堕ちる犬

四ノ瀬 了

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お前らのような屑は、動物と同じだからな。

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目を覚ますたび、簡素な病院食と水の補充、尿瓶の入れ替えがなされていた。眠っている場合ではないと思うのだが、瞼が重くて眠気に負けてしまう。

食事に何かを混ぜられていることも考えたが、今のところ眠いこと以外に身体に異常を感じない。味気ない器の中身は一瞬で無くなる。
人並みの食事とはいえ、感動したのは最初の二回程度で、病院食に相応しく満腹に至らない量であり、味気ない。
体力を取り戻すにつれ、霧野の食欲は増し、足りないと飢えた。もっとたくさん、もっと美味しい物を、高価なものを食べたい。様々な食べ物が頭の中に浮かんで消える。

口の中に懐かしい肉の味が溢れた。外で食べさせられたあの餌皿の中に、紛れ込ませるように、霧野の特に好んで食べていた料理の断片が入っていた。誰かがわざわざよりわけだのだ。なんといやらしいことをするのだろう。

本当なら、自分もあそこでいつものように遠慮もせずに…と想像しては、いや、何を考えているのだと頭を振った。

川名達の元で豪奢な食事を口にすると時に、霧野は、彼を置いて器用に物事をこなし出世コースに乗っていった同期に対して、お前達には一生喰えまいと思い幼稚な優越感にひたることがあった。

川名達は欲望に忠実だった。欲望を満たすための我慢はすることはあるが、必ずその欲望が成就することを確信しての我慢だ。彼らは霧野の警官時代に抑圧されていた欲望を認めた上に時に褒めさえした。霧野が本来の職務を忘れかけ澤野になりきってしまうのは、そういう時であった。

彼の腹心の部下になりきるためのはずの行為が、時に本心からの行為に成り代わる。もともと人並み以上の能力があるにも関わらず、つい行き過ぎた暴力的嗜好が抑えきれずに左遷まがいな扱いを受けた霧野を、神崎が引き取り、次に川名が引き取った形となる。

神崎の元であれば、いくらか心を入れ替えてみようと努力でき、これからも頑張っていこうというところで、ある意味裏切られたのだった。「上の命令」には逆らえないといい突き離し、ようやく新しい職場に慣れたところで、のこのこと目の前に現れ、苛立ちを感じないわけがなかった。まるで未練たらたらの女だ。それでも、なつかしさ、心の拠り所のひとつ、帰る場所があるという安心感を覚えてしまい、危険とわかっていても、会うことをやめられなかった。

眠りと覚醒を繰り返して、何度か足の錠を解こうと苦心したが無駄だった。ベットと脚を繋ぐチェーンの長さは30センチほどあり、余裕がある。ベッドを引きずって何とかできないかとまで考えた。

ベッドから床に手をついており、繋がれた右脚だけベッドに乗せた状態で精いっぱいふんばってみる。ベッドがほんの少しだけ音を立てて動いたような気がしたが、現実的でない。また、その姿勢はまるで犬が片脚上げて、排泄をしている姿を彷彿とさせ、良い気分の物でもなかった。あまり騒音を立ててもすぐにばれる。やはり一人では限界がある。

ベッドの中に戻って思考を巡らせるのにも、飽き、若干の退屈まで感じ始めたころだった。その時、霧野の身体に異変が起き始めた。異変と言っても一般的な予兆であった。
「……、……。」
元気を取り戻し始めたせいか、ムラムラとした性欲が湧き始めたのだった。危機的な状況だというのに、やはり、姫宮が何かを混ぜたのだろうかと考えながら、霧野は再び獣のように体を丸めてベッドにもぐりこみ、性欲を忘れて眠ろうとした。

じんじんと疼いた。無駄な体力を使っている場合ではない、まして思考を放棄して自慰行為などもってのほか、とわかっているのに、収まらない。頭の中で神崎や木崎のことを思い出すことで性欲を紛らわそうとするが、木崎の豊満な乳を真っ先に思い出してしまい、罪悪感にまみれた。何も考えられない。

