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第一幕〈馴れ初め〉
その眸に映るもの 16
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そろそろ陽も傾く時刻だった。
窓辺の紗を透かして斜めに射し込む初夏の光が、西陽の色合いを増して眠るレスタに降りそそいでいる。直射の陽光でもないのに、その下で寝息をたてるレスタの頬の輪郭は、あえかな産毛がやわらかい光を反射してきらきらと揺れていた。
「…反則だろ」
この無防備さも、目映さも。
クラウドは陽を遮らないように寝顔を覗き込み、その頬をやわらかく撫でてからカウチを離れた。
その後の夕食の席に今度はレスタだけが顔を出さなかったが、心配するリヒトをよそにクラウドは素知らぬ顔で食事を済ませた。
退出の際、心配の過ぎるリヒトに機嫌を損ねたのは、クラウドらしからぬ年相応の愛敬だ。
「薬なんざ必要ねえよ。よけいな心配されてあいつもいい迷惑だろ」
「おまえがレスタの迷惑を云々するな。先に体調を気遣ってやれないのか」
「あー…ひょっとしてあいつにご執心? お兄ちゃん」
しん、と。彼らを取り巻く空気が一段と冷えた。しかし冷却源は弟ではない。
「それはおまえだろう。具合が悪そうだったんだから心配するのは当然だ」
やきもちなんか妬いてる場合か。とまで言い切られてしまったクラウドは、結局返事もせずに目のまえの扉を蹴り壊す勢いで出ていった。
見送ったリヒトは大きな溜息をついて、けれど喉元を迫り上がってくる苦笑いの気配は紛れてくれず、もう一度ゆっくりと溜息を落とした。
翌日にはレスタの熱も平常に戻っていたが、やはりその朝もクラウドだけは食事の席に姿をみせなかった。
関連する意味があるのか、何かの形式に則っているのか、あえて訊かないのは正直あんまり知りたくないからだ。
前日と同じようにレスタの居室の周辺だけ人払いのされた西翼の一画には、朝から降りだした激しい雨音だけが窓辺に響いていた。
五月の雨はめずらしくもなかったが、レスタが帝都に入って間もなく一度静かに降ったきりで、こんな遣らずの雨は初めてのことだった。
「出掛けたかったんだけどな。無理だなこりゃ」
「どっか行きたいとこでも?」
「いや…、べつに、目的もなくってやつ。ここ何日か屋敷から出てねぇなと思って」
テラスを叩く雨粒を見ながら、レスタはつまらなさそうに応えた。
さいわい風はなく雨はまっすぐに地面や木々を叩くだけだが、分厚い雲が空一面を低く覆ってしまって薄暗い。そのせいで陽射しも弱く、日中だというのに室内には燭台が灯されていた。
クラウドは昨日と同じカウチに寝そべって、窓辺に立つレスタを眺めている。
そういえば最初にあの眸に気がついたのも、辺境で土砂降りの雨に見舞われたときだった。
「そういや足止めされたことあったな、辺境でも」
同じ場面を思いだしたのか、レスタが窓を背にしてふりむいた。距離よりも灰色の空が弱い逆光になってしまい、柘榴のようなあかい虹彩はクラウドには見えなかった。
「屋根付きの市場に逃げ込んだの覚えてるか?」
「あんときのは風も強かったけどな」
街なかだったので、近くの市場の軒下まで逃げ込んだら、昼市をあらかた終えて閑散とした市場の中は思ったよりも広かった。
雨宿りがてら通りの反対側まで歩いてみたのはただの暇つぶしだ。壁に掛かっていた角燈の明かりを反射して、暗緑だったレスタの双眸が深みのある柘榴石の赤へと色を変えていた。
次に見掛けたのは、古い文献ばかりが仕舞われた御用邸の書庫だったと思う。
「…実際さぁ、その目ってやっぱアルビノの亜種かなんかなわけ?」
「……」
