堕ちる犬

四ノ瀬 了

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霧野君の肉体と精神とは穢らわしくも美しいものがある。

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「西洋美術 春姫堂」と小さな木製の看板が垂らされた銀色のドアの前に、神崎は立っていた。

喫茶店の周囲をはらせていた部下達の報告によってあの男がここに居ることを突き止めていた。霧野が席を立ったのを見計らって、神崎は、喫茶店の向かい側の古びたビルに足を踏み入れたのだった。

昼間だというのに異様に静まり返り、暗く、コツコツと革靴の底をならして歩く音が廊下中に聞こえていた。

扉の向こう側はクリーム色をした壁紙が巡らされた小さな部屋で、壁に絵画が五枚ほどかけられ、奥に一つ扉がある。目の前の受付机のところに一人、こじゃれた縦縞スーツの青年が座っていた。客が来るとは思っていなかったらしく、驚きに目を見開いて神崎を見、軽い咳払いをして繕った笑みを浮かべた。

「いらっしゃいませ、お約束のほどは」
「奥に男が一人いるだろう。ソレに会わせろ。」

神崎は警察手帳をかざし冷淡に言い放った。受付の男はまた、さっきよりもさらに大きく瞳を見開き、少々お待ちをと立ち上がったが神崎は、待たず、男の背後にぴったりとくっついていった。受付の男は気が付かないふりをして、奥の間に続く扉を開いた。

ガラス張りの窓の横に応接用の紅いソファが向き合って、そこに目当ての男が一人座って、小型の望遠鏡を覗いていたのだ。テーブルの上に冷めたらしい半ば飲まれた珈琲カップが置かれていた。神崎が部屋に足を踏み入れてすぐ、男はその手を下げ、開け放たれたドアの方を振り向き、特に驚いた様子も見せず、まるで来客を予期していたかのようにやけに爽やからしい顔で微笑んでまるで旧知の友のように、神崎に声を掛けた。

「おや、神崎さんじゃあないですか。驚いたなあ!こんなところで。絵に興味がおありで?知らなかったなぁ。貴方についてはまだまだ知らないことがたくさんあって、興味が尽きない。」

神崎は無言のまま受付の男の横を通り抜け、川名のすぐ横に立ち川名の眺めていた方角を見た。喫茶店と霧野達の座っていたボックス席が見えた。霧野はおらず、山崎達が見える。

「これでもう、はっきりした。」

神崎は、口元のを歪め眠たげに、しかし何か燃えるような炎を秘めた瞳で川名を見下ろすのだった。

「返してもらおう。」
「返す?僕は貴方から何か借りた記憶は無いですが。まあ、お座りになられたらどうです。酷く顔色がお悪い。」

川名は淡々とそう言ったかと思うと、神崎の後ろで居心地悪そうにしている男の方を見た。

「おい、君はもう下がっててくれ。オーナーにも人をいれないように言ってくれるかな。」

若い男は救われたというように、何度もうなずき、部屋の外へとすっ飛んでいった。ただならぬ空気に耐え切れぬようであった。
神崎は座ろうとはせず近くの壁にもたれて、川名をあくまで上から黙って見ていた。川名は挑発的な笑みを口元に浮かべた。誘うような独特な笑み方である。ちょうど彼の背後に絵が一枚かかっていた。森を描いたようだ。森は暗く荒々しいタッチで描かれ、画面一面が暗い。

「さっきから怖いなぁ。なあに?俺などじゃなく、ここに飾られている物を見たらどうです。そのための場所だ。」
「そっくりそのまま同じ言葉を返してやりましょう。」
神崎は窓の外を親指で指さした。
「何をおっしゃるのです。アレもここにある物と同じだ。」

川名は手元の双眼鏡をいじくって、見ます?とでもいうように、双眼鏡を神崎のいる方に差し出しさえした。

「ふざけるなよ。」

川名はつまらなそうな顔をして、双眼鏡をテーブルの上に放り、ソファに深く腰掛け脚を組んだ。

「はいはい、で、なんでしょう。」
「澤野のことだ。」

川名は一瞬不意を突かれた顔をしたが、すぐ、軽く声をあげて笑ったかと思うとソファのひじ掛けに手をつき、異常に緩慢な動作で立ち上がった。彼の周囲だけ空気が重いかのようだ。

「敢えてまだ、”澤野”とおっしゃる。ふふふ、私の、地雷を踏むのが怖くて怖くて、怯えてるんですね、神崎さん。まったく、可愛い人だな。いいですよ、もう、これで隠したら馬鹿だ。”霧野君”のことでしょう。」

川名の口から「霧野君」という言葉が出て、あまりにその言い方が、優しく呼びかけるように言うので、神崎は激しい苛立ちと気味の悪さを覚えた。

川名の声は神崎が来てから、神崎がどのように話しかけようが、迫ろうが、安定して低く穏やなまま変わらなかった。独特の低い美声は、年齢を感じさせなかった。神崎自身の声が川名に初めて会った時より幾分か枯れたのに比較しても、若々しいままであった。いや、もとから若々しさも年齢も感じさせない音だった。一音一音が、静寂の夜の湖畔、水面の上に、一滴の水が垂れた時の音を想像させる。

川名が歩み寄ってくるだろうかと身構えたが、彼はその場で窓の方に身体を向けた。窓の前に立っていても、窓には外側からは見えないようなシートが張られているようだった。神崎がこの窓の向こう側を通った時も、横で芝居がかった様子で佇んでいるこの奇妙な男に見られていたかと思うと、背中が寒いものがあった。

「わかっていて、どうしたまだ澤野の役目をさせ続ける。」
「……どうしてか?どうしてだと思います?ねぇ。」

ため息の混じった声で、川名が淀んだ、しかし軽く熱を帯びた目つきで神崎を流し見た。

「揶揄うな!」

神崎は言ってから激した自分を抑えるように川名から目を逸らしてしまった。

「ふふふ、揶揄ってなんかないですよぅ。私はいつだって真剣です。だから、神崎さんも真剣に答えてくださいよぅ。答え方によっては……」

川名は語尾を濁して微笑むのだった。

「”真剣に”遊んでるんだろう。」
「ああ、そうです。そうですよ。真剣に遊んでいる、感激だ、的を射た答えですね。だから俺は貴方のことが大好きなんだ。ところで、あんな面白いものといったらありませんよ。ねぇ?最初こそ、それはもう、どうやってこの世に生を受けたことを後悔させてやろうかとばかり考えていましたがね。ははは、でも、もっと良いことに使えることがわかったから。」
神崎は再び川名をねめつけた。
「アレはお前の玩具ではない。」

