堕ちる犬

四ノ瀬 了

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犬っころだな。前からそんなだったか?お前。

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「んあー……だめだぜんっぜん、だめ……だめ…………」

間宮は頭を抱えながら吸い込まれてく最後の銀玉を見送っていた。拳を軽く台に打ち付けて、パチンコ屋を出た。臨時収入として三島と巻き上げた金も殆どを使ってしまった。天を仰ぐと快晴であった。

「あーあ…………」

ため息が出た。何故いつもこうなのだろうか。計画性が無いと自覚するが、どうやったらいいのかわからない。みなが器用に何も考えずできていそうなことが、全くできないのだった。それは、間宮の人生において今に始まったことではなかった。

クロスバイクに股がって、ヤケになって漕いでいく。急な坂道、坂道と、そして自分との勝負と思って一漕ぎ一漕ぎ力を入れる。息が切れたが、以前は登れなかった坂道も今なら登れた。山道だって今なら登れる。成長を感じた。しかし、自転車がこげるからといって、一体何になる?それで?山が登れたから一体なんだ?今からトライアスロンでもする気か?それにしては努力が足りなすぎる。できる限り努力したくない。大体今からトライアスロンに出たってどうなる。

ペダルをひとこぎでひとこぎしながら呟いていた。

「なんの、いみも、ねぇーよぉー……」

風が吹いて頬を撫でる。低い街並みの向こう側に連なる黒い山々が見える。間宮の足は自然と山の方へ向いていた。街から外れるほど車通りが減ってきて、黒い山が影のように大きく迫ってきた。

山道に入ればカーブを描いた坂道が延々と続いて時折トラックに追い越される。砂糖の山を登る蟻のような気分になって漕ぎ続けた。さすがに息が切れて喉の奥から血の味がしたが、目的の場所まで1度も降りずに、たどり着いた。

公共の道を逸れて、組の持ち物である山林の中、舗装されていない道を行く。蚊に食われる。森の香りがする。一頭の獣の様になって走る。森の開けた場所に掘っ建て小屋、ユンボや大型トラックなどの重機が4台とまっていたが、人の気配はない。

地面に大きな穴が四角く掘られていた。すっぽりと車1台は入るような大きさだ。間宮は自転車からおり、穴を見下ろしていた。本来なら閉じられていたっておかしくない穴だった。この穴に補填すべき人物、いや、肉、霧野のことを考えた。

粛清する場合の通常のフロー通り、拉致直後に霧野をここに落していたら一体どのような反応をするのか気になって想像してみた。意外と激しく脅えるのではないだろうか、ああ見えて弱いところもあることが今になるとわかる。おもらしでもしてくれればもっと愉快だが、もしここに入れることがあったら原型を留めていないだろうから、見れないだろうなと寂しくも思った。

穴の暗さに吸い込まれるように瞳の奥が暗く沈んでいく。何も無い闇の奥を見ていると心拍数が上がってくる。底には誰もいないのに、誰かから見返されているようだ。なんでお前だけ生きている?

「誰なんだ?」
 
返事は無い。土の臭い。間宮はしばらく穴の縁に佇んでいた。どのくらいたったか穴の中の暗さと外の暗さが同化し始めた。足元の土を、いくらか、ざっざ、と穴の中に蹴り落し、穴に背を向けた。

行きの半分の時間で街まで戻ってきてしまった。寄り道する場所もない。彼に呼ばれないのであれば、寝るだけだ。二条のことを考えると明るい気持ちになると共に胸が詰まった。近道として繁華街を抜ける。連れ立って騒ぐ人間たち。馬鹿ばっか。

路地の角を曲がった時、一瞬視界に派手な色が踊ったかと思うと、バランスが崩れて、大きな音と共に地面に身体が投げ出されていた。
「いってぇー……」
誰かに転ばされたのだ。咄嗟に靴底の仕込みナイフに手を伸ばしかけ、やめた。こんなに人通りの多いところではダメだ。素早く身を起こそうとすると、力を入れずとも体が浮き上がった。身体に、複数の腕、1人2人ではなく、5、6人の太い腕が絡みついて、路地裏の細道に引きずり込まれた。路地の奥にもさらに、とびきり厳ついのが4人控えていたが、暗くて目が慣れていない状態ではよく見えないし、全員何か被り物をしていた。

