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一段と悦んで、吠えているな。これから、もっと悦ばせてやるからな。
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「獣のお前に、自由になる手脚が必要か?」
腕も、脚も、
熱い、熱い。四肢が熱い。痛い。
「これで、お前は、」
畳の上を這っていた。這うことしか出来ない。
なぜなら、四肢の、関節から下が無いからだった。何も身につけていない、いや、首輪一つ着せられた身体が、畳の異様な冷たさを皮膚で感じていた。自身の体温が高いせいで相対的に皮膚に接着する部分が冷たい。
揶揄するような人の声と獣の声とが追いかけてくる。自由にならない身体でなんとか縁側まで這い出た。縁側の向こうに芝生が広がって、空っぽの檻が置かれている。外へ出ようというのに、縁側から下を覗き込んで、地面とのあまりの段差に怯んだ。二足であれば簡単に降りられる段差が、あまりにも高い。
首が絞まり、視界が歪む、首輪を引かれるがままに、ずるずると仄暗い家の中に引きずり込まれていく。 無い足が空を彷徨った。太い四本の腕が押さえつけるようにして、身体を引きずり回し、打擲した。リードを引っ張られ、持ち上げられ、身体が半ば浮きかける。浮いた身体の鳩尾に重い拳が入った。
「…!…!…!!!!」
口を開き、声を上げても言葉になっていない。なぜなら、舌の筋が切られているからだった。口を開き、涎を垂らし、人でない声を喉奥から出しながら、必死に身体を動かしていると、周囲が湧きたった。
まるで四足動物のように軽々身体を抱えられ、元々いたらしい位置に戻された。どさりと荷物のように身体が地面に降ろされ、自分一人だけ低い視座で当たりを見回した。
汚れたペットシーツとひっくり返った餌皿、包帯と救急箱が目に付いた。
右脚のあった場所の傷口が開いたのか、痛み、出血していた。誰かの細腕が脚を優しく抱え込んで、撫で、救急箱を開く。
彼の腕の中でもがいたが、簡単に取り押さえられ、打擲されるどころか頭を撫でられた。彼が何か言っているが理解できない。彼の腕の中でじっとしていると、恐怖心が少しずつ薄れ、汗が引き始める。その汗を彼が丁寧にぬぐっていく。
身体を仰向けにひっくり返され、背後から抱えられて白い布で濡れた身体を丁寧に拭かれていく。
「!、!!……、」
くすぐったく妙な感じが沸き立ち、じたじたと欠損した肉体をくゆらせたが、手は変わらぬ調子で体拭い続け、赤子にするように、陰部まで綺麗に擦り上げた。
「誕生日おめでとう!誕生日おめでとう!」
どこからとも無く複数の声が霧野を取り囲んだ。
誕生日?そんなはずは。
いつの間にか、抱かれていたはずの腕が消えて、黒い大きな獣が霧野の背中に這い上り、爪をたてていた。もがけばもがくほどに爪が肉に食い込み、のしかかられる重みが増えていく。肺が潰されて息ができない。
「……!!!!、…!!!!!!!」
「一段と悦んで、吠えているな。これから、もっと悦ばせてやるからな。」
叫び、飛び起きた。ガシャン!とひときわ大きな音がして、足首に何かがつっかえる感覚があった。脚がある。霧野は全身を抱くようにして触り、手足の指を動かした。全てある。 夢だ。
「はぁ……はぁ……」
なんとも厭な夢だ。最悪な夢だ。脚に何かはめられて、ベッドに繋がれているようだが、他は自由で、全身汗に濡れていた。霧野は顔を覆い、体を曲げ、しばらく身体の震えが収まるのを待った。
夢しては余りにもリアルだった。それは、実現することが有り得る未来だからだ。奴らはやる。今なら、はっきりわかる。やろうと思ったら本当にやる。
病院独特の匂いがする。ここが病院であるということが、今の夢を見させたのだろうか。
霧野は夢で見た景色を忘れよう忘れようとしたが、そう思うほどに夢の記憶は強く霧野の頭に張り付いて離れなくなった。
黒いTシャツにハーフパンツを履かされていた。よく見れば、霧野が自室で使っていた簡素な家着のひとつだった。微かだが家の香りが鼻をくすぐる。
霧野はTシャツを伸ばして、しばらくそこに顔を埋めていた。懐かしい匂いは自然と心を落ち着かせるものだ。もう何年も帰っていないような気さえする。
ここは家で、全て夢ではと思いたかった。では、この脚に嵌められた錠と身体の奥底から痛み熱いこの感じはなんだというのか。息をするたびにする鉄の香りは?性感帯を常に刺激する戒めは?