少しだけ。気を紛らわすためならば。そもそも自慰行為自体は健全な生理現象。ストレス化解消の一種。と、下半身に腕を伸ばす。既に熱く、硬く勃起する兆しがある。
「ん……」
人の監視も無く、布団にくるまれて気持ちがよくリラックスした状態が、霧野を過激なストレスからの解消のための自慰行為に導いた。霧野は瞼を閉じ、脳内からオカズを引っ張り出そうと思考を巡らせた。
「ぅ……」
性的な刺激と結びつく直近の不快な出来事を掻き消すように、女の身体のことを無理やり考えた。今まで身に起こったことすべて、自分のことも、仕事のことも、頭から押しのけて、ただ一点、抜くこと、それだけについて集中した。

考えに考える。布団の中が蒸すように熱くなり、霧野の首筋に汗がつたう。全身に薄っすらと汗がにじんで傷に染み始める。それでも肉棒を扱く手を止めず、薄く開いた口からは小さな呻きが漏れ始めた。

「はぁ……はぁ……」

しごく手が、たまに穿たれたピアスに引っかかっり、観ないようにしていた自身の改造されつつある身体を思い出す。今自分の体がどうなっているか、見たくない。

忘れるために、作業のように抜くに徹する、それこそ、女を人と思わないくらいの過激な物が必要だ。

瞼の下で、好んで見ていた映像を再生させるが、うまくいかない。霧野の眉が性的な気持ちよさとは別に苦悶によせられ、瞼がぎゅうときつく閉じられた。脳内での再生を物語るように瞼の下でぐるぐると目が動く。

素人レイプ物、コスプレ警官物、拘束凌辱物、二孔凌辱物、輪姦物、痴漢物……とにかく思い出す。

気に入って繰り返し見ていた映像を頭の中で再生し扱いた。

特に酷いものの方がよく抜けた。途中まではいい具合に見ていられるが、鬼畜な責め苦が佳境を迎えると、ふと気が付けば、男から厳しい責め苦を受ける女の方に自分を重ねてしまい、ハアハア言っている自分に気が付き、再生するのを止める。

それを繰り返す。絶望の吐息が漏れる。それでも一度扱き始めたので、手がとめられない。

「なぜ……っ」

どくどくと手の中で肉棒が主張し、勃起が続く。そのような状態なため、もどかしく、どれだけ頑張っても射精に導くことができない。苦しい。気持ちがいいのに苦しい。
「あ゛ぁ……ぁぁ…」
命以外の、様々なものを奪われたが、ついに、男としての機能まで奪われたのだろうか。しかし、あれだけ……。霧野はここに来るまでに行われた数々のこと、大量にさせられたはずの射精を思い出した。

無意識に空いている方の手を胸の突起の浮いた部分にもっていき、衣服の上から擦っていた。

「ぁっ」

痺れる快感と理性的な不快感が同時に訪れて亀頭の先から透明な汁がじわじと漏れ出てシーツを濡らした。まだ、射精には至らない。

「くぅ……」

頭の中で女が胸を背後からもみしたがれ、複数の肉棒に囲まれて、苦悶を浮かべ凌辱されていた。以前気に入って部分的に再生していたはずの暴力的な二輪挿しのカットに不純な音声が紛れ込んでいる。知っている人間の声が紛れ込んでいるのだ。どっちがどっちのペニスか当ててみろなどというシーンは元々の映像にはないのだった。

思い浮かべたいはずの女体ではなく様々な形状のペニスがリアルに思い浮かぶ。

肉棒は極限まで勃起しているのに、相変わらず手の中でもどかしい。長距離走の佳境を迎えるかのような息遣いがベッドの中から外にまで漏れ出て、布団は小刻みに震えて、まるで病魔に襲われた獣がいるかのように、ベッドがきしんでいた。

おかしくなった自身の身体を否定するように、ムキになってつぶれるほどの強い握力で一物を握り上下に激しくしごきたてる。意のままにならない雄を、霧野は自身の手で必死に慰める。