彼らは何も言わず、黙って機械のように間宮を複数で押さえ込む担当と、殴打する担当と別れて嬲り始めた。広い場所で二三人ならまだしも、狭い路地で不意に多勢に囲まれるとやり方が限られる。

最初こそ、軽くいなそうとしたが、これはもう数で勝てるわけがない、抵抗したところで余計な怪我を負う、しかし、殺す気もなさそう、だったら暴れたりこちらから相手に怪我をさせたりしても仕方ないか……と途中から頭を守るようにして、うずくまって、嵐が過ぎるのを待った。

人を殺すことも厭わなそうな野蛮な男共を集めてこれる人間は少ない。
「……」
間宮は痛みに耐えながら、闇の中で目を動かしていた。

美里のおかげでこんな目にあっているのだろうが、証拠があるわけでもなく、本人に言ったところで知らぬ存ぜぬで通されあしらわれるだろう。

軽い抵抗の中で誰かの手の甲を強く引っ掻き、誰かのシャツのボタンをひとつ引きちぎって手に持っていた。運が良ければ「事務所」の中で見つけられるかもしれない。

「……、……。」

終わった。地面に伸びていた。手で顔を覆うと、べっとりと血が着いた。霞んだ視界の隅で最後の一人が立ちさろうとしていた。

「アイツに言われてきたんだろ?」
声がザラザラして掠れていた。
「……。」
影が走って逃げていく。
「答えらんないよね……いいよいいよ、お疲れ様……」
ヒラヒラと手を振った。

しばらく地面に横たわっていた。周囲にゴミが散乱してゴミと同化する。体に虫が履い回っているような気分だ。辺りが真っ暗になって闇と同化していき、自分の息遣いしか聞こえない。はぁはぁ。笑っているようだ。身体を点検するが折れてなどはいない。無駄に丈夫になった身体。ああ、もっと殴ってくれたって良かったのに。

血とヨダレを拭いながら、路地から野良犬のように這い出た。白いクロスバイクは汚れて道の隅で倒れたままになってはいたが、盗まれもせず間宮を待っていた。傍らにクロスバイクを押しながら道をゆくと、人混みが自然と割れた。

『 なんだ~?お前ママチャリなんか乗ってしかも型がダサいから、そんなの乗って俺の横走るなよな。』

「そんなこと言ったって、数が多すぎて自分じゃ選べない。1番コスパが良かったんだよコレが。」

幻聴とわかって独り言を返していた。だいたい今はもうママチャリなど乗ってない。忘れた昔の記憶の断片を再生しているのだろう。もしかしたら、今歩いている場所でそんな会話をしたのかもしれないし、ヒトとしての正気を保つために生まれた、まったくの妄想の産物なのかもしれなかった。

『直感でカッコイイの選べばいいじゃん。ま、無理かお前には。 仕方ないな、俺がいいのを選んでやるから、ソレにしろ。この前稼いだ分があるだろ。』

ハンドルを握る手に汗が滲んできた。そういえばどうしてこのクロスバイクを選んだのだろう。どこで買ったのだったか。常に自分の選択に自信が無い。代わりに誰か全部決めてくれないと。喉が詰まる。
「ああ、あぁ……、………」
確かなものが欲しい。涙が出てくる。

「人の頭骨は意外と簡単に潰せるもんだよ。」

二条が鉄板の入ったブーツの底を地面に拭って、赤黒い線がついた。

間宮は月明かりの中で、コツコツとアスファルトに靴底を擦り付けるようにしながら歩いた。そうしないと、自分が無くなりそうだった。地面を踏みしめる度に、幻覚では無い現実の彼の確かな存在を感じた。リズミカルに歩いているうちに涙は止まっていい気分になってきた。彼のことを考えるだけで満たされるのだから簡単だ。

コンビニに立ち寄った。間宮が入ってきてから、客がそそくさと買い物を済ませて出ていき、白井がぎょっとした顔で間宮の方を見続けていた。白井はレジを抜けようとするが、接客で叶わず、彼が来るのを待っていた。間宮は絆創膏とコンドーム、牛乳1パックを手にレジの白井の前に現れた。顔から滴った血がぽたぽた床に垂れて、ブーツの底でごまかすように擦って消した。