体をゆっくりと起こす。さらさらとした白い布団を掛けられ簡素なベッドの上に寝かされていた。
痛みと共に身体に加えられた陵辱の数々が脳裏に浮かび上がる。全身がぞわぞわと鳥肌立ち、思わず身体に爪を立てた。 ガリ、と皮膚が削れ、出血する。
「くそ……なんで……」
この場にいるのは自分1人というのに、男達の残していった刻印が疼いた。自身の醜態を思い出しては、ひとり身悶える。
霧野の苛立ちの1番の標的は自分自身であったが、次に自分を貶めた者たち一人一人の顔を思い出す。それから警察連中のしけた顔、顔の分からない男達、と、全てに怒りを覚え始めていた。
「なんで俺だけが……」
霧野はそうしてしばらくの間、出口のない思考をめぐらせていた。だんだんと無駄なことがわかってくると、昨日のこと、切れ切れの意識の中で姫宮と二条の手で診察台に寝かされ、水を飲まされ、吐き、苦しい一夜を過ごしたことをぼんやりと思い出していった。
姫宮と二条が何か会話をして笑っていたが、ざらざらとしてよく聞き取れず、半ば眠りながら身体を横たえていた。
「何、直腸からアルコールをとらせた?無茶なことを。」
姫宮は言葉とは裏腹に、くくく、と笑って自分も酒を飲んでいた。
「後から丸ごと腸の中でも洗っておいてやるかな。」
彼はふらふらと立ち上がり、まともに動けない霧野の頭を撫で回し、撫でていた手が徐々に下の方へと伸びていく。
「お前の身体を診てやるのは久しぶりだな。半年くらい前に頭縫ってやった時以来か?検体としても素晴らしい身体だ、うちに保管しておきたいくらい。なるほど、まだ指も全部あるじゃないか。爪がはがされているのが残念だ。」
そこで記憶が途切れる。カラカラと真っ白い天井に取り付けられた扇風機が回っている。改めて部屋を見回した。部屋には他にもうひとつベッドがあったが誰もいない。天井の付近に風と陽光をとりいれるための小さな窓が開いている。
傍らの棚の上に、青く、透き通るような色をしたアネモネが一輪生けられていた。
アネモネは扇風機の風で時たまその花弁を軽く揺らし、花弁から零れたのか、花瓶の周囲は雫に濡れていた。
ドアの方から物音がし、白衣を着た姫宮が顔を見せた。
「随分楽しい夢を見ていたらしい。二つ向こうの部屋まで声が聞こえたぞ。」
彼は皮肉るようにそう言って、霧野のすぐ横に立った。
「どんな夢だった?実に興味深い。精神分析をしてやろうか?しかしここには他の病人もいるんだ。静かに願いたいね。それとも、君は、四六時中何かしゃぶらせてないと駄目なのか。」
姫宮は意味深に舌で下唇をなぞるような仕草をした。霧野はむっとした調子を隠しもせず姫宮を上目遣いに見た。
「開口一番下品なこと抜かすなよ、姫宮先生……」
思った以上に声がしっかりと出ることに驚いた。霧野は自分の喉元を軽く撫でた。悪夢にうなされはしたが、久々のまともなベッドでの睡眠で多少なり休息がとれているらしかった。
そのままの調子で続けようと思った。そうして無理にでも続けていれば、壊れかけた何かが元に戻るような気がした。
「アンタもアイツらと同じなんですか。幻滅だよ。」
姫宮は意に介した様子も無く、面白い物を見るようにして微笑んだ。
「何のことかな?それに、下品?一体どこが。君が何を想像しているのか全然わからないな……。下品なのはどっちだろうね。」
姫宮は霧野のベッドの横に置かれた椅子に腰かけた。霧野はベッドの上で身体を動かし軽く姫宮と距離をとった。
「人様の身体にべたべた触っておいて、何を」
昨日、彼に触られた感触だけは体が覚えていた。
「触って何が悪いんだ?俺は医者だからな。ここにいる限り、俺には俺の患者を自由に扱う権利があるんだよ。」
「ああ、そうすか……」