返事がなかったのは答えたくなかったからではなく、こいこい、という所作でクラウドが窓辺のレスタを手招いたからだ。誰だってイヤだ、とレスタは思った。顔にも出した。
昨日うっかりあの男の懐で眠ってしまった己の不覚を呪いたい。呪ったところで事実が消えるわけではないので、レスタは反省を生かすことにした。即ち、近づかない。
警戒心が戻ってこないのだから、それ以外に方法がないとも言えた。その一方でクラウドを意識していることも自覚してはいたが、それについてはあえて無視した。
否定は、しなかったが。
「…虹彩異常なのは確かだけどな。アルビノってわけじゃねえだろ、髪と膚は単純に北の血だし」
「カレリア?」
「ああ。混ざってるんで、目はそれの掛け違いみたいなもんだと思う」
「……混ざってる? 混血ってことか?」
クラウドは素直な驚きの声と表情で問い返した。確かに、驚くのも当然だろうとレスタも思った。
「混血ってのは考えたことなかったな…」
「これでも北の血は四分の一以下のはずなんだけどな。完全な先祖返りだよな」
「…いや、…けど、逆に納得できるっつーか…。生粋のカレリアじゃここまでは…」
移動手段がまだ発達していないこともあり、民族ではなく人種の異なる混血というのは滅多にみないが、それでも辺境の裏町界隈で稀に見かけたことのある彼らは、大抵とても整った容姿をしていた。
早い話が良いところ取り、ということだろう。
それでも髪の色や膚は濃いめの色素が多く、特に父親がそうでなければ子に緑や青みがかった眸が生まれることはまずないという。もしも生まれたとしてもそういった界隈の子供たちは往々にして生活が貧しく、あまり恵まれた人生を送るとは言えないのが実情だ。
「………」
レスタは、いっそ頑固なほど出自については明かさないが、育ちそのものは悪くない。それはただ裕福な環境で育ったということよりも、自然と身についている教養や、持っている知識の深さで分かる。
もともと頭が良いのはレスタ自身の素地だとしても、知識というのはそれを得る環境が整っていなければ潤沢には身につかない。
だとすると、やはりレスタは貴族の落胤で、それもカレリアではなくヴァンレイクのノエル一門と関わりが深いのかも知れない。
身分も肩書きもないと言ったところでクラウドはそれを信じてはいなかったし、何しろこの尊大さだ。これまではカレリアの貴族か、そうでなければ大店の商家あたりが辺境に落とし胤を追いやったとみるのが妥当だろうと思っていたが、なるほど、混血だと知ればあらたな納得も増えてくる。
いっそ生粋のカレリア人には見られない、この繊細なまでの美しさもそうだ。
「言われてみれば…てところか」
カウチから身体を起こしたクラウドは、いっこう近づいてこないレスタにあっさりと見切りをつけて、自ら席を立った。
右にも左にも遮るものなど置かれていないのに、逃げ道がないとレスタが思うのはいつでもこういう瞬間だ。この男の挙措は威圧的で顕示的なのに、流れるように無駄がなくて目も意識もまるで追いつかない。
結局、ここ数日で日常化しつつある距離まで簡単に詰められて、レスタは思わず肩を落とした。露骨な舌打ちは隠さない心情のあらわれだ。
「…おまえ、顔逸らして舌打ちとかしてんじゃねえよ」
「正直なんだ…」
「どこが。あー…いいからその目みせてみろ。昼でもいまなら赤いだろ」
片手でレスタを掴まえたまま、クラウドは日除けの紐をほどいて窓の陽光を遮った。広い部屋に窓はいくつも並んでいるが、間近なひとつが陽を遮れば、そこだけでも多少は薄暗さを増す。なにしろ外はひどい雨だ。
溜息まじりに顔をあげたレスタは、無理やり覗き込まれるまえにその眸をクラウドに向けた。