「絆創膏でどうにかなる傷じゃないでしょ。」
「……家に帰れば何かしらある。」
「病院」
「いいからさっさとレジ通してくれ。早く帰って寝たい。やけに眠いんだ……。」
「こんな時に」
白井の手にコンドームがある。
「ゴムくらい好きに買わせてくれ。」
「この前とサイズ違うけどあってる?変えよか?」
間宮の口の端が軽く歪んだ。
「いいんだよ……」

自分で使うわけじゃないし。

間宮は値踏みするように白井を見下ろしていた。最後に女の寝たのはいつだったかよく思い出せないが、入らなくて止めた記憶は腐るほどあるが、女の顔がひとつも思い出せない。

「もうすぐあがるから、ちょっと待ってなよ。」
白井がビニール袋を手渡しながら言った。
「あ?どうしてお前を待つ必要がある。」
「軽く手当してやる。ウチ、すぐ近くだから。」

白井は心配そうというよりは、いたずらっぽい笑みを浮かべるのだった。必要ないと言いたかったが、人の好意を無下にするのもどうかと思われたし、遅れて頭が激しくクラクラきていた。しかし死んでも絶対に病院は行きたくない。絶対絶対。

「あ、やば、これ……」

ふっつりと視界が暗くなった。再び目を開けた時、知らない部屋の黒いソファで寝ていた。簡素な部屋で、ほとんど物がなく、家具はソファを除きほとんどアルミ製。家と言うより事務所か。

「……、……。」

身体を起こして手当が既になされていることがわかる。包帯が巻かれ、ずるり、と、タオルに巻かれた保冷剤が落っこちた。遠くで電話が鳴っていた。
リリーン……リリーン……リリーン……


 
頭を洗い、顔を洗い、歯を磨いている。霧野は、ぼんやりと磨かれた洗面台の白い部分を見据えていた。着衣もして一見爽やかな朝の支度という感じだが背広の下は散々なものである。
「…………。」
シャコシャコと歯ブラシを動かしているうちに胃の中の物がせり上がってくる。
「お゛ぇぇ…」
咄嗟に身をかがめて足元のゴミ箱の中に吐いた。器官が気持ち悪い。肉の管。
「……、……。」
散々吐いた。白い。溶けたコンドームの破片なんか混ざってないだけまだマシかと思えた。笑えてきた。そういえば今日は他に何も食べてない。
「朝食を吐いてしまったな。」
1人で言って一人で笑ってみたが虚しくなった。

口をゆすいでまた顔を洗って歯を磨く。あまりやっていると、また怒られる気がしたが、いつまでやっても穢い気がして気になって、血が出る。しかし、やりすぎたらやり過ぎたで口の中の神経が昂ってきて、いけなかった。
「はぁ……、はぁ……、」
歯磨きをやめて、鏡の中の己と向き合った。確かに自分なのだが、自分では無い似た誰かのようだ。鏡の前で己の痴態を見せつけられることは多々あったが、そうではなく、自然な姿で鏡に自分を写してみたのは久しぶりな気がする。 

「うーん……殺してやりてぇー……」と呟いて苦笑いしていた。

二条が診療所の外で待っている。霧野は衣服の上から自身の身体に触れた。手首の戒めが外されただけと言って良かった。

乳首と亀頭とが小さな錘のせいで重力で下に引っ張られ続けて紅くなっていたし、落書きは己が性処理に特化した存在であることを主張し続け、消えてない。重いフックは、深深と臀の間に食い込まされたまま、手首に伸びていたぶんの縄が腰縄として利用され、キツく固定されただけだった。気持ち悪さに軽く腰を揺らすと脊髄に電撃が走り、下半身の細胞がピリピリする感覚がクる。が、それだけで、そこからは一切動かず冷たい鉄が中で存在感を持ちながら沈黙する。

「……、……」

体をくゆらせた後の鏡の中の顔を見て、霧野は急いで再度顔を洗った。そして、二度、三度と自分の頬を叩いた。今度は外からの刺激で赤くなる。これはいい。一つ一つ意識し始めると、沼にハマって戻ってこられない。