「なんだ?さっきから随分不機嫌だな。せっかく助けてやったのに感謝の言葉一つ無しとは。今すぐ退院したいようだな。すぐに人を迎えに来させてやるから待ってろよ。奴ら、すっ飛んでくるだろうな。お前のことが大好きなようだから。」
姫宮が立ち上がりポケットから携帯を取り出した。
「まっ、待てよ、」
霧野が焦りを見せると姫宮は満足そうな表情を浮かべ、携帯を手の中で弄びながらしまう。そして、再び、椅子に腰かけ霧野の手を取った。
「そうだろう。もう少しだけ俺のところで身体を休めるといい。ここにいる間はくれぐれも俺の機嫌は損ねないようにすることだ。」
「……」
姫宮の手を無碍に振り払うこともできずに、彼から視線を逸らした。
「君はね、丸2日近くもぐっすり寝てたんだぜ。相当疲れていたみたいだな。何をしていた、いや、何をさせられていたのかね。君みたいなのが二日も寝込むとはな。点滴も打っておいてやったから少しはスッキリしたかな。生かせということだったからな。」
まる2日、道理でぼんやりしていた頭が多少はまともに回転するわけだな、と霧野は思った。そして、叩き起されず寝させられていたことに僅かだが、希望を覚えた。とはいえ、単に彼らが忙しく構っている暇がないということも考えられる。事実、地下にいた時も時間の感覚が失われ、随分長いこと誰も訪れない時間というものもあり、時にその無為な時間の方がこたえたのだ。
「何をさせられていたか、答えてくれないの?」
姫宮は玩具のように力の入っていない霧野の腕をぶんぶんと振り、意地悪気な笑みをして霧野の顔を覗き込んだ。その瞳は一見揶揄っているように見えるが、霧野の顔色や様子を観察しているようにも見えた。
「俺の身体を見たのなら、想像つくんじゃないですか。」
「ん、君の口からも詳細を聞きたいんだよ。……まぁ、いいや、まだ時間はあるし。ちょっと待ってな。」
姫宮は霧野の腕を離して、部屋を出ていき、水の入ったペットボトル、給湯器、尿瓶を抱えて戻ってきた。
「アルコールは大方抜けただろうが、まだ乾くだろう。飲むといい。悪いものは全部出しちまえ。悪いけど、尿はここに出すんだな。君を無為に逃がすと俺にも多少責任が発生して面倒くさい。」
ペットボトルと尿瓶がベッドのすぐ横に置かれた。
「……わかりました。ありがとうございます。」
「随分あっさり受け入れる。そうか、あの部屋にはトイレ自体無かったな。」
姫宮はまた喉の奥で面白そうに笑った。
霧野は布団の下で脚をぎゅうと引いた。足首をひねってみるが痛み擦れるだけで壊れる感じはない。とはいえ、足枷1つ、何より外の世界に最も近い。姫宮の元であれば、連中が集団でなにかしてくることもないはずだ、何か少しでも……。
◆
つばの広い帽子をかぶったロングスカートの女が1人、待ち合わせの場所に立っていた。風が吹き、彼女の黒のスカートとウェーブのかかった黒髪、金色のイヤリングを揺らす。
神崎は当たりを見回してから、待ち合わせ場所である競馬場前のモニュメントと前に立ち煙草に火を付けた。そのまま、これみよがしに競馬新聞をくすんだライダースジャケットのポケットに突っ込む。
何やら気配を感じて横を見た。さっきの女がすぐそばに立っており、ぎょっとした。
「何を呑気に煙草吸ってんだよ、じじぃ。」
女が、神崎の腕に手を通し、無理やり引っ張るようにして歩き出した。見た目に反する強引さ、そして力の強さに驚いた。
「お前、」
神崎が女を見ると彼女は指で軽く帽子をあげ、顔をよく見せ、元に戻した。明るい色をした口元に歪な笑みが浮かんでいた。
「なかなか似合うだろ。」
競馬場は賑わい、神崎と美里の姿を人目から隠した。美里は初めて買うらしい馬券を興味深げに見て手の中で赤ペンをクルクルと器用に回していた。神崎も競馬に詳しいわけでは無かったが、基本的なルールや馬の見方のコツなどを伝えた。