自慰行為をやめる、という選択肢は霧野の中に浮かばず、最早気分転換どころではなくなっているというのに、とにかく自分を追い込みドツボにハマっていった。

一向に出ていかず、真っ赤に膨らんだ亀頭の鈴口が、くぱ、くぱ、と求めるように、薄っすらと透明な汁を伴って開いたり閉じたりした。

なんでもいいから、とにかく白い汁をぶちまけたいのに、出ていくのは透明なさらさらとした露ばかり。霧野の親指が無意識に言うことをきかない尿動口をくにくに弄った。以前、自慰行為する時ならまずしないような、誰かが霧野の身体に施したやりかただった。

また、頭の中で映像を再生する。気が付けば、口の中に寂しさを感じ、異常な量の唾液があふれ出ていた。そこに、性器と揶揄されたその口に、左手の指を突っ込み、舌で絡めとるように舐め、噛んでいた。一瞬どこか恍惚とした瞳をしていた霧野だが、唾液の濡れた感じが頬について我に返った。

「あああ゛ぁ……っ!!くそっ!」

布団を乱暴に蹴り上げ、身体を起こし、自身の顔を数度軽く叩いた。全身が汗にまみれ、喉が渇いていた。ペットボトルの方に手をやるとそこに、前はなかった紙袋が置かれているのが目についた。

「……。」

霧野はしばらくそれを不審に思って睨むようにして見据えていたが、気がまぎれるかもしれないと思い、手に取って中を確認した。自身への苛立ちとイケない苛立ちがつのっていた中、中を見た瞬間、一瞬で頭に血が上った。

「馬鹿にしやがって!!」

霧野は壁に向かってそれ勢いよく投げつけた。中から、ここに運ばれるまで身体に挿れられていたであろう例のブツとローションがこぼれ出た。タイミングとして最悪であった。まるで霧野が自ら行為に及ぶのを見越して用意されているかのように思えたのだった。

「誰が!…………、」

霧野が紙袋を覗き込んだ時には気が付かなかったものが、壁にぶつかった勢いで転がり出ていった。コロコロと黒く光沢のあるペンが転がった。それは、霧野以外の人間が見れば何の変哲の無いただの筆記用具であった。しかしそれは、霧野にとっては別の意味のある代物で、川名が二条の車で縛られていた霧野の陰部に与えたご褒美であった。

『可愛い雌犬声出せるじゃないか。お前に特別に俺の私物をやろう。犬は罰だけでは学習しないらしいから飴をやるんだ。悦べ。インクがちょうどさっき切れたゴミだが、お前にとっては宝物だな。おウチに持って帰っていいからそこに挿れて好きに使って遊ぶといい。玩具がなくて退屈だったろ。』
「……、……!!」

川名に責められた記憶がリアルに蘇り、射精できずもどかし気にしている肉棒の反対側で、さっきまで軽く疼くにとどまっており、霧野がなんとか無視を決め込んでいたはずの肉の釦が、じりじりと猛烈に身体を焦がし始め、胸の奥の方がどくどくと早く脈打ち、痛み始めた。

あの男の犬である自分が貰ったご褒美、自分だけの物。その感じが、何故か、頭から離れない。ディルドは壁のすぐ近くに落ち到底届かない位置にあるが、ペンは軽さからコロコロと、霧野がベッドから手を伸ばせばなんとか届くか届かないかという位置まで転がってきた。

しばらくの間、霧野は何故かそれから目を離せずにいた。何とか視線を逸らし、もう一度見ては、逸らし、再び布団をかぶった。気分を紛らわすように、また、再開し、しごいても、しごいても、頭の中は記憶でいっぱいになってしまい、当然イクことは許されない。身体を震わせながら、うんうんとむなしく呻いた。触ってほしい、と主張するように陰部神経がピリピリと静電気のように、肉門から直腸、奥に向かって小刻みに震え始めていた。

「くそ……ふざけんなよ……っ」

意識しないようにすればするほどに、意識される。

「……、」

そうして、ついに、空いている手を尻の方に持っていく。少しだけ、射精のため。表面のふわふわとした感触と湿りを指で感じ、触れただけで、別の生き物のように、指全体に吸い付き、熱くねっとりとしていた。男達に散々にいじられることはあっても、命令もされたわけでもなく、自らの意志で自らの門に触れたのは初めてであり、その感触に霧野はまた一つ小さく呻いた。かつて自身が排便してケツを拭いていた時とは、最早全く違うものがそこに存在し、身体に巣食っていた。