神崎がそう言って川名の方に歩みを進めると、川名は神崎の方に真正面から向き直り、顔を、頬を差し出すようにして傾けた。

「また、殴るのかい?いいですよ、別に。あんな風に人に殴られたのは久しぶりのことだ。思い出しても愉しい……。そういう意味では精神的な殴打、屈辱は澤野の裏切から受け、肉体的な屈辱は貴方から受けることになる。君達のような人間を俺は好いているよ。」

あからさまな挑発に、神崎は昂る気を静めたが、川名のすぐ横にまで歩みを進めた。

「好いている?そりゃあどうも。じゃあ、霧野をこのまま五体満足のままこちらに引き渡しちゃくれないか?そうしたら俺は悦ぶ。好きだというなら、俺を悦ばせてくれよ。頼むよ。」

「あ?どうしてだ?それはそれだろう。俺が奴によって大きな被害を被ったのは事実だ。俺はとても傷ついたんだよ。それに、澤野は一度俺の物になったのだから、もう、その後はどのような理由があれ、第三者に口出しされる言われはないんだ。今だって澤野として、警察を欺くために、あそこに派遣しているんだよ。俺の犬は、みすぼらしい犬共なんかには絶対に負けないんだ。あなたを含めたほんの数人くらいだろ?わかってるのは。他は何も知らない木偶と見た。」

「……。」

ほんの数人とは言わないまでも、事実そうであった。神崎は無理に自らを面談の場にねじこめるよう、手配はしたものの、川名だけでなく警察も欺かねばならなかった。慎重になりすぎているだろうかと考えはしたが、霧野を誅殺しようとしている輩が上層部に居ないという確信が持てなかった。最も最悪なのが全面的な救出活動を行う中で、”事故か相手方の手によって死ぬ”というシナリオが発生する可能性があることだった。神崎は、ほとんど上層部の人間を、もはや病気かと思われる程信用していなかった。霧野のことで、忘れていた再び上層部に対する不信の念が濃くなったのだった。

「……。澤野が霧野とバレた上で俺の元でのうのうと生かされている。そんなことが内部に知られた場合、心底腐ったあなた方のことだ、そりゃもう!大変なことが起こるだろうなっ!神崎さんのような有志を除き、即座に表立って救出に向かおうとは、ならないのだろう。なあ?利権やら、立場やら、面子やら、俺達より余程複雑に腐りきっているんだから。仁義なんかないだろう。口封じに消すべきなど提案する外道さえいるのでは?……そうだよ、俺はそういう爛れた沼地から、貴方がた、つまり霧野君と神崎さん、貴方を救おうとしているわけですよ。俺は、救世主なのかもしれませんよ。」

川名は芝居がかった様子で神崎に手さえ伸ばしかけ、神崎はその手を振り払い、また川名の望み通りに殴りかかりたくなるのを抑え、冷静をこころがけ、川名を眺めた。川名の瞳の中に涼しさの他にまた奇妙な熱っぽさがあり、気味が悪いのだが、目を逸らせば、まるで負け犬のようだから、強い力をこめて見た。そうすると、ゆっくりと目の前で川名の目が細まっていくのだった。

「救世主?ふん、馬鹿げたことぬかすなよ。この気違いが。」

神崎が強い口調で言い捨てると、川名は、小首をかしげて笑い、ため息をついた。

「ああ、わかってないね。ここに来る前も、俺は彼を救ってやったんだよ。だから、あそこで上手いことやっているんじゃないか。いつでも俺は彼の懺悔を聞き入れる所存だ。そうして、自ら俺の元に居たいと地べたに這いつくばって、言い縋るようになるのさ。神崎さん、俺はきっと貴方より余程霧野君のことをわかっているし、知っているのですよ。アンタは何もわかっちゃないんだよ。いつだって蚊帳の外、中に入れてもらえない惨めな犬に過ぎない。」

神崎は、不信の目つきで川名を眺め続けたが、彼は薄ら笑いを浮かべたままだった。川名が霧野に何をしたのか、問い詰めたくも、霧野自身の名誉に関わることである。不可能であった。霧野が霧野であると発覚したであろう時から今まで、殺しも欠損もさせていない。しかし、制裁を加えたのは間違いがない。美里が”ちょっとレイプして教育してやった”などと平然と言ってのけたくらいである。

川名の組織は、甲武会全体を見ても新しく、やり方も新しく、内部統制も新しかった。そして、川名の組の制裁の仕方はただならぬものがあるらしく、それは身内だろうと外だろうと同じであった。新しいがゆえに、なめられては終わりだからか、最初の方は今より凄惨であり、川名達が「殺る」と言ったらそれが脅しではなく「殺る」ための準備はあり、実行しかねないぞと言っていることが、周囲には伝わるようになっていた。

ただ、川名の組織支配のやり方は、完全な暴力的支配だけではないように神崎には見えていた。実際、川名の実行能力が高いのだ。だから、暴力的な囲いなど無くても、ついていこうという人間が出てくる。恐怖支配の側面は確かにあるが、霧野の報告を見てもわかる通り、制裁される人間達を、組員達は自らにも起こるかもしれぬという恐怖を覚え戒めとして見ながらも、川名と同じ立場に立って愉しんで見ているというのである。

久しぶりに見た霧野の姿。第一印象は思っていたよりも健康。外見的には大きな変化がなく、五体満足で安心したくらいであった。指の欠けも見当たらない。元来、彼らの元に派遣されてからと言うもの、焦燥、苛立ち、血の気の多さが以前に増して顔に出て、一層それらしい凶悪さのある人相になっていたが、顔つきはそれらがさらに増したと言えるが、それ以上に以前にはない不思議な雰囲気、色気のような物を醸し出していた。

彼には珍しく品よく上品なタイを丁寧に締め、夜会のような上等な装いが、そうさせるのかもしれず、気が付けばガタイの良い男ばかりでむさ苦しい喫茶店の中で、彼自身もまた大きなむさくるしい男の一人に過ぎないはずなのに、なぜか、一つ、沼地に大きなスレインの華の咲いた様であった。五体満足の霧野を見た安心が彼をその様に見せるのかと思ったが、霧野を初めてみた神崎の直属の部下のひとりが、ほぅと奇妙な息のつき方をして神崎を見た。