ここから燭台の場所は遠いし、雨で薄暗いといっても日中だし、これでは虹彩の変化もたかが知れているような気がしたが、とりあえず放っておくことにした。見えなければ燭台の傍に移動するとでも言うだろう。
それからしばらく、間近に覗き込んでくる視線とぶつからないように注意して、その眼差しの強さに閉じかける瞼をどうにか堪えて、増えていく瞬きにいい加減辟易したところで、限界を感じて瞼を伏せた。
「…なに? キスして?」
「馬鹿かどんだけ夢みてんだ。…目ぇ痛くなった」
近距離の視線にじっと眸を覗き込まれるというのは、実際にやられてみるとけっこうな苦痛だ。
目頭を押さえるように俯いて、レスタはゆるりとクラウドから離れた。適当にカウチを目指して歩きながら、後ろをついてくるクラウドに問いかけた。
「おまえ俺の何がいいんだ?」
「あ? …なんだ急に」
「ふつうに素朴な疑問」
もう女の格好もしていない。上半身だけとはいえ裸だって見ている。そんなことじゃないというのはレスタも分かっているつもりだが、やっぱり疑問は疑問だ。
「あー…、じゃあ全部」
クラウドはあっさり、かつざっくりと答えた。
「…手抜きだろ」
「んじゃ見ため」
その返答にレスタは笑った。カウチに腰をおろし、俯いて何度か瞬いてみてから、目のまえに立つ男をまっすぐに見上げた。
ここなら燭台の灯りもだいぶ近い。クラウドが見たがった真昼の赤も見えるだろう。
「見ためなら全部だな」
全部。金色の髪も、白い膚も、金緑石の双眸も、それ以外も。だから全部だ。
「そりゃどうも」
「おまえは?」
隣に腰掛けながら厚かましく訊いてくる男は、たぶんこれでも未来の龍王だ。何がいいかなんてそんなものは決まっている。
「俺? 俺は背中の龍」
「はぁ?」
この程度の意趣返しは当然まかりとおるだろう。
その後、雨は夜半に一度止み、けれど翌日もまた明け方から強く降りだした。
連日の潤みに邸内の雑木林が白く霞んでみえるほどだ。
この日も同じようにクラウドはレスタの部屋を訪れ、同じようにカウチを陣取って、どちらも平行線の話をしたり、しなかったりしながら、雨に閉ざされた時間を過ごした。
結論は、たぶんどちらも同じ着地点を見ている。
「…もー全部丸投げでいいつってんだろ…」
「それじゃ解決しないんだよ。こっちは弟の面倒もあるし、どのみちいっぺん向こうに帰んねえことには、話に」
「弟ってそんな大事?」
「…おまえ、この雨んなか叩き出すぞ終いには」
腕力的に確実に無理だが、レスタの脳内ではすでに百回以上叩き出しているという堂々めぐりだ。溜息の数ならとっくに上回っているかも知れない。
こちらから言ってやらなければならないようなことだろうか、と疑問に思った。それをこの男が本当に気づいていないとは思えないが、気づいていてそれでもここまで粘るなら、言ってやったほうが早いのかも知れない、ともレスタは思う。無駄な矜持は持ち合わせないのがレスタのやり方だ。
「なんで帰らせたくねーのかが謎なんだけども」
「あぁ? 馬鹿かてめぇは」
「いや、おまえが駄々こねるほど俺のこと好きで好きで大好きなのはともかくな? もろもろ片づけたらまたここに戻ってこいよ、ぐらいのこと言って、なんでこころよく送り出す気にならねーのかと」
途中、自惚れんな馬鹿が! という理不尽な暴言が隣から聞こえたが、この際それも右から左に聞き流して、レスタはクラウドの背中に手を置いた。
領域の異なる比類なき存在に、それが通じるかどうかは分からなかったが。
「おまえの傍にいてやってもいい。そのために帰る。…帰る理由を変えてやるから、とにかくいっぺん俺を向こうに帰らせろ」
そうしなければ始められないものが、ここに確かに、あるからだ。
+ + +
帝都を白く霞ませた初夏の雨は、結局三日も降り続いた。
