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水の流れは
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02
池田を訪ねてから数日後。
祥二はその夜も瀬戸屋を訪れ、恵子を指名していた。
だが、いつもとは少し違った。
「どうしたんだい、祥二さん。なんだか難しい顔してるけど?」
「あ…ああ…。恵子とはちゃんと話しておくべきかもな。売春防止法のことさ」
祥二は恵子の顔をまともに見ることができないまま、冷や酒を呑み下す。
自分はすぐ顔に出るのが悪い癖だし、恵子には隠し事はしたくない。
そもそも、岸や池田ににらまれるのを怖れて、売春防止法に賛成はしないまでも積極的に反対してこなかった。
その負い目がある。
「聞いてるよ…。赤線も廃止になるって…」
そう言った恵子は、割合落ち着いていた。
(女っちゅうんは強いのお)
祥二は素直にそう思う。
自分だったら、不安につぶされてしまうかも知れない。
期限を区切って猶予を与えるから、今の商売から足を洗って別の食い扶持を探せ。
売春防止法の施行は、要はそう言う話なのだ。
断言してもいいが、法案を可決した政治家たちは、深く考えていないことだろう。
赤線が廃止された後、そこで働いていた者たちがどうやって食っていくのか。
「なあ恵子…。赤線が廃止されたら、そのあとどうするんじゃ?」
祥二の問いに、恵子は一瞬天井をあおぐ。
そして、寂しそうに笑う。
「そうだね。多少の蓄えはあるし、お店でも持てればって思うけど…」
「簡単じゃあない…か…」
祥二は沈痛な面持ちで相手をする。
朝鮮特需と呼ばれた戦争特需はすでに終わり、景気は横ばいになりつつある。
そろそろ、多くの人間がビジネスモデルの軌道修正を迫られている。
人々のサイフのひもも締まって行くことだろう。
(決めるなら…早いに越したことはないか…)
祥二は腹を括る。
どうせ、赤線の廃止は動かせない。
恵子の次の商売と居場所は、今のうちに確保しておく必要がある。
「惠子さん、店初めてみるかい?わしが出資するけえ…」
「え…でもいいの…?小さなお店持つっていっても、安くはないんだよ…?」
恵子が遠慮がちな表情になる。
売春で生計を立てていても、しっかりした女だ。
男におんぶして生きることに、抵抗を感じているのだ。
「まあ…わしも会社も、特需で稼がせてもろうたしの…。その金、このまま金庫に溜め込んどいたら泥棒と同じじゃ。なんかしらの形で還元せんにゃ、と思うとる」
「泥棒だなんて…祥二さんと会社の人たちが必死で稼いだお金じゃないかさ。特需に乗っかったにしても、才能と読みを効かせた結果だろう?」
恵子が厳しい表情になる。
祥二の気持ちはありがたいと思っている。
だが一方で、必死で働き、この国を敗戦から復興させた人たちを否定して欲しくないのだ。
もちろん祥二本人も含めて。
「すまん…。泥棒は言い過ぎじゃったな。でもな、恵子さん。金は天下の回りものと言うじゃろう?金の流れは水のようなもんじゃ。もし誰かが流れを止めてよどみを作ると、全体が腐ってしまうもんじゃ。ま、池田の親父の受け売りじゃがな」
祥二はそこで言葉を句切り、おちょこの中身を開ける。
「言うてはなんじゃが、その腐敗が太平洋戦争の原因じゃったと、わしは思うとる。金持ちたちが、短期的な利益、あるいは自分の栄華だけ考えて金の流れを止めた。それが多くの人間を貧困に追いやり、政党政治を崩壊させ、軍部を止められなくした。その結果が…」
祥二はみなまで言わなかった。
だが、言いたいことは恵子に伝わったらしい。
地主、財閥、そしてそれらを票田とする政治家。
目先の利益のために、他人に損をさせて自分だけ得をする構造を作り上げた。
そのツケは、敗戦と占領統治、農地改革と財閥解体、そしてパージという形で跳ね返ってきた。
間違いは繰り返したくないし、繰り返すべきじゃない。
理解してくれたらしい。
「少し考えさせてくれないかい…?」
恵子は迷いがあるようだった。
「まあ、今日明日てこともないが、なるべく早ようにの」
祥二はそれ以上の言及を避けた。
最後は、恵子自信が決めること。
自分はただ支援するだけだと。
だが、直後に祥二と恵子が予想もしていなかったことが起きる。
ふたりはまだ知らない。