美里の飲み込みは早く、さっそく馬券を複数枚も買い込んでいた。普段やらない遊びをしているせいなのか、いつものシケた表情より、年齢相応の若干と生き生きとした感じの表情をしていた。一瞬だけ立場を忘れて、ただ彼と競馬を楽しみに来たと錯覚する。
霧野がいつか、美里の方が人に取り込む能力は高いのではないかと言っていたことを思い出した。
やはり彼の今の姿は、珍しく無邪気な表情も伴って普段の彼とは似つかず、声さえ出さなければ、少し骨ばってはいるが、すらりとした人目を引く女性であった。彼は椅子に腰かけ、足を伸ばして大きく伸びをした。
均整のとれた横顔の中で、猫のような瞳が馬券から会場、レース場へと向き、電光掲示板を眺め、血色よく整えられた唇を赤い舌がなぞる。口が寂しくなったのか堂々と煙草を吸いはじめたが、その仕草も普段よりどこか優雅に見える。その様子がまたサマになり、逆に、周囲の男たちの目を引いてしまう。
誰かに見られても事だから軽く変装でもして、姿を誤魔化した方が良いと言ったのは神崎の方だった。美里が「探偵ごっこか?くだらねぇ遊びに付き合ってる暇はないんだよ、ふざけてんのか。」と終始馬鹿にした調子で神崎にくってかかったため、大して期待をしていなかったのだが。この変わりよう。
美里の様変わりに呆気に取られていた神崎だが、美里が競馬新聞を見ながら、いつも通りの地声で競馬についてのアレコレを問うてくるのを聞いているうちに次第に頭が元の方向へ戻っていった。
「ん?三連単だったらやっぱり、こっちじゃ、」
「競馬なんてどうでもいいんだ、お前何しに来たんだ。」
「何しに?おっさんのつまらねぇ戯言にわざわざ付き合いに来てやったんじゃねぇか。」
美里はさっきまでの無邪気な様子から一転してつまらなそうに競馬新聞を握り潰して小首を傾げた。
「で?わざわざ危ない真似してまで俺に会って何を聞こうと言うの。澤野の近況?それともまたひとつ奴の過去のことでも教えてくれるのかな?」
「あれからアイツは、俺の事をなにか言ってたか。」
「別に何も。」
美里が素っ気なく言うと、神崎は視線を美里から逸らしてレース場の方に目をやった。
「俺はつくづくアイツらが嫌になった。辞めて調査会社でも自分やった方が余程かと思うくらいだ。もしそうなったら、澤野や、ついでにお前も雇ってやったっていいんだ。お前達があんな場所で腐っていくのを見てられん。」
「………は?、あは、つまんな。急に何を言い出すかと思えば。俺を雇う?何を馬鹿な。何が楽しくってアンタなんかに雇われなきゃならねぇんだよ。……。俺は望んであそこに居るんだ、嫌だったらお前なんかに言われずとも、とっくにやめてる。」
神崎は美里を探るようにじっと見た。
「お前達はまだ若いし、真っ当な道へ、」
「次はお説教か。聞いてらんねぇよ。真っ当な道ってなんだ?そんなもの存在しないよ。アンタのように逃げる気はないし、澤野だって同じだ。一度始めたことだ、簡単に終わらせられない、降りられない。大体なぜ急にサツを辞めるなんて言うんだ。しかも俺なんかに。慰めて欲しいのか?」
「……。澤野に伝えて欲しいからだよ。警察連中、俺達は俺達でお前達と同じに十分腐っているということをな。だが、だとしても、」
神崎は何か言いよどみ、同時に第1レースが始まるファンファーレが鳴り響いた。
腕も、脚も、
熱い、熱い。四肢が熱い。痛い。
「これで、お前は、」
畳の上を這っていた。這うことしか出来ない。
なぜなら、四肢の、関節から下が無いからだった。何も身につけていない、いや、首輪一つ着せられた身体が、畳の異様な冷たさを皮膚で感じていた。自身の体温が高いせいで相対的に皮膚に接着する部分が冷たい。