その後ゆっくりと北上した広範囲の雨雲は、けれど間もなく訪れる隣国の一行を僅かも足止めすることはなかった。
辺境を目指していたシドは道中で彼らと接触し、結果レスタより先に宮廷の状況を知ることになったが、それと引き替えに現在のレスタを知り得ないという齟齬が生じていたことを、このときのシドはまだ知る由もない。
ハーディン王とレスタ、そしてクラウド。いずれの思惑も正しく合致しないまま、あらためて一行の先触れ役を申し出たシドがナーガの帝都へ舞い戻ったのは、降り続いた雨がようやく去った快晴の朝のことだった。
多くの駿馬を有するカムリ官邸の厩舎に、三名の顔触れが揃っていた。
「やっと晴れたんだからここは出掛けてなんぼだろ」
「それで何でこいつと一緒なんだって訊いてんだよ」
クラウドは兄を指差して唸る。一方鼻先近くに指を突き立てられたリヒトは、溜息をつきながら厩舎のほうへと視線を逸らした。
クラウドのいない朝食の席で、かまわず遠乗りの話を切り出したのはレスタだ。それを承諾した時点でこうなることは当然分かりきっていた。
彼らがこの数日のあいだ、日を重ねて話をしていたことはリヒトも知っている。
先日のあれを機にクラウドが正攻法に切り換えたらしいということも、西翼の侍従頭から人払いの件を伝え聞いていたので、そちらも含めて把握していた。成果のほどは、あいにくと如実に現れてはいないようだったが。
「クラウド、静かにしないと馬が騒ぐ」
「静かにしてたってコイツは気配が物騒だけどな」
「そういえばそうか」
「うるせーよ」
間もなく厩舎の奧から三頭の馬が牽かれて出てきた。
さっそく手綱を受け取ったレスタは、隣でまだくだを巻いている男を無視して、軽々と芦毛の馬の背に跨った。
背すじをすっと伸ばした乗馬姿に、双子は視線を仰いでレスタを見やる。自然な威風の漂うその姿に、ああ似合っている、とどちらもが同じように思った。そのとき屋敷の回廊からあるじを呼ばわる声が聞こえた。
ふりむいた先には年嵩の家臣と、リクがいた。焦ったようすで駆けつけてきた彼らは、馬上のレスタへと僅かに意識を向けてから、一礼してクラウドの傍らへ身を寄せた。
耳打ちをしたのは、年嵩の家臣ではなく年少のリクのほうだった。
過分なその行動と、たったいま彼らがレスタを窺いみた視線の意味が、告げられた言葉からすべて繋がってクラウドに届いた。
「正式な先触れを名乗って、緋の国から急使が来ています。…辺境の、バルトの白装束です」
微かにクラウドの肩が揺れた。咄嗟にふりかえろうとした己を制し、無言のまま家臣らを従えて回廊へと歩きだした。
「クラウド、どうした」
背に掛かる兄の声に、野暮用、とだけ短く答える。
「適当に待ってろ。面倒なら先に行っててもいい」
素っ気なく言い置いて、クラウドは足早にその場を去った。
「…どうする。…少し待つか?」
どこか遠慮がちなリヒトの問いに、レスタはあたりまえのように答えた。
「どうするも何も、いまのは待つなって意味だろ」
適当にだの面倒ならだの、あの男がそんな殊勝なタマか。
クラウドはレスタを見なかった。ということは、何かそういう事情だ。
馬上のレスタは馬の首をぽんと叩いて、傍らで立ち尽くすリヒトを見下ろした。
どういった伝令が届いたときでも、外からの使者は必ず正面口の控え間に通される。
「何かの伝令だとしたら、正面口だな」
「そうだが…」
「先に行く」
レスタは命じるように軽く馬の腹を蹴りつけた。敷地内の庭隅を走り抜ければ、回廊を進むクラウドの先回りが出来るかも知れない。
胸騒ぎがしただとか、不穏な何かを予感しただとか、そんなことではなかった。ただ思いあたることならひとつだけある。