指で軽く表面を擦っただけというのに、自らの肉棒を一ストロークするのと同じか、それ以上の怪しい快楽が下半身から腹の中、臓物にかけて広がっていく。熱い。右手の肉棒への直接的な刺激がおろそかになっているのにも気が付かず、霧野の節ばった左手の指が肉釦を押し、揉み、拡げ、爪先で引っ掻くという行為に集中していった。時折、身体のビクつくのにあわせて、チェーンが音を立て、その度、ハッとする。

肉穴は指による緩慢な刺激に早々とやわらかく溶け、始めから大して固くも無かった口をさらに、解けさせた。指先で、ぷつ、と、軽く押すだけで一気に中まで入っていきそうに熟れ、待ち構えるように指先を吸った。一方のさっきまで散々しごき倒された肉棒は、対して触ってもいないのに強く硬く脈打つ感覚を取り戻し、先端を歓喜の雫で濡らし始める。同時に上気した霧野の顔の中で、口から小さく喘ぎが付いて出かけ、ふんふんと鼻を鳴らしながら、歯を食いしばる。

「……ぁ‥‥ぁぐ」

これ以上はいけない、いけない、と思いつつ触る手が止められない。何も考えられなくなる。しかし秘所の、その中まで自らの意志で、自らの指でいじくる度胸もなく、熱く熟れた肉の表面をいったりきたりした。

ペンを突っ込まれた記憶と川名の前で例のごとくねちねちと罵られながら、やはり彼の私物を使って尻の孔で自慰をして見せた記憶、彼の視線、手付きが克明によみがえり、霧野の身体の部分、性器から打擲を受けた場所までを熱く痛ませ、同時に疼かせた。憎い、と思うのに、殺したいほど憎いと思う程に、強く彼のことを考えてしまう。

「殺してやる……殺して……」

好きに使って遊ぶといい。

「う゛ぅぅ……」

腕がベッドから出て、指先が床に落ちた筆記用具を探りよせる。



「久々に馬鹿勝ちしちまったな。」

自動精算機から出てくる札束が、ぶ厚すぎることにより、排出口からドナルドダックの口のようにパッカリと開いて顔を覗かせた。神崎は大して嬉しそうな顔さえ見せず、むしるように札束を引き出し、手の中で札を弄んでから財布にその束を差し込んだ。パンパンに膨らんだ財布がジャケットさえ膨らませていた。

一方の美里も勝ったには勝ったが、3万円が4万円になった程度。一人で来たならそれなりに嬉しかったかもしれないが、比較にならない。

「もう1回……」
「勝手に買え。俺はもう降りる。馬が走っているのを見ているだけで愉しいしな。」
「くそ……」

結局、次のレースで神崎はお遊びで1000円だけ賭け、それを3800円にした。美里は4万円を突っ込んで3万円のリターンとなり、プラマイゼロである。

美里が馬券を握り丸めて捨てるのを、神崎がポケットに手を突っ込んでぼーっと見ていた。美里には彼の変わらぬ表情が、半ば馬鹿にしているように見えて気に食わない。

「そう怒るなよ。また来ればいいじゃないか。1回目はそんなもんさ。」
「なにかコツみてぇなもんがあるんだろ、教えろよ。」
「コツ?無いな、俺はこういう時異常に運がいいんだ。普段運が悪い分、こういう時リターンされるんだろう。」

実際、神崎が賭けた馬は2戦とも勝ち馬ではなく、所謂穴馬であった。会場がどよめく中一人だけ欠伸をかみ殺すような顔をして勝利した馬を眺めていた。

「嘘をつくんじゃねぇ。運だけで50万も勝たれてたまるか。」
「嘘ぉ?大して付き合いの長くないお前が、俺が嘘ついてるかどうかわかるっていうのかぁ?大したもんだなぁ。」

ようやく表情を崩したかと思えば馬鹿にしたような苦笑い。この飄々とした感じ、どこか澤野を彷彿とさせるところがある。最も澤野の場合はもっと棘があって、もっといやらしいが。