揶揄するような人の声と獣の声とが追いかけてくる。自由にならない身体でなんとか縁側まで這い出た。縁側の向こうに芝生が広がって、空っぽの檻が置かれている。外へ出ようというのに、縁側から下を覗き込んで、地面とのあまりの段差に怯んだ。二足であれば簡単に降りられる段差が、あまりにも高い。
首が絞まり、視界が歪む、首輪を引かれるがままに、ずるずると仄暗い家の中に引きずり込まれていく。 無い足が空を彷徨った。太い四本の腕が押さえつけるようにして、身体を引きずり回し、打擲した。リードを引っ張られ、持ち上げられ、身体が半ば浮きかける。浮いた身体の鳩尾に重い拳が入った。
「…!…!…!!!!」
口を開き、声を上げても言葉になっていない。なぜなら、舌の筋が切られているからだった。口を開き、涎を垂らし、人でない声を喉奥から出しながら、必死に身体を動かしていると、周囲が湧きたった。
まるで四足動物のように軽々身体を抱えられ、元々いたらしい位置に戻された。どさりと荷物のように身体が地面に降ろされ、自分一人だけ低い視座で当たりを見回した。
汚れたペットシーツとひっくり返った餌皿、包帯と救急箱が目に付いた。
右脚のあった場所の傷口が開いたのか、痛み、出血していた。誰かの細腕が脚を優しく抱え込んで、撫で、救急箱を開く。
彼の腕の中でもがいたが、簡単に取り押さえられ、打擲されるどころか頭を撫でられた。彼が何か言っているが理解できない。彼の腕の中でじっとしていると、恐怖心が少しずつ薄れ、汗が引き始める。その汗を彼が丁寧にぬぐっていく。
身体を仰向けにひっくり返され、背後から抱えられて白い布で濡れた身体を丁寧に拭かれていく。
「!、!!……、」
くすぐったく妙な感じが沸き立ち、じたじたと欠損した肉体をくゆらせたが、手は変わらぬ調子で体拭い続け、赤子にするように、陰部まで綺麗に擦り上げた。
「誕生日おめでとう!誕生日おめでとう!」
どこからとも無く複数の声が霧野を取り囲んだ。
誕生日?そんなはずは。
いつの間にか、抱かれていたはずの腕が消えて、黒い大きな獣が霧野の背中に這い上り、爪をたてていた。もがけばもがくほどに爪が肉に食い込み、のしかかられる重みが増えていく。肺が潰されて息ができない。
「……!!!!、…!!!!!!!」
「一段と悦んで、吠えているな。これから、もっと悦ばせてやるからな。」
叫び、飛び起きた。ガシャン!とひときわ大きな音がして、足首に何かがつっかえる感覚があった。脚がある。霧野は全身を抱くようにして触り、手足の指を動かした。全てある。 夢だ。
「はぁ……はぁ……」
なんとも厭な夢だ。最悪な夢だ。脚に何かはめられて、ベッドに繋がれているようだが、他は自由で、全身汗に濡れていた。霧野は顔を覆い、体を曲げ、しばらく身体の震えが収まるのを待った。
夢しては余りにもリアルだった。それは、実現することが有り得る未来だからだ。奴らはやる。今なら、はっきりわかる。やろうと思ったら本当にやる。
病院独特の匂いがする。ここが病院であるということが、今の夢を見させたのだろうか。
霧野は夢で見た景色を忘れよう忘れようとしたが、そう思うほどに夢の記憶は強く霧野の頭に張り付いて離れなくなった。
黒いTシャツにハーフパンツを履かされていた。よく見れば、霧野が自室で使っていた簡素な家着のひとつだった。微かだが家の香りが鼻をくすぐる。
霧野はTシャツを伸ばして、しばらくそこに顔を埋めていた。懐かしい匂いは自然と心を落ち着かせるものだ。もう何年も帰っていないような気さえする。
ここは家で、全て夢ではと思いたかった。では、この脚に嵌められた錠と身体の奥底から痛み熱いこの感じはなんだというのか。息をするたびにする鉄の香りは?性感帯を常に刺激する戒めは?
