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七宝の縁
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少女の部屋で、ゆるく波打つ髪の毛を丁寧に結い上げ、ドレスの後ろボタンを留めていく。一つずつボタンを留めていくと、一番上のボタンに、結い上げていた髪の後れ毛が絡まった。
「痛っ! なにするのよ!」
パシン! と頬を殴られる。爪が当たって傷が出来るが、反抗は許されない。申し訳ございません、と頭を下げて、少女――琴子という――が許すまで顔を上げることも許されない。ただ目の前の少女に平伏し、許しを請う。華やかな美貌を持ち、社交的な彼女は、社交パーティーに行っても引く手あまたなのだと、身支度を手伝う楓に対して自慢げに喋っていた。実際琴子は、ぱっちりと大きな目も、白い肌も、艶やかな長い髪も、紅をさした時にきゅっと引きあがる唇も、とても良家の令嬢らしくかわいらしい。彼女が言うように、男性が放っては置かないだろうということは、容易に想像がつく容貌だ。
それに比べて楓は、艶のない髪を家事の邪魔にならないようひとくくりにして、傷んだところを繕いつつ使っているボロの着物を着ている。荒れた手指にこけた頬。覇気のない表情は見る人を陰鬱な気持ちにさせていた。
「ふん。謝れば何でも済むと思って、お前は何も出来ない愚図のくせに仕事をぞんざいにしがちよ」
「申し訳ございません」
「いい? 過去にお前がどれだけ裕福な暮らしをしていたか知らないけど、今は堀下家の使用人なんですからね。住むところと食事があるだけありがたいと思いなさい」
両親の生きていた頃が懐かしく胸をよぎるが、今、そんな郷愁に駆られている暇はない。
「はい、勿論です、琴子さま」
「分かったら早く支度を終わらせて。今日も華族の皆様方を招いてパーティーがあるのですからね。その為に新しくドレスを仕立てたのだもの、欧州ではジャポニズムなどと言って古い模様が流行っているようだけど、わたくしは古臭い日本回帰などしないわ。これはアールヌーボー柄と言って、純舶来模様の素晴らしいドレスなのだから、お前も丁寧に扱いなさい」
「はい、琴子さま」
「まあ、お前にはこの価値も分からないでしょうけれどね」
ふふん、と鼻で笑う琴子に傅き、ただひたすらに、言いつけられたことをこなす日々。今日も琴子の婿候補を招いて盛大なパーティーが催される。最近頻繁過ぎやしないかと、楓は思うが、もうそのことに口出しすることは諦めていた。
楓は医者の父と伯爵の母との間に生まれた子供だった。父と母は楓に惜しみない愛情と教育を与えてくれたが、その両親は、楓が七歳の時に流行った感冒に、先に母が罹って亡くなると、次に父が罹って亡くなった。楓は親戚筋を頼って、叔父の堀下茂三子爵家に預けられた。体裁は養子としてだが、実質の所は使用人として受け入れられたのだった。むろん、高等小学校へ進むことも、学費の高い女学校に通うことも許されなかった。
堀下家には楓の従姉妹となる琴子が子爵令嬢として蝶よ花よと育てられていて、琴子を良家の次男と結婚させたい叔母の良子が琴子と共にその贅沢、我儘ぶりを発揮していて、自分たちの給金も下がり気味だった使用人たちが顔をひそめてみていた。ただ、肝心の家長である茂三も二人に甘く、良子と共に、琴子には堀下家と自分の事業と投資の資金源になるような婚姻を結ばせようと躍起になっていた。もう一人、堀下家にはまだ小学生の義一(よしかず)という従兄弟が居るが、こちらは茂三がまだ投機する年齢ではないとみなして、有益な嫁候補を探そうという話にはなっていない。本人も社交よりも虫取りが好きな子供で、彼に無理強いをしていないことだけは楓に安堵の気持ちをもたらしていた。
少女の部屋で、ゆるく波打つ髪の毛を丁寧に結い上げ、ドレスの後ろボタンを留めていく。一つずつボタンを留めていくと、一番上のボタンに、結い上げていた髪の後れ毛が絡まった。
「痛っ! なにするのよ!」
パシン! と頬を殴られる。爪が当たって傷が出来るが、反抗は許されない。申し訳ございません、と頭を下げて、少女――琴子という――が許すまで顔を上げることも許されない。ただ目の前の少女に平伏し、許しを請う。華やかな美貌を持ち、社交的な彼女は、社交パーティーに行っても引く手あまたなのだと、身支度を手伝う楓に対して自慢げに喋っていた。実際琴子は、ぱっちりと大きな目も、白い肌も、艶やかな長い髪も、紅をさした時にきゅっと引きあがる唇も、とても良家の令嬢らしくかわいらしい。彼女が言うように、男性が放っては置かないだろうということは、容易に想像がつく容貌だ。
それに比べて楓は、艶のない髪を家事の邪魔にならないようひとくくりにして、傷んだところを繕いつつ使っているボロの着物を着ている。荒れた手指にこけた頬。覇気のない表情は見る人を陰鬱な気持ちにさせていた。
「ふん。謝れば何でも済むと思って、お前は何も出来ない愚図のくせに仕事をぞんざいにしがちよ」
「申し訳ございません」
「いい? 過去にお前がどれだけ裕福な暮らしをしていたか知らないけど、今は堀下家の使用人なんですからね。住むところと食事があるだけありがたいと思いなさい」
両親の生きていた頃が懐かしく胸をよぎるが、今、そんな郷愁に駆られている暇はない。
「はい、勿論です、琴子さま」
「分かったら早く支度を終わらせて。今日も華族の皆様方を招いてパーティーがあるのですからね。その為に新しくドレスを仕立てたのだもの、欧州ではジャポニズムなどと言って古い模様が流行っているようだけど、わたくしは古臭い日本回帰などしないわ。これはアールヌーボー柄と言って、純舶来模様の素晴らしいドレスなのだから、お前も丁寧に扱いなさい」
「はい、琴子さま」
「まあ、お前にはこの価値も分からないでしょうけれどね」
ふふん、と鼻で笑う琴子に傅き、ただひたすらに、言いつけられたことをこなす日々。今日も琴子の婿候補を招いて盛大なパーティーが催される。最近頻繁過ぎやしないかと、楓は思うが、もうそのことに口出しすることは諦めていた。
楓は医者の父と伯爵の母との間に生まれた子供だった。父と母は楓に惜しみない愛情と教育を与えてくれたが、その両親は、楓が七歳の時に流行った感冒に、先に母が罹って亡くなると、次に父が罹って亡くなった。楓は親戚筋を頼って、叔父の堀下茂三子爵家に預けられた。体裁は養子としてだが、実質の所は使用人として受け入れられたのだった。むろん、高等小学校へ進むことも、学費の高い女学校に通うことも許されなかった。
堀下家には楓の従姉妹となる琴子が子爵令嬢として蝶よ花よと育てられていて、琴子を良家の次男と結婚させたい叔母の良子が琴子と共にその贅沢、我儘ぶりを発揮していて、自分たちの給金も下がり気味だった使用人たちが顔をひそめてみていた。ただ、肝心の家長である茂三も二人に甘く、良子と共に、琴子には堀下家と自分の事業と投資の資金源になるような婚姻を結ばせようと躍起になっていた。もう一人、堀下家にはまだ小学生の義一(よしかず)という従兄弟が居るが、こちらは茂三がまだ投機する年齢ではないとみなして、有益な嫁候補を探そうという話にはなっていない。本人も社交よりも虫取りが好きな子供で、彼に無理強いをしていないことだけは楓に安堵の気持ちをもたらしていた。
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