赤線の記憶 それでも僕は君を

ブラックウォーター

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昭和32年

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01

 祥二と恵子の転機は、昭和32年だった。

「売春防止法が全ての業種に適用されるですと!?」
 用あって池田勇人の自宅を訪ねた祥二は、大声を出してしまう。
 戦後、占領軍の意向を汲んで売春の違法化が進められていた。
 だが、性欲という本能は理屈でどうこうなるものではない。
 にもかかわらず、十把一絡げに売春を社会悪とする流れは止まらなかった。
 全国の自治体で売春防止条例が成立する中、ついに全ての売春行為を取り締まる法律が成立する。
 売春防止法だった。

「では、赤線はどうなるんで?」
「廃止…ということになるじゃろうの…」
 あいまいな表現を嫌う池田が、珍しく歯切れ悪く答える。
 経済通の彼からすれば、忸怩たるものがあるのだろう。
 赤線を廃止すれば、日本の国際的な面子とイメージには資するかもしれない。
 だが、赤線で暮らし働く人たちのことはどうなるのか?
 彼らの飯の種を問答無用で取り上げることになる。
 それは、池田もわかっているのだ。
「アメリカさんのいつもの理屈ですな。オムレツを作るには卵を割らなければならない、って。それで、排除される人たちの暮らしはどうなるんじゃ?」
 祥二の言葉に池田はすぐには答えずに、日本酒をあおる。
 祥二の怒りもわかるのだ。
 あの国のいつもの理屈、いつものやり方だ。
 必要性だけが問題にされ、許容性ははっきり言って一顧だにされない。
 必要であるなら、殺人や戦争さえ合理化してしまう。
 人権国家を建前としているだけに、かつてのナチよりよほど質が悪かった。
(農地改革も、そんな論法で実行されたじゃないか…!)
 祥二は悔しかった。
 自分の家の土地が取り上げられた時と同じ理屈で、また大事なものが召し上げられようとしている。
「じゃが、世論もおおむね売春の規制支持に傾いとる」
 池田は、アメリカの外圧だけが理由ではないとほのめかす。
 赤線が人身売買の温床や女性の社会進出の足かせになっている、という非難は、一理あったからだ。
「それは…」
 祥二は即座には言い返せなかった。
 別段、女性の社会進出に反対なわけでも、売春を賛美するわけでもない。
 売春が規制されれば、身体を売る以外の方法で女たちが生計を立てていくことを促せる。
 その理屈も傾聴には値すると思う。
 だが、赤線には、あそこはあそこで暮らす人たちも日常もある。
 他に行くところもなく、食べていく術を知らない人たちもいるだろう。
(彼らはただの数字じゃないんぞ)
 祥二には、お偉方には赤線で暮らす人びとのことが、すっぽり抜け落ちている用に思えた。
 売春防止法制定の圧力をかけたアメリカも、法案を成立させた日本の政治家も、人を見ていない。
「せめて…。適用を限定的にできんのですか?フランスみたいに許可制にするとか、いろいろ方法はあるはずでは?」
 祥二の言葉に、池田は無言で首を横に振った。
 すでに制定されてしまった売春防止法を前に、細かい理屈や義理人情を語ってもどうしようもないとばかりに。
 違法になった売春が地下に潜ることを避けるための策は、総理である岸以下政治家たちの頭にはあるのだろう。
 だが、日本の売春文化を象徴する赤線の廃止は、動かせないのだと祥二は知った。

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