体をゆっくりと起こす。さらさらとした白い布団を掛けられ簡素なベッドの上に寝かされていた。
痛みと共に身体に加えられた陵辱の数々が脳裏に浮かび上がる。全身がぞわぞわと鳥肌立ち、思わず身体に爪を立てた。 ガリ、と皮膚が削れ、出血する。
「くそ……なんで……」
この場にいるのは自分1人というのに、男達の残していった刻印が疼いた。自身の醜態を思い出しては、ひとり身悶える。
霧野の苛立ちの1番の標的は自分自身であったが、次に自分を貶めた者たち一人一人の顔を思い出す。それから警察連中のしけた顔、顔の分からない男達、と、全てに怒りを覚え始めていた。
「なんで俺だけが……」
霧野はそうしてしばらくの間、出口のない思考をめぐらせていた。だんだんと無駄なことがわかってくると、昨日のこと、切れ切れの意識の中で姫宮と二条の手で診察台に寝かされ、水を飲まされ、吐き、苦しい一夜を過ごしたことをぼんやりと思い出していった。
姫宮と二条が何か会話をして笑っていたが、ざらざらとしてよく聞き取れず、半ば眠りながら身体を横たえていた。
「何、直腸からアルコールをとらせた?無茶なことを。」
姫宮は言葉とは裏腹に、くくく、と笑って自分も酒を飲んでいた。
「後から丸ごと腸の中でも洗っておいてやるかな。」
彼はふらふらと立ち上がり、まともに動けない霧野の頭を撫で回し、撫でていた手が徐々に下の方へと伸びていく。
「お前の身体を診てやるのは久しぶりだな。半年くらい前に頭縫ってやった時以来か?検体としても素晴らしい身体だ、うちに保管しておきたいくらい。なるほど、まだ指も全部あるじゃないか。爪がはがされているのが残念だ。」
そこで記憶が途切れる。カラカラと真っ白い天井に取り付けられた扇風機が回っている。改めて部屋を見回した。部屋には他にもうひとつベッドがあったが誰もいない。天井の付近に風と陽光をとりいれるための小さな窓が開いている。
傍らの棚の上に、青く、透き通るような色をしたアネモネが一輪生けられていた。
アネモネは扇風機の風で時たまその花弁を軽く揺らし、花弁から零れたのか、花瓶の周囲は雫に濡れていた。
ドアの方から物音がし、白衣を着た姫宮が顔を見せた。
「随分楽しい夢を見ていたらしい。二つ向こうの部屋まで声が聞こえたぞ。」
彼は皮肉るようにそう言って、霧野のすぐ横に立った。
「どんな夢だった?実に興味深い。精神分析をしてやろうか?しかしここには他の病人もいるんだ。静かに願いたいね。それとも、君は、四六時中何かしゃぶらせてないと駄目なのか。」
姫宮は意味深に舌で下唇をなぞるような仕草をした。霧野はむっとした調子を隠しもせず姫宮を上目遣いに見た。
「開口一番下品なこと抜かすなよ、姫宮先生……」
思った以上に声がしっかりと出ることに驚いた。霧野は自分の喉元を軽く撫でた。悪夢にうなされはしたが、久々のまともなベッドでの睡眠で多少なり休息がとれているらしかった。
そのままの調子で続けようと思った。そうして無理にでも続けていれば、壊れかけた何かが元に戻るような気がした。
「アンタもアイツらと同じなんですか。幻滅だよ。」
姫宮は意に介した様子も無く、面白い物を見るようにして微笑んだ。
「何のことかな?それに、下品?一体どこが。君が何を想像しているのか全然わからないな……。下品なのはどっちだろうね。」
姫宮は霧野のベッドの横に置かれた椅子に腰かけた。霧野はベッドの上で身体を動かし軽く姫宮と距離をとった。
「人様の身体にべたべた触っておいて、何を」