だからこのときは、伝令であれば宮殿からの急使で、クラウドに顕われた龍紋のことがナーガの深部に知れたか、あるいはそれに関わることだろうと、思っていた。
窓辺の紗を透かして斜めに射し込む初夏の光が、西陽の色合いを増して眠るレスタに降りそそいでいる。直射の陽光でもないのに、その下で寝息をたてるレスタの頬の輪郭は、あえかな産毛がやわらかい光を反射してきらきらと揺れていた。
「…反則だろ」
この無防備さも、目映さも。
クラウドは陽を遮らないように寝顔を覗き込み、その頬をやわらかく撫でてからカウチを離れた。
その後の夕食の席に今度はレスタだけが顔を出さなかったが、心配するリヒトをよそにクラウドは素知らぬ顔で食事を済ませた。
退出の際、心配の過ぎるリヒトに機嫌を損ねたのは、クラウドらしからぬ年相応の愛敬だ。
「薬なんざ必要ねえよ。よけいな心配されてあいつもいい迷惑だろ」
「おまえがレスタの迷惑を云々するな。先に体調を気遣ってやれないのか」
「あー…ひょっとしてあいつにご執心? お兄ちゃん」
しん、と。彼らを取り巻く空気が一段と冷えた。しかし冷却源は弟ではない。
「それはおまえだろう。具合が悪そうだったんだから心配するのは当然だ」
やきもちなんか妬いてる場合か。とまで言い切られてしまったクラウドは、結局返事もせずに目のまえの扉を蹴り壊す勢いで出ていった。
見送ったリヒトは大きな溜息をついて、けれど喉元を迫り上がってくる苦笑いの気配は紛れてくれず、もう一度ゆっくりと溜息を落とした。
翌日にはレスタの熱も平常に戻っていたが、やはりその朝もクラウドだけは食事の席に姿をみせなかった。
関連する意味があるのか、何かの形式に則っているのか、あえて訊かないのは正直あんまり知りたくないからだ。
前日と同じようにレスタの居室の周辺だけ人払いのされた西翼の一画には、朝から降りだした激しい雨音だけが窓辺に響いていた。
五月の雨はめずらしくもなかったが、レスタが帝都に入って間もなく一度静かに降ったきりで、こんな遣らずの雨は初めてのことだった。
「出掛けたかったんだけどな。無理だなこりゃ」
「どっか行きたいとこでも?」
「いや…、べつに、目的もなくってやつ。ここ何日か屋敷から出てねぇなと思って」
テラスを叩く雨粒を見ながら、レスタはつまらなさそうに応えた。
さいわい風はなく雨はまっすぐに地面や木々を叩くだけだが、分厚い雲が空一面を低く覆ってしまって薄暗い。そのせいで陽射しも弱く、日中だというのに室内には燭台が灯されていた。
クラウドは昨日と同じカウチに寝そべって、窓辺に立つレスタを眺めている。
そういえば最初にあの眸に気がついたのも、辺境で土砂降りの雨に見舞われたときだった。
「そういや足止めされたことあったな、辺境でも」
同じ場面を思いだしたのか、レスタが窓を背にしてふりむいた。距離よりも灰色の空が弱い逆光になってしまい、柘榴のようなあかい虹彩はクラウドには見えなかった。
「屋根付きの市場に逃げ込んだの覚えてるか?」
「あんときのは風も強かったけどな」
街なかだったので、近くの市場の軒下まで逃げ込んだら、昼市をあらかた終えて閑散とした市場の中は思ったよりも広かった。
雨宿りがてら通りの反対側まで歩いてみたのはただの暇つぶしだ。壁に掛かっていた角燈の明かりを反射して、暗緑だったレスタの双眸が深みのある柘榴石の赤へと色を変えていた。
次に見掛けたのは、古い文献ばかりが仕舞われた御用邸の書庫だったと思う。
「…実際さぁ、その目ってやっぱアルビノの亜種かなんかなわけ?」
「……」
返事がなかったのは答えたくなかったからではなく、こいこい、という所作でクラウドが窓辺のレスタを手招いたからだ。誰だってイヤだ、とレスタは思った。顔にも出した。