霧野の顔につけられたいくらかの痣、チラチラと見え隠れする首の妙な痣が気になる点と言えば気になるが、顔だけに限れば喧嘩や暴力仕事の結果として処理されるレベルであり、寧ろ霧野の端正な顔に、野性的な味わいを加えて、映えるほどだ。すれ違えばつい振り返りたくなるような、身体全体をまとわりつく色気があった。動作が緩慢であるが、目立つほどではなく、それさえも寧ろ堂々として同時に退廃的な倦怠感を纏って彼をよく魅せるのだった。川名にも少し似た蕩けた倦怠である。

通常の暴力的な制裁をするのであれば、腕や足の一本や二本の骨折は当たり前、顔など真っ先に潰されてしかるべき箇所のはずだ。特に、陰険で陰湿な奴らのことだ。男ぶりが良い男ほど顔はやられやすいはずなのに、そこがまだ、手ぬるく多少の裂傷のまま残されている。

彼の、見えない部分は、どのようになっているのだろう。

確かに、今回のような表の場に出すために顔は避けて制裁をしているとも考えられるが、美里の言ったことが、美里の見せてきた霧野の一糸まとわぬ獣の姿が、頭を過り、今川名が言った、”俺の元に居たいと言い縋るようになる”という意味深な言葉と混ざり合い、厭な想像が働いていた。川名の以前から神崎を見る奇妙な目つきといい、他の警察仲間には目もくれず神崎に対してだけ見せる奇妙な馴れ馴れしさといい、そのすべてが一つの厭な結論を導き出そうとして、神崎は自分の口の中が異様に乾いていくのを感じた。

喫茶店の中で、霧野も神崎の存在に気が付いたようであり意図的に目を合わせてきた。鋭い目つきの中、とげとげしさが強く、他の人間が見れば喧嘩を売っているか、怒り、睨みを利かせているとしか見えない目つきであったが、その中にどこか甘えるようなすがるような潤いがあるのを、神崎だけが読み取った。

迎えが遅くなったことについて、腹を立てながらも、喜びを表現している子どものようだと、緊迫した状況の中神崎は不思議といやされたような気分になったくらいであった。しかし、時が過ぎるにつれ、霧野の皮膚に何やら上気した感じが出始め、熱っぽい調子で、淡々とした報告口調に乱れが生じ始めていた。その調子で軽く眉を顰め目を合わせてきた時、何か少し不快な感じが身体を走り、神崎は無意識に、普段の癖で無表情のまま見下し眉をひそめるような表情をとっていたのだった。

すると、霧野の方では、もじもじと何か誤魔化すように口の端を歪め、また報告に戻ったかと思うと、急に虚ろな微熱に犯されたような瞳になり始め、神崎はどうかしたのかと霧野とその周囲を周囲を見渡した。しかし、霧野の些細な変化を不審に思うような人間はおらず、神崎は自分が霧野を変な風に見すぎているだけか、他の人間に観察眼が無さ過ぎるのか、心を乱された。霧野が席を立った。それを見計らい、今、川名の元を訪れたのだった。

川名の元を訪れた理由、それは彼を現行犯、とはいえ、何か犯罪を犯したわけでもなく、霧野を霧野として認知している証拠として確認する意図もあったが、彼をこの場で足止めさせ、彼が何者かに連絡や指示をするのを断つためというのもあった。今、最も霧野の監視が、警察からも川名達からも届かない位置にあるのだ。本来なら神崎自身が、霧野の前に出向いてやりたかったが、川名を長々と足止めできるのは神崎にしかできない役目かと思われた。彼は自分が興味がないモノにはとことん冷淡であり、そこに存在していることさえ、今気が付いたというような冷酷な動きをする。たとえ足を踏んだとしても、その誰かを認知せず、自分が錯覚しただけと思うほどだ。

初めて神崎は川名が、自分が川名にとっての餌、生贄にできる程度には自分に興味を持っていて良かったと思ったくらいであったが、こうして久しぶりにしっかりと顔を向き合わせて話していると、やはり、良かったとは思えなくなってくる。とにかく虫唾が走る男である。

神崎は、背中に冷や汗をかきはじめてうた。霧野をこの目で見て、川名と霧野について直接話してみて直感したこと。それは、考えたくも想像したくもない想像でしかないが、おそらく川名は少なくとも一度以上霧野を抱いているというこだった。いや、抱くという表現は違う。美里であの調子なのだ。凌辱したと言った方が正しいに違いない。川名のような異常者が、普通の情交をするのか、いや、しないだろう。懲罰も兼ねて犯しているのだから、よほど手酷く犯したはずだ。どうやって?ソレは神崎の想像には及ばないことだった。去勢もしかねない。川名のことだ、残酷にも一番初めに霧野の底を切り取って他は健康的に残しておくなども十分あり得るではないか。

神崎は、胸に痛むものと身体の怒りと悲しさによる熱とを覚え、心拍数が上がっていき、様様な想像に吐き気、気分が悪くなってきていた。しかし、川名の姿を見れば、怒りによって、気分の悪さを完全に吹き飛ばすことができ、この異常者を、自らの手で早くなんとかしなければいけないという正義感、霧野を守らなければという父親、夫のような使命感が生まれていた。

川名は苦悶する神崎の様子を、さも面白そうに見ていたかと思うと「まったく、霧野君の肉体と精神とは穢らわしくも美しいものがありますよ。」とまるで神崎の思考を読み取って挑発するかのようなことを惚れ惚れした調子で言って、青白い顔の上に仄暗い微笑みを讃えるのだった。

神崎はまた頭に血が上ったが、冷静を取り戻すように一つ深く息を吸って、吐いた。

「……さっきから、気持ちの悪いことばかり言うなよ。」

「おや?おや?嫌悪感をもよおしたのか?なあ……神崎さん、貴方一体今、何を想像なさってるんです?こっそりと俺に、この俺だけに、教えて欲しいなぁ。ねぇ……。警察というのはいろいろ想像しては噛みついて来るからな。想像力が無駄に豊かなのが多い。なあ、何を考えたのか言えって。……だめか?言えないかな?……。俺に聞きたいことが、あるんじゃないのかなぁ?‥‥…。俺が、自分の舎弟を誉めて一体何が悪いんだ。神崎さん、アンタはちゃんとあの犬を時に鞭打ち誉めてじっくりと躾けてやったか?してやらなかっただろう。だから彼は、貴方では駄目なんだ。あの犬を正しい方に導こうとしているんだ。俺達の邪魔をするなよ。」