美里がなにか言い返す前に、見越したように彼は早足で移動し始める。美里が慣れない女物の靴で着いていくと、突然後ろを振り向いた神崎が美里の腕を取った。

「ばっ、馬鹿!気安く俺に触るんじゃねぇ!気持ちわりいんだよっ!!」
腕を振りほどこうとするが、そのまま連行されていく。
「歩き方が不自然だ。全然ダメだそれじゃ。ちょっとは使えるかと思ったが、まだ使い物にならない。女装姿を自慢するならもっと練習してから来い。俺がエスコートしてやればまだマシだ。」

こいつ……!!と美里は神崎にますます苛立ちながらも、普段、人に触られると反射的に訪れる気持ちの悪い寒気が自然となくなってきていた。神崎に連れられるがまま、厩舎の方へと向かった。新調した女物の靴がどろどろになるが、それが気にならないくらい馬たちは美しかった。大きく筋の引き締まった光沢のある毛並みをした馬が10数頭並んで繋がれ鼻を鳴らしていた。

馬を飼っている金持ちや畜産業を営む客との交流はあったが、馬をじっくり見させてもらったことは無い。ちら、と見たことはあったが、ここで見る馬のように惹きつけられるものはなく興味も無かった。

一度、裏切り行為を働いた客の所有する愛馬の首を数人の舎弟に切り落とさせ、客の家の玄関前に投げ、臓物をポストに詰め入れたことはあるが、夜間にやったことでそもそも馬をひとつの生物として見てもいなかった。川名は、さぞ奇麗な飾りつけだっただろうと美里を誉めたし、川名にとってはそれも美しいことの一つなのだろうと思った。

「俺の友達に馬主がいるんだ。ちょっと触らせてもらおう。」

神崎の友達らしいこれまたいい年の恰幅のいい男は「なんだい、また違う女を連れてきて。」とにやにやしながら言った。一瞬似鳥を彷彿とさせたが、彼のような邪悪さは全く感じられなかったし、泥まみれの作業着がよく似合っていた。

「お前も目の保養になるんだからいいだろ。ほら。」

有無を言わさぬ調子で神崎は美里の手首を引っ張って馬の首筋に当てさせた。太陽と馬自身の熱で温かく艶々とした皮膚の下で熱い血潮が滾って生きているのを感じた。気持ちがいい。筋ばった黒い首筋をいくら撫でても馬は嫌がらず美里の愛撫を受け続ける。飼っていた犬のこと、それから、霧野が何をしているのか気になり始めた。まだ、呑気に眠っているだろうか。いや、うなされているか?後悔しているか?

馬の首に腕を回すようにして、ぎゅうと抱き着いてみた。求めもされないし、拒絶もされない。それが心地よい。大きな黒い目がじっと美里を見降ろしている。久しぶりに癒された感じがした。

「今日はおとなしいな。お嬢ちゃん気に入られたらしい。」
「……」

いつまでも馬を抱っこしていたかったが、神崎の厭な嘲笑的な視線を感じて、馬から離れた。さっきから彼の意図が分からない。遊びに来たわけじゃないと言ったのはどっちだった?と神崎を睨みつけた。

「お前も楽しそうな顔できるじゃないか。さっきまでの方が爽やかでいいぞ。"外の世界"も意外と楽しいということだよ。さ、そろそろ行こうか、お嬢ちゃん。好きなものを奢ってやるからそれで解散だ。あ、でも、5000円以内で頼むよ。君らは金遣いが荒いからな。」

さっき馬鹿勝ちしたくせに、と口先まででかかってやめた。川名だったら50万くらいポンと使って見せる。
結局美里の希望や意志とは関係なく、目立たない方が良いという理由にかこつけて、人でごった返した小汚い居酒屋に連れていかれた。組の管轄からは遠く離れた場所であり、他の組の息がかかっていることも考えられたが、今の服装であればまず因縁をつけられることはないだろう。

「みすぼらしい、貧乏人じゃん。普段からこんな店に女連れ込んでんのか?終わってるよ。」
美里は頬杖をついて、辺りを見回した。
「貧乏人で結構。意外と美味いし評判いいんだよ、ここ。お前は女にモテそうな顔してる癖に何も知らないんだな。」