昨日うっかりあの男の懐で眠ってしまった己の不覚を呪いたい。呪ったところで事実が消えるわけではないので、レスタは反省を生かすことにした。即ち、近づかない。
警戒心が戻ってこないのだから、それ以外に方法がないとも言えた。その一方でクラウドを意識していることも自覚してはいたが、それについてはあえて無視した。
否定は、しなかったが。
「…虹彩異常なのは確かだけどな。アルビノってわけじゃねえだろ、髪と膚は単純に北の血だし」
「カレリア?」
「ああ。混ざってるんで、目はそれの掛け違いみたいなもんだと思う」
「……混ざってる? 混血ってことか?」
クラウドは素直な驚きの声と表情で問い返した。確かに、驚くのも当然だろうとレスタも思った。
「混血ってのは考えたことなかったな…」
「これでも北の血は四分の一以下のはずなんだけどな。完全な先祖返りだよな」
「…いや、…けど、逆に納得できるっつーか…。生粋のカレリアじゃここまでは…」
移動手段がまだ発達していないこともあり、民族ではなく人種の異なる混血というのは滅多にみないが、それでも辺境の裏町界隈で稀に見かけたことのある彼らは、大抵とても整った容姿をしていた。
早い話が良いところ取り、ということだろう。
それでも髪の色や膚は濃いめの色素が多く、特に父親がそうでなければ子に緑や青みがかった眸が生まれることはまずないという。もしも生まれたとしてもそういった界隈の子供たちは往々にして生活が貧しく、あまり恵まれた人生を送るとは言えないのが実情だ。
「………」
レスタは、いっそ頑固なほど出自については明かさないが、育ちそのものは悪くない。それはただ裕福な環境で育ったということよりも、自然と身についている教養や、持っている知識の深さで分かる。
もともと頭が良いのはレスタ自身の素地だとしても、知識というのはそれを得る環境が整っていなければ潤沢には身につかない。
だとすると、やはりレスタは貴族の落胤で、それもカレリアではなくヴァンレイクのノエル一門と関わりが深いのかも知れない。
身分も肩書きもないと言ったところでクラウドはそれを信じてはいなかったし、何しろこの尊大さだ。これまではカレリアの貴族か、そうでなければ大店の商家あたりが辺境に落とし胤を追いやったとみるのが妥当だろうと思っていたが、なるほど、混血だと知ればあらたな納得も増えてくる。
いっそ生粋のカレリア人には見られない、この繊細なまでの美しさもそうだ。
「言われてみれば…てところか」
カウチから身体を起こしたクラウドは、いっこう近づいてこないレスタにあっさりと見切りをつけて、自ら席を立った。
右にも左にも遮るものなど置かれていないのに、逃げ道がないとレスタが思うのはいつでもこういう瞬間だ。この男の挙措は威圧的で顕示的なのに、流れるように無駄がなくて目も意識もまるで追いつかない。
結局、ここ数日で日常化しつつある距離まで簡単に詰められて、レスタは思わず肩を落とした。露骨な舌打ちは隠さない心情のあらわれだ。
「…おまえ、顔逸らして舌打ちとかしてんじゃねえよ」
「正直なんだ…」
「どこが。あー…いいからその目みせてみろ。昼でもいまなら赤いだろ」
片手でレスタを掴まえたまま、クラウドは日除けの紐をほどいて窓の陽光を遮った。広い部屋に窓はいくつも並んでいるが、間近なひとつが陽を遮れば、そこだけでも多少は薄暗さを増す。なにしろ外はひどい雨だ。
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ここから燭台の場所は遠いし、雨で薄暗いといっても日中だし、これでは虹彩の変化もたかが知れているような気がしたが、とりあえず放っておくことにした。見えなければ燭台の傍に移動するとでも言うだろう。