神崎と別れて、美里は気もそぞろなまま、街の中を速足で歩いていた。ネオンライトが目に五月蠅くて、目を細めてしかめっ面をして歩いた。自然と脚がバー翡翠に向きかけたが、矢吹のことがあって歩みが遅くなる。それでも店の前まで歩いていくと、店の横の掲示板に矢吹の舞台の宣伝が張られており、ちょうどいまの時間から第二部が始まろうかと言うところだ。公演中止とも、代演とも訂正されず、堂々と張られたままになっている。美里は掲示板のガラス越しにチラシを前に下劣な笑みを浮かべて、小さく声をあげて笑った。

「ふーん、なかなかいいタマしてるじゃねぇかアイツ。」

美里はこの時初めて、矢吹の舞台を観に行きたくなった。どうせ打ちのめされて、しばらく表に等出てこないと思ったのだ。それが素知らぬ顔をして堂々と日常生活、さらには「自分を売る仕事」をしているとは。美里にとってはとても興味深いことだった。

劇場はほぼ満席に近く、最後列で立ち見となった。真剣に観る気も無く暇つぶしのつもりで壁に身体をもたれさせポケットに手を突っ込んだまま、深夜テレビをだらだらと見るようなだらけた調子で舞台を眺めていた。遠すぎて、人形のままごとしているように見える。つまらない。しかし、この前、矢吹の部屋で読んだ筋とちょうど同じだ。美里は自分の読んだ部分の内容をよく記憶していた。

思わず欠伸が出て、もう二度と矢吹の顔を思い出すことさえできそうになかった。偽物。現実世界の残虐愉快には到底敵わないのだ。そろそろ小澤という反社の小僧が出てきて男達と交渉の後、1人を殴り打ちのめすはずだった。そこの筋まで観たら、さっさと帰ろう。はやく霧野にも会いたかった。今や彼くらいしか美里には愉しみが無いのだった。

舞台の照明が絞られて薄暗くなった。そして、一つの台詞と共に、再び舞台が照らされ、ホンモノがでてきた。何の本物か、極道のホンモノ、しかも、美里によく似た、というか、美里の生き写しのような者が出てきて、舞台の上で気前よく振舞っていた。誰かと思えば矢吹であり、驚愕する。身なりはもちろん、口調から、細かなふるまいまで、美里の完全なコピーで、恐ろしく、魔術的であった。特にドッペルゲンガーの元になっている美里自身が一番の衝撃を受ける。遠くて顔がはっきり見えない分、本人より本人に見える。今、珍しくラフな服装をしている美里自身が逆に偽物で、本当の美里は舞台の上で生きているようだ。創られた人間、顔つきも元が悪くはない矢吹の顔が、舞台化粧で美しく映えて衣服も舞台衣装であるからか、美里のものよりさらに豪華絢爛なのだが、自然に見える。

美里はしばらくの間、舞台から目を離せずにいたが、次第に心の底から異常な燃えるような苛立ちが身体の中に起こり始め、無表情の皮膚の下で食いしばった歯の間から地鳴りのような、見目に似合わない醜い獣のような唸り声をあげそうになるほどであった。

客席の中でも比較的光が当たっている場所に美里は自分の身体を移動させた。もしかしたら、舞台から見えるかもしれない。そして、最後まで舞台を見守ることに決めた。

カタギの人間、それも舞台俳優如きに心を乱されるなど、美里にとって、あってはならないことであった。美里は自分自身のプライドについて、川名や霧野や二条には劣る、特に澤野のように高すぎるプライドについては寧ろ馬鹿にし、軽く軽蔑さえしていたが、彼自身にも、男を売る稼業と己の卑劣な家庭環境から這い上がってきた生い立ち故の常人に比べればかなりの高く歪んだプライドがあった。時に、カタギに対して、普通に生きているという嫉妬から来る苛立ちがあることを美里を意識的に自覚しないようにしていた。

しかも、矢吹は、美里の普段の挙動を完全なまでにコピーしていた。天才とはこういうものをいう。なるほど、そのために仲良くしていたのかと、美里はまた、冷笑したが、無意識の中で、またしても激しいショックを受けて心の奥の方が叫び声をあげたのだった。信頼が裏切られるのはもう、耐えられない。こんなことなら、最初から誰にも友情など感じなければよかったのだ。死んだ者だけが友で、それでいいではないか。

最後の挨拶で、矢吹たちが客席に向かって頭を下げた時、美里は確実に矢吹と目を合わせた。軽く微笑みがちに。演目中も、矢吹の目が美里の方に目がいくことがあり、その度挙動が一瞬おかしくなるのだが、見間違えと判断したか、役に入り込んでいるせいか、すぐに持ち直した。しかし、やはり気になってはいたのか、挨拶の途中、確認するように自ら、しっかりと美里の方に顔を向けて見たのだった。矢吹が初めて、あからさまに動揺した顔を見せ視線を逸らし、繕うような笑顔を別の方向に向けたが、上気していた顔色が一転して最悪になっていた。他の人間からすれば舞台の上での疲労が祟ったかのように見えるだろう。

美里は矢吹の焦燥した様子を確認すると、身をひるがえして廊下に出た。

「すみません、楽屋はどちらでしょう?僕、俳優仲間で矢吹君の友達なんですが。よく翡翠に顔を出してる。」

無邪気な笑顔の仮面をかぶって、可愛らしい小鳥のような声で女性スタッフに話しかけた。財布に溜まりに溜まったチケットなどを見せた。スタッフは美里の小ぎれいな、それも普段と違い健全な若者じみた見目、そして常人ではない容貌から、完全に俳優の一派であると信用し美里を舞台裏、それから地下にある楽屋に案内するのだった。途中、矢吹が憑依型の俳優だという話が聞こえた。それから、ある時期を境に見違えるようによくなっただとか、そんな話が、美里の心をまた騒がせるのだった。