昨日、彼に触られた感触だけは体が覚えていた。
「触って何が悪いんだ?俺は医者だからな。ここにいる限り、俺には俺の患者を自由に扱う権利があるんだよ。」
「ああ、そうすか……」
「なんだ?さっきから随分不機嫌だな。せっかく助けてやったのに感謝の言葉一つ無しとは。今すぐ退院したいようだな。すぐに人を迎えに来させてやるから待ってろよ。奴ら、すっ飛んでくるだろうな。お前のことが大好きなようだから。」
姫宮が立ち上がりポケットから携帯を取り出した。
「まっ、待てよ、」
霧野が焦りを見せると姫宮は満足そうな表情を浮かべ、携帯を手の中で弄びながらしまう。そして、再び、椅子に腰かけ霧野の手を取った。
「そうだろう。もう少しだけ俺のところで身体を休めるといい。ここにいる間はくれぐれも俺の機嫌は損ねないようにすることだ。」
「……」
姫宮の手を無碍に振り払うこともできずに、彼から視線を逸らした。
「君はね、丸2日近くもぐっすり寝てたんだぜ。相当疲れていたみたいだな。何をしていた、いや、何をさせられていたのかね。君みたいなのが二日も寝込むとはな。点滴も打っておいてやったから少しはスッキリしたかな。生かせということだったからな。」
まる2日、道理でぼんやりしていた頭が多少はまともに回転するわけだな、と霧野は思った。そして、叩き起されず寝させられていたことに僅かだが、希望を覚えた。とはいえ、単に彼らが忙しく構っている暇がないということも考えられる。事実、地下にいた時も時間の感覚が失われ、随分長いこと誰も訪れない時間というものもあり、時にその無為な時間の方がこたえたのだ。
「何をさせられていたか、答えてくれないの?」
姫宮は玩具のように力の入っていない霧野の腕をぶんぶんと振り、意地悪気な笑みをして霧野の顔を覗き込んだ。その瞳は一見揶揄っているように見えるが、霧野の顔色や様子を観察しているようにも見えた。
「俺の身体を見たのなら、想像つくんじゃないですか。」
「ん、君の口からも詳細を聞きたいんだよ。……まぁ、いいや、まだ時間はあるし。ちょっと待ってな。」
姫宮は霧野の腕を離して、部屋を出ていき、水の入ったペットボトル、給湯器、尿瓶を抱えて戻ってきた。
「アルコールは大方抜けただろうが、まだ乾くだろう。飲むといい。悪いものは全部出しちまえ。悪いけど、尿はここに出すんだな。君を無為に逃がすと俺にも多少責任が発生して面倒くさい。」
ペットボトルと尿瓶がベッドのすぐ横に置かれた。
「……わかりました。ありがとうございます。」
「随分あっさり受け入れる。そうか、あの部屋にはトイレ自体無かったな。」
姫宮はまた喉の奥で面白そうに笑った。
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何やら気配を感じて横を見た。さっきの女がすぐそばに立っており、ぎょっとした。
「何を呑気に煙草吸ってんだよ、じじぃ。」
女が、神崎の腕に手を通し、無理やり引っ張るようにして歩き出した。見た目に反する強引さ、そして力の強さに驚いた。
「お前、」
神崎が女を見ると彼女は指で軽く帽子をあげ、顔をよく見せ、元に戻した。明るい色をした口元に歪な笑みが浮かんでいた。
「なかなか似合うだろ。」
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美里の飲み込みは早く、さっそく馬券を複数枚も買い込んでいた。普段やらない遊びをしているせいなのか、いつものシケた表情より、年齢相応の若干と生き生きとした感じの表情をしていた。一瞬だけ立場を忘れて、ただ彼と競馬を楽しみに来たと錯覚する。