それからしばらく、間近に覗き込んでくる視線とぶつからないように注意して、その眼差しの強さに閉じかける瞼をどうにか堪えて、増えていく瞬きにいい加減辟易したところで、限界を感じて瞼を伏せた。
「…なに? キスして?」
「馬鹿かどんだけ夢みてんだ。…目ぇ痛くなった」
近距離の視線にじっと眸を覗き込まれるというのは、実際にやられてみるとけっこうな苦痛だ。
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「あ? …なんだ急に」
「ふつうに素朴な疑問」
もう女の格好もしていない。上半身だけとはいえ裸だって見ている。そんなことじゃないというのはレスタも分かっているつもりだが、やっぱり疑問は疑問だ。
「あー…、じゃあ全部」
クラウドはあっさり、かつざっくりと答えた。
「…手抜きだろ」
「んじゃ見ため」
その返答にレスタは笑った。カウチに腰をおろし、俯いて何度か瞬いてみてから、目のまえに立つ男をまっすぐに見上げた。
ここなら燭台の灯りもだいぶ近い。クラウドが見たがった真昼の赤も見えるだろう。
「見ためなら全部だな」
全部。金色の髪も、白い膚も、金緑石の双眸も、それ以外も。だから全部だ。
「そりゃどうも」
「おまえは?」
隣に腰掛けながら厚かましく訊いてくる男は、たぶんこれでも未来の龍王だ。何がいいかなんてそんなものは決まっている。
「俺? 俺は背中の龍」
「はぁ?」
この程度の意趣返しは当然まかりとおるだろう。
その後、雨は夜半に一度止み、けれど翌日もまた明け方から強く降りだした。
連日の潤みに邸内の雑木林が白く霞んでみえるほどだ。
この日も同じようにクラウドはレスタの部屋を訪れ、同じようにカウチを陣取って、どちらも平行線の話をしたり、しなかったりしながら、雨に閉ざされた時間を過ごした。
結論は、たぶんどちらも同じ着地点を見ている。
「…もー全部丸投げでいいつってんだろ…」
「それじゃ解決しないんだよ。こっちは弟の面倒もあるし、どのみちいっぺん向こうに帰んねえことには、話に」
「弟ってそんな大事?」
「…おまえ、この雨んなか叩き出すぞ終いには」
腕力的に確実に無理だが、レスタの脳内ではすでに百回以上叩き出しているという堂々めぐりだ。溜息の数ならとっくに上回っているかも知れない。
こちらから言ってやらなければならないようなことだろうか、と疑問に思った。それをこの男が本当に気づいていないとは思えないが、気づいていてそれでもここまで粘るなら、言ってやったほうが早いのかも知れない、ともレスタは思う。無駄な矜持は持ち合わせないのがレスタのやり方だ。
「なんで帰らせたくねーのかが謎なんだけども」
「あぁ? 馬鹿かてめぇは」
「いや、おまえが駄々こねるほど俺のこと好きで好きで大好きなのはともかくな? もろもろ片づけたらまたここに戻ってこいよ、ぐらいのこと言って、なんでこころよく送り出す気にならねーのかと」
途中、自惚れんな馬鹿が! という理不尽な暴言が隣から聞こえたが、この際それも右から左に聞き流して、レスタはクラウドの背中に手を置いた。
領域の異なる比類なき存在に、それが通じるかどうかは分からなかったが。
「おまえの傍にいてやってもいい。そのために帰る。…帰る理由を変えてやるから、とにかくいっぺん俺を向こうに帰らせろ」
そうしなければ始められないものが、ここに確かに、あるからだ。
+ + +
帝都を白く霞ませた初夏の雨は、結局三日も降り続いた。
その後ゆっくりと北上した広範囲の雨雲は、けれど間もなく訪れる隣国の一行を僅かも足止めすることはなかった。
辺境を目指していたシドは道中で彼らと接触し、結果レスタより先に宮廷の状況を知ることになったが、それと引き替えに現在のレスタを知り得ないという齟齬が生じていたことを、このときのシドはまだ知る由もない。