楽屋に通され、美里は入口のところで、ポケットに手を突っ込んで、よく仕込まれた笑顔で、スタッフの後ろから、矢吹たちの方を見始めた。矢吹は集団に囲まれてなにやかんやしていたが、スタッフが「おーい矢吹君、お友達が来てるよ」と呼び、美里の存在に気が付いた。矢吹は、こういう時の演技はできないようで、あからさまに表情を曇らせて集団から飛び出て、美里に顔を寄せ「外に行こう」とまくしたてるように囁いて廊下に出ていった。

「悪手だなぁ……」

美里はそう呟いて、出ていった矢吹の後を追った。自分が矢吹の立場であったら、すぐに一人集団から自ら離れるような真似はしないのだった。危険すぎるだろう。しばらくそのまま演じて様子を見る。いきなり”敵”と二人きりになってどうする気なのだろうか。もう俺はお前を友と思わない。他の、愚かな男達と同じ肉にすることに決めたのだよ。俺がそうしたいのだ。希望などもつべきじゃないのだ。

矢吹は、薄暗い、人気のない廊下を進んだ。とにかく楽屋からは離れたかった。皆を巻き込むわけにはいかなかったし、皆に知られてはいけないこともある。矢吹は今まで比較的天真爛漫に生き、その清純さ、無垢さを周囲も気に入り自然と彼を手助けしたくなるのだった。矢吹は今まで、多少な秘密を持ちはし、たまには病む終えず人を救うための嘘もついたが、人に言えないような大きな秘密を持ったこともなかったのだった。

後ろから彼がついてきている。はりついたような薄ら笑いを浮かべて、客席の暗がり舞台を眺めていた姿が脳裏に焼き付いて離れない。一体どっちが客席なのかわからないくらい、矢吹にとってそれは異常な存在感を持っていた。彼の存在を意識すると一瞬身体がうまく動かなくなるのだが、その後それを掻き消す猛烈なエネルギーが湧いて出て、寧ろ神がかったような演技ができた。目の前の仲間が、演技ではなく実際に驚愕しているのがわかり、さっきまでもそれを称えるように皆から褒められていたのだ。しかし、その理由を言えるはずもなく、やましい心をかかえていたところに、彼が、降臨したのだった。

悪魔にとり付かれたようだ。あれほど彼に見られることを切望していたにもかかわらず、恐怖した。背後を恐る恐る振り返った。暗がりの中、電灯がてんてんとし、丁度光の下に彼は佇んでいた。真っ黒い影が長く伸びていた。

「一体、何しに来たんだ。」

矢吹は自分の声の情けなさと、身体の震えに愕然とした。舞台裏の廊下は表よりボロ臭く、美里のすぐ後ろのライトの一つが切れかけてチカチカと点灯し、美里の背後の闇に醜い化け物でも潜んでいるのではないかという気にさせた。いや、彼自身が異常な化け物である。彼は、顔を歪めて笑った。

「何しにぃ?笑わせてくれるなっ、お前が散々俺を誘うからよ、ようやく観に行ってやろうという気を起こしたんじゃねぇかよ。悦んでくれないのかよぉー?なぁ。みーちゃん?」

寒気がした。彼の見た目からは想像できない乱暴な手つきと振る舞いが、先に、身体の記憶として思い出された。
彼は光の方を仰ぎ見るような仕草をして、矢吹の方に一歩近づき、その分矢吹は半歩後ろに下がって視線を逸らした。美里が上半身を折り曲げるように身を寄せてきて、熱が漂った。身体が震えた。

「俺のコピーだろう?アレは。」

矢吹は視線を上げ、真正面から美里を見た。恥じらいに顔が熱くなった。否定できなかった。美里はまた矢吹との距離を一歩詰めて、壁の方へと追いつめる。逃げようと思う方に、彼の身体が入り込み、薄暗さのせいで余計に、天使か何かの彫刻のような白い顔に現実感がなく、甘い悪夢の中にいるようだった。甘く焦げた匂いと柑橘の匂いとが漂った。鼻先を彼のついた吐息がくすぐって、顔を舐められたかのように錯覚する。胸が押さえつけられたように苦しい。あの日、胸の上に手を置かれのしかかられた感触が蘇り、呻いた。

「お前は役作りの度に男と寝るのか?」
彼は無邪気にくすくすと笑った。
「な、馬鹿!何を言ってる、初めてだと、お前が…‥‥」

矢吹は自身の身体が苛立ちと羞恥でさらに熱くなり、舞台用に化粧をした顔にまで、赤みが出ているだろうことを悟った。涙が出そうだった。怖いのか、嫌いなのか、好きなのか、気持ち悪いのか、わからない。感情の束が絡まって、わけがわからなくなる。演じることは、感情が決められているから、楽だった。決められた感情の中に入っていって、なぞればいい。しかし今のこの混乱は一体何だ。矢吹は自分の一時に複数沸き起こる感情に翻弄されて、気が狂わんばかりであった。逃げ出したいのに、怖くて足が動かない。

目が潤み行き場所を失った視線が、美里の顔からずれて、背後の薄暗い壁辺りを彷徨って、脚が、なんとか床を擦って逃げ場所を探していた。言葉が出てこず、彼をふりきろうとするが、彼の手が、矢吹の腕を掴んで止めた。細腕のどこにそんな力があるのかという魔術じみた力で、矢吹も自分の体力に自信がなくはなかったのだが、精神力ですっかり圧倒され、抑え込まれ、気が付けば廊下の壁に背中をつけていた。

覆いかぶさるように美里が近づいて来て、彼の首筋が口が付けられそうなほど、直ぐ近くに見えた。頭の中を”あの日の記憶”が色濃くフラッシュバックし始めて、呼吸ができなくなってくる。「はなせよ、」と弱弱しく言ってみるが、まるで媚びるようであった。わずかに力が緩んだ。眩暈さえ感じて、朦朧とするその頭を掴まれ、厭と思うのに瞳をしっかり覗き込まれる。異常に形良い双眸の中でぎらぎらと、邪悪な光が灯っていた。

「俺が、聞きかじったところによれば、貴様は、俺と寝た後から、芝居が随分とよくなったらしいな。俺の精液がお前を”ヨク”したのかな?正直、良かったんだろ?ん?本当のことを言ってごらん。他に、誰もいないんだからな。ほら……。」