「あぁ……」

深いため息が出た。もう一度鏡を見た。
「犯されたいんだろ?」
鏡の中に、薄ら笑いを浮かべた冷淡な澤野の姿があった。
「なに……」 
霧野が動揺すると彼は人の弱みに漬け込むような厭な笑い方をした。
「それもとびきり乱暴に。あんなふうに焦らしてよ、まったく人が悪いよなぁ!」
彼は笑いながら人を馬鹿にするように続けた。
「頼んでみたら?きっとお前の切ない願いを叶えてくれるぞ。あの人は俺のことを気に入ってるから。俺がそうなるように頑張ったんだから。そうだよ、俺は充分頑張ったんだよ。」
「失せろよ……っ」
嫌な幻覚だ。顔を伏せた。
「もうやめたら?諦めて幸せに暮らしたら?」
「しあわせにくらす?」 
再び顔を上げるとそこには自分自身の焦燥した顔が映っているだけだった。タオルで顔と頭とをガシガシと拭いた。

診療所の外に、紫煙の濃い香りが漂っている。霧野は診療所の玄関先から香りの元を見た。彼は車に背をもたれさせて、何も無い昼間でも薄ぐらい路地の奥の暗がりの方を、眺めているのだった。

鷲鼻でくっきりとした横顔、物思いにふけっているのか伏し目がちにしていた目が、霧野の気配に気がついて、こちらを捉えた。そうすると、笑う。笑うが、いつ見てもその中は暗い瞳だった。愉しそうに笑っていても底が見えない。

「水も滴るいい男だな。具合はどうだ?」 
笑うと裂けるように大きく開く口が、また彼の本質的な暗さを隠す。
「具合ですか。」
ここまで歩いてくるのにも必死で横になりたい。1歩足を前に踏み出すだけで、歩くことそれ自体が刺激になるように縄が編まれているからだ。二条もそのことはわかっている。わかっていて聞いている。身体の健康の話では無いのに、身体の健康の話の文脈で話す。
「だいぶマシですね。」
「そりゃあ良かったな。」
彼の口角が微妙につりあがる。車のドアが開いた。

車は公道に出て行く。1呼吸毎に、身体が、まるで血がそっくりそのまま入れ替えられたように疼く。彼が何も話さないのが不安になり遠くに黒い山が迫るのが急に不安になる。死。車内は死んだように沈黙している。

普段、つまり、澤野なら、二条から何も無いならば、なにか気の利いた話題でも出すから、車内が重い沈黙に包まれることはほとんどない。車内は音楽もラジオもなく、静かであった。やはり彼の香りがしたが、少しだけ前にはなかった芳香剤のような匂いがする。何の匂いだろう、と沈黙と不安とを誤魔化すように息を吸って、状況確認していた。横の彼は運転しながらくくくと笑って横目で霧野を見た。

「犬っころだな。前からそんなだったか?お前。」
「……」
吸っていた息を止めた。身体が熱くなる。
「臭いが違うのが気になるのかな。ワンコ君。」
「……、ええ、まぁ、」
「なんのことは無い。お前が後ろで暴れ回って汁をところ構わず飛ばしまくって臭くなったのを下の衆が気を使って掃除していった名残だ。」

車が路肩に寄せられて止まった。

「また、煙草を買ってきてくれよ。今度はちゃんとできるかな?」

霧野は、車内での記憶を思い出して伏せていた顔を上げて当たりを見回した。昔からあるであろう古びたタバコ屋の小さな赤看板が遥か向こうに見えた。少なくとも200メートルは先で、もっと近くに車を停められるはずだった。それなのに。

「行けよ。」

財布を投げ渡された。分厚く黒くずっしりと重い革財布。二条の方は見ずに当てつけるように勢いよく車を降りた。しかし勢いよく降りたせいで、降りる拍子に、ガクンと体が大きく揺れた。「あっ!」と声を上げて、車道の上で蹲ってしまう。身体が言うことを聞かない。

「んん……!、ん………くふぅ……」
「おいおい、一体何をやってんだ~~~?」
背後から煽るような声が迫ってくる。
「まさか煙草1つ買いに行けねぇのか~?」
膝に手を着いて、勢いよくいっきに立ち上がった。
「う゛ぎ……っ」
太ももの筋が弦を弾いたようにふるふると震えていた。後ろ手に乱暴にドアをしめ、大手を振ってズカズカと歩道の方へ出た。このまま逃げてやったっていいんだぞ。