霧野がいつか、美里の方が人に取り込む能力は高いのではないかと言っていたことを思い出した。
やはり彼の今の姿は、珍しく無邪気な表情も伴って普段の彼とは似つかず、声さえ出さなければ、少し骨ばってはいるが、すらりとした人目を引く女性であった。彼は椅子に腰かけ、足を伸ばして大きく伸びをした。
均整のとれた横顔の中で、猫のような瞳が馬券から会場、レース場へと向き、電光掲示板を眺め、血色よく整えられた唇を赤い舌がなぞる。口が寂しくなったのか堂々と煙草を吸いはじめたが、その仕草も普段よりどこか優雅に見える。その様子がまたサマになり、逆に、周囲の男たちの目を引いてしまう。
誰かに見られても事だから軽く変装でもして、姿を誤魔化した方が良いと言ったのは神崎の方だった。美里が「探偵ごっこか?くだらねぇ遊びに付き合ってる暇はないんだよ、ふざけてんのか。」と終始馬鹿にした調子で神崎にくってかかったため、大して期待をしていなかったのだが。この変わりよう。
美里の様変わりに呆気に取られていた神崎だが、美里が競馬新聞を見ながら、いつも通りの地声で競馬についてのアレコレを問うてくるのを聞いているうちに次第に頭が元の方向へ戻っていった。
「ん?三連単だったらやっぱり、こっちじゃ、」
「競馬なんてどうでもいいんだ、お前何しに来たんだ。」
「何しに?おっさんのつまらねぇ戯言にわざわざ付き合いに来てやったんじゃねぇか。」
美里はさっきまでの無邪気な様子から一転してつまらなそうに競馬新聞を握り潰して小首を傾げた。
「で?わざわざ危ない真似してまで俺に会って何を聞こうと言うの。澤野の近況?それともまたひとつ奴の過去のことでも教えてくれるのかな?」
「あれからアイツは、俺の事をなにか言ってたか。」
「別に何も。」
美里が素っ気なく言うと、神崎は視線を美里から逸らしてレース場の方に目をやった。
「俺はつくづくアイツらが嫌になった。辞めて調査会社でも自分やった方が余程かと思うくらいだ。もしそうなったら、澤野や、ついでにお前も雇ってやったっていいんだ。お前達があんな場所で腐っていくのを見てられん。」
「………は?、あは、つまんな。急に何を言い出すかと思えば。俺を雇う?何を馬鹿な。何が楽しくってアンタなんかに雇われなきゃならねぇんだよ。……。俺は望んであそこに居るんだ、嫌だったらお前なんかに言われずとも、とっくにやめてる。」
神崎は美里を探るようにじっと見た。
「お前達はまだ若いし、真っ当な道へ、」
「次はお説教か。聞いてらんねぇよ。真っ当な道ってなんだ?そんなもの存在しないよ。アンタのように逃げる気はないし、澤野だって同じだ。一度始めたことだ、簡単に終わらせられない、降りられない。大体なぜ急にサツを辞めるなんて言うんだ。しかも俺なんかに。慰めて欲しいのか?」
「……。澤野に伝えて欲しいからだよ。警察連中、俺達は俺達でお前達と同じに十分腐っているということをな。だが、だとしても、」
神崎は何か言いよどみ、同時に第1レースが始まるファンファーレが鳴り響いた。
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篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
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