双眸が遅められ、静かに笑った。彼の薄い唇の隙間から舌が出て、猫が毛づくろいでもするように、下唇を厭らしく舐めていた。濡れた紅い唇が闇の中に浮いていた。

「……そんなこと、ない。あるはず、ないじゃないか。」

必死にそれだけ絞り出すように言った。彼はせせら笑って、矢吹の耳元でささやき始めた。息が頬と鼓膜とを擽った。時々美里は、さっきまでの悪魔のような調子とは打って変わって可愛らしく笑いながら次のように囁いた。

「ふふふ、お前は素の時は嘘をつくのが可哀そうなくらい下手糞だねぇ。俺にはわかるんだから。お前のすべてが。ああ、だから舞台の上でも演じるというより、誰かに成りきるしか、ないのかな。実に哀れな人間だね。俺はお前のことは大嫌いだが、哀れな人間を見るのはとても好きなんだ。嫌いな人間を虐めている内に、逆に芯から好きになるということもある。今のお前は、俺なんかに怯えていて、とても惨めで可哀そうだ。正直そそるんだよ。今、この俺が、お前に心かき乱されるものは一切ない、愛情も友愛も親愛も一切感じない、強いて言うなら苛立ちと侮蔑くらいかな。しかし、ある種の肉欲を感じるんだ……これっていけないことか?」

自然な素振りで美里の腕が、矢吹の身体に触れ、衣服の下に入り込んで撫でまわした。矢吹はそれを振り払うこともしなかった。美里が矢吹の頭を両手で持って額同士がつくほどに近づけても、矢吹は陶然としたまま、吸い込まれるように美里の方を見ることしかできなかった。最初は恐怖だけが、矢吹を廊下に縫い留めていたが、今やそれだけではなかった。美里は、矢吹を真正面から見ていた。見れば見る程作り物のように均整がとれていたが、矢吹は美里の瞳の邪悪の奥に、どこか哀しみの漂う潤いを見つけた。美里は軽く目を伏せ、自嘲気味に笑うのだった。

「そうだ。お前に一つ呪いをかけてやろう。今後お前は、自分の演ずる役に近い男と寝ることで良い役をできるようになるのだ。女ではだめだ。女と寝るのは所詮娯楽、仕事として男と寝て、慧眼を持つのだ。もしお前がそうすると俺に約束するなら、またきっと会いに来てやる。嬉しいか。」
「なにを、」

矢吹は美里の馬鹿げた戯言を振り払う言葉を考え口を開いたが、しかしそこから出てくる言葉はなく、美里の指が矢吹の震える下唇の上を優しく這い、軽くつまんだ。指が、矢吹の口元を弄び、それを愉しむように美里は笑って、また矢吹を見た。

「お前はな、表面上俺を邪険にしながらも、心の底ではまた俺に来て欲しいのだ。その証拠に、振り払おうと思えばできるに、さっきからずっと、ここに佇んだままじゃないか。それから、また俺と寝たいと思っているのだろう。あんな風にされたにもかかわらずな。いいぞ、恥じずとも、そのために俺はわざわざ、お前のために、来てやったのだから。」

美里は矢吹から手を離し、一歩二歩と後ずさった。半身が暗がりに溶けた。

「何も言わずにお前の身体を俺に貸すんだ。なあ矢吹、これは提案ではなく命令なんだよ。自らの感情に翻弄されず、俺に従うと良い。難しいか?じゃあ、敢えてこう言おう。許可もなく俺の容姿言動をコピーしておいて、何の対価も払わないなんて、そりゃあないぜ。まだ五体満足で元気に俺を演じていたいだろう?俺に身を差し出せ。それで許してやってもいい。」

美里はそれから、ホテルの名前を言った。そこで待っている、と。矢吹は呆然と立ち尽くしていた。

美里は、矢吹をそのまま薄暗い廊下を歩いていった。振り向いても、矢吹の姿はとっくに見えなくなり、階段を探して彷徨うのに、なかなか地上に出られないのだった。

来た道を戻っているつもりで、帰り道が見つからず、廊下はどんどん暗くなった。美里は自分の身体がどんどん重くなるのを感じ猫背ぎみになって歩き呟いた。

「ねぇ。神崎さん、霧野、これでも俺は普通になれるというの。」



矢吹と寝ている途中、携帯がずっとなっていたような気がした。
実際、着信が入って、メッセージも着ていた。金を置いて、眠っている矢吹を置いて、呼び出し元に向かった。

街一番の高級ホテル、ダイヤモンドホテルのロビーに、彼は待っていた。

「遅いなぁっ、もうっ。せっかくいい部屋とって待ってたのにぃ。」

間宮が、ロビーのソファから立ち上がって、感じのいい笑みで美里を見下ろした。彼はジャージ姿で全くホテルの内装からは浮いていた。

「なんだ、こんなとこ呼び出して。お前独り場違いじゃねぇか。お前のような素寒貧が来ていい場所じゃねぇだろ。おい。」
「なんだって、そりゃあ寝るためだろう。お前のような高級娼夫が、トイレでなんて厭だろう?しっかりおもてなししてさしあげないといけないと思いましてね!はは!気を使ったのさ。あははは!!霧野さんじゃあるまいし、あ、霧野さんは霧野さん自身が便所だからね。そう言う比喩だよ、わかるかな。」

間宮は何が面白いのか突然一人でキチガイのように涙を流して笑いはじめて、フロントマンやロビーに居た他の客人たちを気味悪がらせたが、美里一人いぶかし気に間宮を見上げて、眠たげに顔を擦った。

「……金は?金はどうしたんだよ。まさか折半なんて言うんじゃなかろうな。出さねぇぞ、俺は。」
一泊うん十万するホテルである。
「もちろん俺がもう払ってあるに決まってる!さ!行こうぜ。」

間宮はさっさと美里に背を向けてエレベーターの方へ向かう。エレベーターを待つ間中、間宮は隠しもせずにやにやと笑い続け、美里が気味悪そうに見ていると、さわやかな笑顔を浮かべて言った。というより、叫んだ。

「お前に従う男達は皆、お前と寝ているのか?!それでお前を崇め従うという仕組みか?!」
ロビーに彼の異常な声量が響き渡った。
「あ?」
急に何を叫び出したかと呆れた調子で間宮を見上げていた。
「……。」
エレベーターが来る。間宮は、どうぞ、とエレベーターのドアを抑えた。乗り込みエレベーターが上昇していく。
「お前は俺に喧嘩を売ってんのか?」
間宮は美里の方を見もせず、閉じたエレベーターのドアを見たまま、にやにやといやらしく笑うだけで答えもしない。美里はつづけた。