自分たちを荒々しい濁流が、無情に押し流そうとしていることを。
池田を訪ねてから数日後。
祥二はその夜も瀬戸屋を訪れ、恵子を指名していた。
だが、いつもとは少し違った。
「どうしたんだい、祥二さん。なんだか難しい顔してるけど?」
「あ…ああ…。恵子とはちゃんと話しておくべきかもな。売春防止法のことさ」
祥二は恵子の顔をまともに見ることができないまま、冷や酒を呑み下す。
自分はすぐ顔に出るのが悪い癖だし、恵子には隠し事はしたくない。
そもそも、岸や池田ににらまれるのを怖れて、売春防止法に賛成はしないまでも積極的に反対してこなかった。
その負い目がある。
「聞いてるよ…。赤線も廃止になるって…」
そう言った恵子は、割合落ち着いていた。
(女っちゅうんは強いのお)
祥二は素直にそう思う。
自分だったら、不安につぶされてしまうかも知れない。
期限を区切って猶予を与えるから、今の商売から足を洗って別の食い扶持を探せ。
売春防止法の施行は、要はそう言う話なのだ。
断言してもいいが、法案を可決した政治家たちは、深く考えていないことだろう。
赤線が廃止された後、そこで働いていた者たちがどうやって食っていくのか。
「なあ恵子…。赤線が廃止されたら、そのあとどうするんじゃ?」
祥二の問いに、恵子は一瞬天井をあおぐ。
そして、寂しそうに笑う。
「そうだね。多少の蓄えはあるし、お店でも持てればって思うけど…」
「簡単じゃあない…か…」
祥二は沈痛な面持ちで相手をする。
朝鮮特需と呼ばれた戦争特需はすでに終わり、景気は横ばいになりつつある。
そろそろ、多くの人間がビジネスモデルの軌道修正を迫られている。
人々のサイフのひもも締まって行くことだろう。
(決めるなら…早いに越したことはないか…)
祥二は腹を括る。
どうせ、赤線の廃止は動かせない。
恵子の次の商売と居場所は、今のうちに確保しておく必要がある。
「惠子さん、店初めてみるかい?わしが出資するけえ…」
「え…でもいいの…?小さなお店持つっていっても、安くはないんだよ…?」
恵子が遠慮がちな表情になる。
売春で生計を立てていても、しっかりした女だ。
男におんぶして生きることに、抵抗を感じているのだ。
「まあ…わしも会社も、特需で稼がせてもろうたしの…。その金、このまま金庫に溜め込んどいたら泥棒と同じじゃ。なんかしらの形で還元せんにゃ、と思うとる」
「泥棒だなんて…祥二さんと会社の人たちが必死で稼いだお金じゃないかさ。特需に乗っかったにしても、才能と読みを効かせた結果だろう?」
恵子が厳しい表情になる。
祥二の気持ちはありがたいと思っている。
だが一方で、必死で働き、この国を敗戦から復興させた人たちを否定して欲しくないのだ。
もちろん祥二本人も含めて。
「すまん…。泥棒は言い過ぎじゃったな。でもな、恵子さん。金は天下の回りものと言うじゃろう?金の流れは水のようなもんじゃ。もし誰かが流れを止めてよどみを作ると、全体が腐ってしまうもんじゃ。ま、池田の親父の受け売りじゃがな」
祥二はそこで言葉を句切り、おちょこの中身を開ける。
「言うてはなんじゃが、その腐敗が太平洋戦争の原因じゃったと、わしは思うとる。金持ちたちが、短期的な利益、あるいは自分の栄華だけ考えて金の流れを止めた。それが多くの人間を貧困に追いやり、政党政治を崩壊させ、軍部を止められなくした。その結果が…」
祥二はみなまで言わなかった。
だが、言いたいことは恵子に伝わったらしい。
地主、財閥、そしてそれらを票田とする政治家。
目先の利益のために、他人に損をさせて自分だけ得をする構造を作り上げた。
そのツケは、敗戦と占領統治、農地改革と財閥解体、そしてパージという形で跳ね返ってきた。
間違いは繰り返したくないし、繰り返すべきじゃない。
理解してくれたらしい。
「少し考えさせてくれないかい…?」
恵子は迷いがあるようだった。
「まあ、今日明日てこともないが、なるべく早ようにの」
祥二はそれ以上の言及を避けた。
最後は、恵子自信が決めること。
自分はただ支援するだけだと。
だが、直後に祥二と恵子が予想もしていなかったことが起きる。
ふたりはまだ知らない。
自分たちを荒々しい濁流が、無情に押し流そうとしていることを。
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