神崎が勝手に注文し勝手に次々と酒と料理が運ばれてくる。すべてが奴のペースだ。しかし、何を失ったわけでもない。口にすれば、確かに悪くはない、悪くは無いが……。

勧められるままに飲み、彼の口車にのせられるように、特に最近は話さないような、どうでもよいことを話していた。神崎はいくらでも美里に付き合うように顔色一つ変えずに、飲んだ。一瞬自分が霧野になったような不思議な気分になった。きっと彼もこのように神崎に懐柔されていたのだと思うと、笑えた。なるほど、あの霧野が唯一ヘルプを求めた男、慕う男だけあって面白い人間だとは思う。

美里は、どん、と腕をテーブルの上にのせ、神崎の方へぐっと身を寄せた。

彼は、近くでみれば武骨でくっきりと彫が深く、悪くない顔つきだ。その中で、粗雑さと反対に理知的でどこか気難し気な瞳が美里を静かに見つめていた。まくられた袖から出た腕もしなやかに筋が浮いて締まり、若い頃には鍛える習慣があったであろう痕跡が見て取れる。武骨な、毛の手入れもろくにされていない手の中で、刑事らしくメモをとる習慣のせいか、指先が黒ずんで、水仕事のせいかアカギレも見えた。川名の自ら手を汚したことの無いような、よく手入れされた手とは正反対だ。

「神崎さん、アンタは澤野を可愛がっていたらしいが、一体奴のどこがいいの?あんな性根曲がった人間そうそういないと思うんだけど。あんな奴、一回死んだほうがいいよ。そう思わないか?」

神崎はじっと、静かに美里を見ていた。そして、「そうかもしれない。確かに一回死んだほうがいいな。奴は。いつまでも俺に、迷惑ばかりかけやがる」と言って微笑んだ。店の照明のせいなのか、どこか歪さがあった。

「だが、性根曲がってるほど可愛いというものもある。出来が悪い子ほどなんとやら。まあ、アイツの前で出来が悪いなどと言おうものならあからさまに嫌な顔をするだろうが。そうやって発破をかけてやるとまたよく動く。しかしたまにやりすぎるから、その都度俺がお尻を拭いてやらないといけなくなる。そうやっている内に余計に愛着がわくというものだ。しかし、俺が、愛着をかけすぎても自立できないと放ってみたら、どこかに消えてしまった。だから探しているというわけだ。」
「……」
神崎の視線が不自然に空を彷徨い、美里は直観的に何か嫌な感じを覚えた。ちょっとトイレへと口を挟む間もなく、彼はつづけた。
「君の話によれば、生きてはいるし、忙しいだけという。更には進んで君に抱かれたとも。繰り返し頭の中で再生させたよ、君に見せられたあの映像を、朝も昼も夜も、頭から離れなくなるほど、繰り返し、それから写真も持ち歩きよく分析した……俺はね、実はあの後、ホテルに行ったんだ。待て、何も言うな、それからそこを動くなよ。」

テーブルの下で、美里の腹部に拳銃がつきつけられていた。

「和姦なんかじゃないだろ、本当は、お前らは集団でアイツをどうにかしたんだ。口にするのもおぞましい。」

美里は視線を拳銃から神崎の方にゆっくりと上目遣いに視線を向けて観察した。冷徹な瞳はしているが、顔にうっすらと汗をかいている。まだ、人間らしさを感じると思うと恐ろしさは無くなっていった。彼の人間らしい部分をまた一つ見れたような気がして、微笑みかけた。
さらに、銃が強く腹部につきつけられた。

神崎が繰り返し、美里と霧野のあの行為を思い返しているという事実に、気持ち悪さを感じたが、それ以上に美里をいい気分にさせた。目の前の男より自分の方が霧野のことをよく知っていると思った。彼がどこを触ればどう反応し、彼のどこが気持ちよいのか、目の前の男は知らない。想像だけで、わかるものではない。付き合いが長いくせに何も知らない。何にも知らないのはどっちだ。何にも知らない癖に追い回して、可哀そうな人だ。
神崎と同じく美里も酔いがいい具合に回り、行動を大胆にさせていく。