「俺が、好き好んで仕事仲間の、組の連中と寝るわけ無いだろう。向こうだって嫌だぜ、女の方が良いだろう。組の上下関係、信頼関係で従っているに決まっている。大体なんでいちいち俺が格下に恵んでやらなきゃいけない。」
「ふーん、ああ、そう。二条さんは俺に、与えてくれるけど、すべてを。」

くくく、と間宮は気持ちの悪い声を出した。

「はぁ?てめぇらの、くそきもちわりぃ関係はどーだっていいんだよっ!しね!見てるだけで胸焼けする!」
「ん、ん、ん、なんだァ?聞き違いか?てめぇらだと?今、てめぇ”ら”とか言ったか?おい゛!」

間宮は美里の方を勢いよく振り返り、憤怒の表情で見降ろしたかと思うと、ちょうどエレベーターが止まり、また、いつものにやけた顔に戻った。

「俺のことはまだしも、彼のことを悪く言うなんて、本当にお前って最悪だよな!絶対に許さない。ま、覚悟してろよ。」

彼は深紅の絨毯張りの廊下を大手を振って意気揚々ずんずんと進んでいく。美里はポケットに手を突っ込み、窓の外の夜景とガラスに写った自分自身の姿を見ながら、緩慢にだらだらと足を引きずるようにして、彼の後をついていった。

あの馬鹿げた巨根で乱暴に突くつもりだろうか。別にどうだっていい。一人で空しく腰を振って発情してろ屑が。大体普段まともに男根使ってセックスしてない半童貞じゃねぇか。飾りチンポ野郎がこの俺に対して調子こきやがって。クソ馬鹿霧野と同じ穴的存在のくせに。しかも霧野より一層悪い、可愛くもない気持ち悪いだけの存在。一層もう口留めに人を遣わして、ぶっ殺してやろうか。生きていたって、聡明だったらしい頭も半ば壊され、二条にこき使われる以外に、なんの幸せも見つけられない哀れな存在なのだから、その方が良いのでは。いやしかしおそらく、この貧乏コソ泥害虫野郎に一番こたえるのは、彼自身をどうこうするより二条をどうこうしたほうが余程効くだろう。このゴミ害虫のことなど関係なく二条には煮え湯を飲まされることも多い。一矢報いてやりたいのは確かだが、抜け目ない奴にどうやって食らわせてやればいいというのか。こういう時澤野の奴なんかに愚痴るのが良いのだが。

美里はまた漠然と澤野のことを考えている自分に気が付き、全く別のことを考えようとした。そうしている内に、一つのドアの前に着いた。彼が先を行き、美里を招いた。美里を先に行かせ、間宮が背後で扉を閉じた。

まずったな、と美里は妙に冷静なまま思ったが、最早何も、なすすべはなかった。立ちすくんだ身体を間宮が、部屋の奥に引っ張っていった。あがけばあがく程、こういう時は惨めになるものだ。堂々としていろ、美里は自分に強く言い聞かせながら、部屋の奥に居る、間宮以外の10か20か、とにかくその位の数の男のひしめく影を、視界に捉えないようにしながら、自分の意識を感情の下流の方に、見たくもない糞をトイレにでも流すように押し流していった。おかしいと思ったんだ、奴一人でこんなホテルに泊まれるはずがないのだ。それを、のうのうとついてきて。

間宮が美里の背中を押し部屋の中心に進みながら、男達に何か話しかけていたが、最早何を言っているのかよくわからない。そう、以前もこんなことがあった。売り込みである。陳腐で馬鹿げて、しょうもない売り文句。聞いていてげんなりするし、同じことばかり言うから、いつの間にか聞こえなくなったのだった。間宮はどこで覚えたのかまるでオークションの司会にでもなったかのような口上で、さっきまでの不穏な空気など無かったかのように、馴れ馴れしく美里の肩を抱いてを皆に紹介し始め、その隙間で「さ、脱いでもらおうか」と言ったのだけが、美里の耳にはっきり言葉として聞き取れるのであった。殺そう。さっき、神崎といた時、堅気のぬるい精神がうつったのか一瞬でも許してやろうかなと思ってしまった己を許せない。

ハッキリとした殺意を抱いたまま、ベッドの方に向かった。男の群れが、左右に割れて道を作るのだった。衣服に手をかけながら、ベッドの上に這いあがりながら、しっかりした三脚台と高価なカメラまで用意されているのが目についた。何かフラッシュバックするように頭の中で古い記憶が次々蘇って目の前で、カメラのフラッシュのような光が明滅し始めた。つい、叫び出しそうになり、手に震えが出始めたが、ここで怯え、泣きわめき、怒ったところで、間宮たちを一層面白がらせるだけなのだ。また皮膚の下で猛り始めた感情を、今度は矢吹の時のように出すのではなく、押し込め消した。初めてでは無いのだ、こんなことは、些細なこと。もう二度とやらないと思っていただけのこと。

今、今、一人でもナイフでぶっ殺して、男ども散らすという手もなくはないが、その言い訳を川名にどう言う。ここまでの秘密を持ったのは、彼と関係して初めてのことだ。もはや重荷であった。頭の中で一人一人殺しながら、服を脱いでいった。服を自らの手で脱がさせてくれるだけ良心的なのかもしれなかった。いや、これからそれどころではない行為がおそらく長時間続くから、最初は手ぬるく行こうというわけか。美里はベッドの上で、また呆然と病んだ瞳で周囲を見渡した。ぐるりと周囲を囲う男の影をとらえると彼らは脱いではいたが、顔が無かった。何か頭からかぶって居たり仮面をつけたりして、報復を防ぐためかしっかり身元を隠しているのである。

間宮はどこかと顔が隠れていようが一発でわかる特徴的なペニスを探したが、無い。視線を彷徨わせると、彼一人さっきと変わらず着衣のまま、ベッドからは離れた備え付けのバースペースに一人腰掛けて、何を考えているかわからない虫のような無表情でストローで何かチューチュー飲みながら、遠目からこちらを眺めているのだった。彼自身が参加する意思はないというのだ。目が合っても彼は無表情を変えることなく、こちらを舐めるように見ていた。彼はストローで何かを一気に飲み終えると立ち上がり、大きな身体を男達の間にすべりこませ、美里の前に仁王立ちして腕を組み、生まれたままの姿でベッドの中心に座り込む美里を不敵な笑みを浮かべて見降ろすのだった。

