位の力を得ることに関しては変わりがないし、自分が彼女に求めるのはそれだけの筈だ。それなのに、どうして自分は、彼女の挙動を気にしているのか。
「……分からないが……、それでも彼女に関して確かめたくはある」
自分でもおかしいと思った。しかし、突き動かされるかのようなこの衝動は、行動しないと収まらないのだとも、知っていた。
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