ハーディン王とレスタ、そしてクラウド。いずれの思惑も正しく合致しないまま、あらためて一行の先触れ役を申し出たシドがナーガの帝都へ舞い戻ったのは、降り続いた雨がようやく去った快晴の朝のことだった。
多くの駿馬を有するカムリ官邸の厩舎に、三名の顔触れが揃っていた。
「やっと晴れたんだからここは出掛けてなんぼだろ」
「それで何でこいつと一緒なんだって訊いてんだよ」
クラウドは兄を指差して唸る。一方鼻先近くに指を突き立てられたリヒトは、溜息をつきながら厩舎のほうへと視線を逸らした。
クラウドのいない朝食の席で、かまわず遠乗りの話を切り出したのはレスタだ。それを承諾した時点でこうなることは当然分かりきっていた。
彼らがこの数日のあいだ、日を重ねて話をしていたことはリヒトも知っている。
先日のあれを機にクラウドが正攻法に切り換えたらしいということも、西翼の侍従頭から人払いの件を伝え聞いていたので、そちらも含めて把握していた。成果のほどは、あいにくと如実に現れてはいないようだったが。
「クラウド、静かにしないと馬が騒ぐ」
「静かにしてたってコイツは気配が物騒だけどな」
「そういえばそうか」
「うるせーよ」
間もなく厩舎の奧から三頭の馬が牽かれて出てきた。
さっそく手綱を受け取ったレスタは、隣でまだくだを巻いている男を無視して、軽々と芦毛の馬の背に跨った。
背すじをすっと伸ばした乗馬姿に、双子は視線を仰いでレスタを見やる。自然な威風の漂うその姿に、ああ似合っている、とどちらもが同じように思った。そのとき屋敷の回廊からあるじを呼ばわる声が聞こえた。
ふりむいた先には年嵩の家臣と、リクがいた。焦ったようすで駆けつけてきた彼らは、馬上のレスタへと僅かに意識を向けてから、一礼してクラウドの傍らへ身を寄せた。
耳打ちをしたのは、年嵩の家臣ではなく年少のリクのほうだった。
過分なその行動と、たったいま彼らがレスタを窺いみた視線の意味が、告げられた言葉からすべて繋がってクラウドに届いた。
「正式な先触れを名乗って、緋の国から急使が来ています。…辺境の、バルトの白装束です」
微かにクラウドの肩が揺れた。咄嗟にふりかえろうとした己を制し、無言のまま家臣らを従えて回廊へと歩きだした。
「クラウド、どうした」
背に掛かる兄の声に、野暮用、とだけ短く答える。
「適当に待ってろ。面倒なら先に行っててもいい」
素っ気なく言い置いて、クラウドは足早にその場を去った。
「…どうする。…少し待つか?」
どこか遠慮がちなリヒトの問いに、レスタはあたりまえのように答えた。
「どうするも何も、いまのは待つなって意味だろ」
適当にだの面倒ならだの、あの男がそんな殊勝なタマか。
クラウドはレスタを見なかった。ということは、何かそういう事情だ。
馬上のレスタは馬の首をぽんと叩いて、傍らで立ち尽くすリヒトを見下ろした。
どういった伝令が届いたときでも、外からの使者は必ず正面口の控え間に通される。
「何かの伝令だとしたら、正面口だな」
「そうだが…」
「先に行く」
レスタは命じるように軽く馬の腹を蹴りつけた。敷地内の庭隅を走り抜ければ、回廊を進むクラウドの先回りが出来るかも知れない。
胸騒ぎがしただとか、不穏な何かを予感しただとか、そんなことではなかった。ただ思いあたることならひとつだけある。
だからこのときは、伝令であれば宮殿からの急使で、クラウドに顕われた龍紋のことがナーガの深部に知れたか、あるいはそれに関わることだろうと、思っていた。
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