白い陶器の人形か真珠かが白いクッションの上に載せられているようで、その周囲をどす黒い剝き出しの欲望が包んでいた。辺り一面爛れた欲望で蒸れていた。美里は霧野が男達に取り囲まれているのを俯瞰していた日のことをふと思い出した。眺めながら、自分だけが、あの場で浮いている気がしていた。熱気だった男達の中で確かに自分も熱を感じはしたしあの霧野に報復している気持ちよさはあれども、皆と同じとは思えなかった。

「どうだ?どんな気分だ?古巣を思い出して懐かしいか?それとも、怖いか?あ~??」
「別に」

美里が淡々と言うと、間宮は作ったような笑い声を上げながら腕を広げ「別にですって!皆さん!!」と周囲を煽り立てた。それからすぐ横に居た男をけしかけベッドの上に上がらせた。見知らぬ男の手が、美里の背中を腹を撫ではじめ、全身に鳥肌が立つが、そのまま間宮を冷めた目で見続けた。

「皆さん。見てくださいよぉ、この顔。憎たらしくも可愛らしいでしょう。これで極道なんですからねぇ。」

周囲が一段とむさくるしく熱気だち始めた。いくらかの雄が大きく、美里の周囲で持ち上がり始め、異様な雰囲気が色濃くなってくる。はっ、はっ、と美里は自分の喉の辺りに、さっきまで犯していた矢吹の、緊張によって過呼吸になってもがいていた様子に似た感覚を覚えて、目を細め、眉を顰めかけ、頭を振った。駄目だ、飲まれては。

また、一人男が間宮にけしかけられてベッドの上に上がってきて、気が付けば二人の男に挟まれ無遠慮に身体をまさぐられ始め、ついにつやつやとした肉体の隅々の窪みにまで指や舌が這い始め、嫌悪感、吐き気を催したが、気丈を保ったまま間宮を見ていた。しかし、まだまだ二人。その十倍の数が控えているのだ。男たちの向こう側で、カメラが回っている。腫れものにでも触る様な、畏れるような手つきが、少しずつ慣れ、乱暴になる気配がある。

ベッドに全体重を預け、自分以外の重なり合う、重い体重を幾重にも受け止め、身体が沈んでいく。肉体と精神をどこか別の空間に受け渡し、身体の中をどす赤黒い欲望の河が、濁流のようになって肉体を、下から上へ、上から下へ、貫通していった。執拗に擦られた粘膜が、ぴりぴりと焼け始めた。

陶然として、意識をまた横流しする。横流ししようとするときに、意識の向こう側に何故か澤野の姿が現われた。どうしてお前が。でも、ここにお前が駆け付けたら、きっとどうするか想像できた。意識が一瞬だけ浮上して希望を持ってキラキラと輝いてくるが、現実の前に霧散し、また意識が流れた。それは都合のいい幻想であり、実際最早存在しない。存在してはいけなかった。彼にそのような幻想を抱く自分が嫌になるから、消すのだ。

それから、元はと言えば澤野、霧野のせいでこのようなことが実行されているというのに、追って気が付いて、そのことでは、不思議とすぐに霧野を憎むことができないのがまた、嫌であった。お前のせいだぞと憎むことができていない、霧野如きの為に自己犠牲を払って、まさか悦んでいたりしてはいけないのだ。華奢な肉体と精神とを、グロテスクな痛みや辱めが貫通するたびに、霧野のことを考えることで、意識を流すとは別に、霧野への憎しみを抱くよう意識を向け、それからこの世界と全てを呪いかけては、また意識を流した。

男の何人かが、美里に好意的な浮いた言葉を吐いた。意識の浮上した偶然のタイミングで耳に入ってしまうとその度地獄の底に叩き落されたような気分になる。汚い言葉を吐いてくれた方が遥かに良いのだった。汚らしい行為を身に受けながら、相手本意の好意を伝えられる、それは地獄だった。

時々、精神の湖の底の方を漂わせていた意識が浮上し、悪夢を見る。その悪夢とは自分が愉し気に男達としている姿が見えることだ。処理を自動的に実行する肉人形が、悦んでいる。俺の!そんな浅ましい姿を人前に晒さないでくれ!と肉の奥深くから絶望に叫んでみたところで、自分一人絶望が深まり、意識が余計にはっきりしてしまう。

「ああ、おはよ。大丈夫か?」

間宮がやはり、自分は参加せず来た時と同じ姿で手元でゲームなどしながら仄暗い笑みを讃えて、半死半生のようになった肉に、声を掛けてくる。言葉を伝えるために口を開くが、ソコが、そのために使うことを許されず塞がれ体液に溺れて息ができず、咳き込んだ。

「まだまだ時間はあるからな。久しぶりのことだろ?お前も愉しめばいいよ。我慢せずにな。似合いの姿だ。」
「……、……」

ベッドから飛び降り掴みかかりたいくらいの精神が、まだ残ってはいたが、四方八方から掴みかかられ無理であったし、こういうものを好む者の常、拘束は当たり前のように姿勢を変えてはされ、きつくされたり、ゆるめられたりして、霧野ほどではないにしろ不自然な痣が残った。気が狂いそうだが、気が狂って、あそこに座っているキチガイの様になってはならなかった。

「んふふ、なかなか稼がせてくれるな、お前は。お前が愉しんだ分、俺が貰うんだ。俺が汚らしいお前なんかを抱いてやるとでも思ったか?……。美里君、霧野さんが恋しいのか?ここに連れてきて混ぜてやりたいよな。次回は、そうするか?アハハ!」
「……、……。」

このキチガイは、異常時に意識を飛ばす手段を習得せず、二条の、相手の生死さえ一切考えない永遠繰り返し度重なるあまりに過激な折檻凌辱の中で、相手と自分に、あまりにも真摯に真面目に深く向き合いすぎ、それにみあわぬ脆弱な心が耐え切れず、壊れたのだ。元の高潔な精神と優しい心がこの男を自ら破滅に追い込んだに違いない。
俺自身、お前のようにならないし、なれない。霧野のことも、そうはさせない。
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