はぁはぁと1人、穏やかな日常世界の中で犬のように息を荒らげていた。ランチタイムなのかサラリーマンも多い。一見すると具合が悪そうにも、怒っているようにも見える霧野が道を歩くと、人が避けるように隅の方により、いくらかの女性が心配げに彼の方を見るのだが、声をかけるのは躊躇って、すれ違っては様子を伺っていた。

「ふ…っ、………ふ……ん」

遠い。遠すぎて視界がぼんやりする。一足ごとに中を突かれている。二条の車が少し後ろをノロノロとつけてきていた。窓を全開にして「遅ぇなぁ~」と煽る。
「くそ……っ」
ついには霧野のすぐ横を黒塗りの高級車が併走する始末になり、そうなるともう皆怖くて霧野を大きくさけ、しかし、興味深げに遠くから見るという霧野にとって最悪な事態になった。視線が増えると霧野の身体はもっと疼くようにできているのだった。

自分一人だけ衣服の下に変態さながらの格好をして、服を着ているのに、見ず知らずの人間たちに見透かされ、見られているような、バレてしまいそうで。恥ずかしくて死んでしまいたい。助けて!なんて言えるわけがなく。1足ごと頭さえ悪くなる気がするし、さっきまでの口での奉仕の記憶がまざまざと蘇りかけ、ぶんぶんと頭を振った。

体を、身体を慣らすのだ。慣れてしまえ。もともとこういう身体、気にするから悪い。また1歩踏み出すと、グゥと身体を深掘りされて犯され、錘が下へ右へ左へとちろちろと性感帯を紅くはらさせて、刺激する。
「ぉ……」
こんな道の真ん中で勃起なんかした日には最悪だ。霧野は頭の中をピンクに染めたりかき消したりを繰り返しながら一歩一歩、ゴールに向かって歩を進めた。快楽の苦行だった。ゴルゴダの丘か。終わりが見えているだけマシだ。

つつつ、と太ももをぬるい汁がつたっていた。ようやくタバコ屋の前に来た。

「や、やったぞ……」

嬉しくなった。こんなことでも、何かをやり遂げるというのはどんなことでも嬉しいもの。中で中年男性が1人ラジオを聴きながらぼーっとしていたが、霧野が来ると「いらっしゃい」と言って眠たげに彼を見た。
霧野は嬉々揚々と目当ての銘柄を言いながら財布を開いて愕然とした。 

「カードは……」
「ん?」
「カードは……、使え、ます、か」
「ああ、悪いね兄ちゃんウチは古くて道楽でやってるみたいなもんだからね、現金だけなんだ。」

頭の中が真っ白になる。霧野は背後を確かめるように振り向いた。歩道の向こうに二条の車が止まっていて、素知らぬ顔をして霧野の方を眺めていた。

「ちょっと、待っててくれ……」

身体から力が抜けたのを、窘めるように縄がギシギシくい込んでズボズボと鉄棒が体を突いた。
「ぁあ……っ!、くそ……」
なんとか車の方へ戻り、二条の横に立ち尽くして見下げた。わかってるくせに、わかっててやってるくせに。
「どうした?」
二条が車の中から伺うように霧野を見上げた。

「現金じゃないと、ダメだそうですよ、入ってないです。」
「ああ!そうかそうか!そいつは悪かったな。」

彼はポケットの中をじゃらじゃらと探った。普段そんなところに小銭を入れる人では無いのだが。差し出された手のひらに乗っているコインの数々を見て霧野はそれがなにか察し、また自分の体が溶けそうになる。

「さっきお前の周りにばらまかれてたのが役に立つな。ほら、これで買ってくるといい。」

二条は霧野の手首を引っ張るようにして引き寄せ、じゃじゃらと手の中に落とした。霧野はそれをじっと見ていた。

「………。足りないです。」
「ん?」
「あと10円足りない。」
「そうかそうか、そりゃあ残念。」

二条はそれだけ言って手をひっこめた。霧野は、どうすれば、とは言わず、彼が何を求めているか考えようとするが頭の中が、ほわほわして、イライラして、糸が絡まったかのように、まともな思考が湧いてこないで、気がつくと、息を荒らげながら、縋るように二条を見下げていた。二条は眉をしかめそんな霧野を眩しそうに眺めた。

「なんだ?足りないなら、さっきと同じようにして、稼いできたらいいじゃねぇかよ。お前には朝飯前だな。」
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