「だったら何。」

拳銃の先端がぐいと美里の肉をえぐった。

「次に勝手に口を開いたら撃つ。嘘と思うか?言っただろ、俺はもう別に警官なんていつでも辞めたっていいんだ、今やキャリアにも固執していない。ここでお前を撃つとする、一時的に双方隔離されるだろうが、お前を撃つ理由などいくらでもでっち上げられるし、医療刑務所に入ったお前にならいつでも会いにいけるし、死んだら死んだで運が悪かったということだ。」
「……」
「いい子だな。そのまま黙ってろよ。どうせ、お前の主が、川名の奴が、命令してやったことなんだろう。奴の悪趣味さは昔から変わらないな。問題は何故そうなったのかということだ。何故だ?口を開いていいから言ってみろ。」
「そりゃあ、奴がヘマをしたからだぜ。」
「どんな?」
「薬の取引を失敗させたのさ。それで大損こいたわけ、5億円分だ。5億円分は働いてもらわないと。」
美里はふふふと笑った。半分嘘で半分本当であった。彼は警察官として手を回し取引を遠回しに失敗させていた。
「へぇ、どうやって失敗させた?そんなヘマ、アイツがするかな?どちらかと言えばお前の方がしそうだが。」
「知らねぇよ。そういうことになってんだよ。」
神崎は手元にあったフォークを空いている手でいじり始めた。
「大体5億なんてお前らにはショボい金だろうが。下手な嘘をつくんじゃないぞ。もう一度チャンスをやるから正直に答えてみろ。」
「……んだよ、さっきから、えらそうに、ちょっとは俺の立場も考え、」

美里の太ももに強烈な痛みが走り、思わず身を屈めて呻いた。周囲の喧騒に掻き消され、誰からも注目されないが、太ももに深々とフォークが突き立っていた。神崎がその先端を指で軽く、ピン、と弾く。中で肉が抉れた。

「あ゛っ!!!??く……!!!!」
「お前の立場?知らんよそんなことは。俺が知りたいのは奴のことだけだ。ただ、まあ、お前の立場がどうこうなることは心配しなくてもいい。お前のことを警察やもちろん川名などにチクったりはしない。俺とお前だけだ。俺達の間で話したことは俺達の中ですべて完結させる。お前だって本当は奴のことが心配なんだろうからな。話していてよく分かったよ。」
「……、……」

痛みで頭がぼーっとし、周囲の喧騒が遠くなる。じわじわと紺の布地に血がにじんでいく。血の雫が一滴、細い線を作って、月経のように美里の脚をつたって床に落ちていった。神崎の指が再びフォークを摘まむ。その仕草はどこか優雅にも見えたが、今度は弾くではなく、回転させるように、捻り始めた。

「まあ、川名の命令とはいえ、お前が奴にしたことに関しては簡単には許せないが。俺は奴をあんな目に遭わせるために送り出したんじゃないからな。」

肉が抉れる。美里は大きく叫び声をあげそうになるのを必死でこらえた。意地だった。神崎のいう「あんな目」など生ぬるい。本当はどんな目に遭っているのか伝えたら卒倒するんじゃなかろうか。さらに、フォークが肉に抉りこみ、こらえた。強張った身体ががくがくと震えてじっとりと汗をかき始めた。ウィッグが蒸れ、顔が痒くなってくる。声をこらえながら周囲を見渡すが、誰もこの異常事態に気が付いていない。互いの身体が密着するほど近く、周囲から惨状が見えない。ただ酔いが回り気分が悪くなった女を、男が身体を寄せて介抱しているように見える。

「こっちを見ろ。」

美里は滲む視界で神崎の方をじっと睨んだ。今度は彼が川名に重なって見える。神崎の手が一瞬美里の胸倉にのびかけたが、行き先を変え、後頭部を掴み、ぐっと引き寄せた。

「お前らのような屑は、動物と同じだからな。最初にこうしてやらないと言うことを聞かなくて困る。いつまでも調子に乗り腐って。……。本当のことを言ったらどうだ。お前、川名が澤野を嬲り殺すのを黙って見ている気か?」
「……。」

お前「ら」の「ら」には澤野、もとい霧野は含まれるのだろうかと、美里は痛みの中、ぼんやりと思った。
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