龍神は月を乞う

なつあきみか

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第一幕〈馴れ初め〉

その眸に映るもの 15

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 翌日の朝、レスタの目覚めはあいにくと芳しくなかった。
 どこがどうと言うのではなく、何となくだるい。
 もっとも昨日は昨日で遅い朝食を済ませたあたりから関節がぎしぎししていたので、もしかしたら熱が出るのかもしれないなとは思っていた。
 なのでその後はおとなしく読書でもしようかと主屋棟の図書室に籠もり、万が一にも龍王の口伝に触れた禁書的な何かがないかと古書を漁ったりしてみたわけだが。
 徒労というか当然というか、いま分かっている以上の成果は得られなかった。
 若干逸れたところの成果だと、四代目の帝が双子で、その両方が黄金の眼を持っていた(双龍帝と呼ばれたそうだ)ことと、その片割れの息子がカムリの初代になったこと、さらにそのカムリの初代がカレリアの建国にまつわる諸々に関わっていたこと、などなど。
 主題から脱線していたことは充分認識しつつ、レスタは俄然おもしろがって前のめりで読みまくった。
 だから龍王の禁書にたどり着かなかった、ということでは断じてない。
 問題はそこではなく、ささやかな予兆に気づきつつも自愛しなかったことだ。
 そんなこんなで身体がだるい。重い。
 昨日の今日の変調だとすればだいたいの見当はついたが、動けないほどでもなかったので着替えを済ませて、そのまま食堂に向かった。


 先にいつもの席へ着こうとしていたリヒトが、続いてやってきたレスタの顔色にその変調を感じ取ったのか、少し窺うような視線を向けてきた。
「体調が悪いんじゃないか?」
「…いや、悪いってほどじゃ…」
「本当に?」
「…まぁ、たぶん微熱はある、と思う。大したことないから気にしなくていい」
 朝の支度のときに鏡は見たが、いま青くなっているのか赤くなっているのか、顔色はどっちだろうなと他人事のように思ってしまった。
 これは、おそらくあれだ。龍の力の、余波。
 昨日の一幕は人間が本来触れるはずのないものに触れた、というようなものだったから、もともと宿主ではないレスタには毒気のほうが強かったようだ。
(そのうちあいつにあれを自在に操れるようになる…とかいう離れ技がついてきたら、相当いやだな)
 それこそ物騒だ、と悪ふざけにも似た想像にこっそり舌を出して、レスタはまだ心配そうなリヒトの視線を躱すよう、ひらと手を振ってみせた。
「それよりクラウドは?」
「ああ、自室でとるそうだ。さっきリクが運んでいった」
「…まさかあいつも具合が悪いとかそういうことか?」
 それこそ鬼の霍乱よろしく知恵熱でも出したか。
 少し意外に思って訊いてみればそういうことではないらしい。
「昨日の今日でさすがに顔を出しづらい…ということにしておいてやりたいが、実際は何を考えてるやら」
 大きく竦めた肩が心情を物語っていた。さもありなんとレスタも頷く。
「おまえも手の掛かる弟を持ったもんだな」
「レスタに言われるとしみじみ実感が増すからやめてくれ」
 即答で返されて、結局お互いに朝食をまえにして溜息をついた。
 
「それはそうと、帰りの支度や路銀のあてはあるのか?」
 はたしてレスタの体調を気遣ったのか、いつもより少しゆっくりとした朝食を終え、ともに食堂を出たところでリヒトはレスタに問いかけた。
「あれのことだから、どうせここに来る話が出たときも強引で唐突だったんだろう」
「だった」
 無駄のない返答が返ってきた。
「………すまん、迷惑掛けて」
「来たくて来たんだからかまわねぇよ。あと支度云々もあてはあるから心配ない」
 レスタは気にしたようすもなく歩いていく。その足取りが、やはりいつもより少しだけ鈍い。
「…まぁ、べつに飛んで帰りたいってほど急いた話でもないんで、とりあえずクラウドといっぺん話をつけて、帰るとしたらそれからだな」
 あの男がどこまで話を聞くかにもよるが、あの背中の龍とある種の関わりを持ってしまったレスタとしては、それを無視するわけにもいかない。
 リヒトのようすからも、屋敷を取り巻く空気からも、クラウドはまだ誰にも龍紋の顕現について明かしてはいないようだし、それならこの件が家臣の堅物どころに知れるまえに、派生してしまった面倒な側面は早々に対処してしまわなければ。
「そうしてくれると、俺もありがたい」
 龍紋のことなど露も知らないリヒトは、レスタの言葉に他意なく頷き返した。
 
 
 部屋まで送ろうというリヒトの心配をことわって、レスタは西翼の長い回廊を足早に進んだ。
 体調は目覚めのときから良くも悪くもなっていず、その中途半端なだるさに少しずつ苛立っていくのが自分でも分かる。
 最後の角を右に折れ、扉まで僅かという廊下に差し掛かったところで、レスタはふと足を止めた。まだ朝の忙しい時間だというのに、立ち働く小間使いたちの気配が極端に少ない。いつもであれば廊下でひとりやふたりと擦れ違っていそうなものなのに。
「………」
 肩越しにひらりと背後を見やったレスタは、胸のうちを語る深い溜息のあと、自室の周囲に人払いを命じた問題の張本人をふりかえった。
「…どっから沸いてくんだよ、てめぇは」
「角の逆側で待ってただけだろ。おまえこそ気づくのおそ…、」
 足音も立てずにすぐ傍まで近づいていたクラウドは、返す言葉の途中でそれを止めた。
 眇めるように目を細め、手の届く距離までもう一歩レスタに近づくと、その白い首すじに迷わず指先をすべらせた。
 指の腹で何度か触れ、耳の後ろからうなじにかけて、ひととおり確かめるように辿ってから手をおろす。
「もとが白いせいか? 顔色のわりには微熱だな。…てか何で熱出してんだ」
「どのくちがほざいてんだまったく。先に詫び入れろこの馬鹿」
 冷えた一瞥をくれてレスタは踵を返した。
 昨日の今日で、クラウドの周りにはあのとき垣間見せた禍々しさも凶暴さも、まったく残っていない。
 半歩先を歩きだしたレスタのあとに続きながら、クラウドは僅かなその距離を縮めようとはせず、黙って牡丹の部屋までついてきた。
「…で。わざわざ人払いまでして何の用だ?」
「渡りにきた」
「…?」
 扉のまえで、怪訝そうに眉根を寄せたレスタがふりかえる。異国語での会話ということをまったく感じさせないレスタの語彙力だったが、さすがにこういった独特な条件下での言いまわしは聞いたことがなかったらしい。
 クラウドは先に扉を開けてレスタの背をうながした。
「会いにきた、て意味」
 そうなるとこの状況も微妙に意味合いが変わってくるわけだが。
「………」
 もう面倒くさくなってしまったので、レスタはあえて何も言わないことにした。どのみち話をしなければならないうちの、これはそのひとつだ。それなら他に優先すべき事柄を優先したほうがいい。
 昨日と同じ窓辺の席へと歩を進め、昨日兄が座った椅子に今日は弟をうながそうとしたところで、腕を掴まれて引き止められた。
 首すじの熱を確かめたときと同じ、無造作な手はこの男らしく自分勝手だったが、あまりにも当然めいた挙措のせいで強引というのともまた違った。
 クラウドは窓辺の席ではなく奧へと歩きだし、床敷きを踏んで暖炉のまえまでレスタを連れていった。いまは休眠中の暖炉の側には、四季を通じてそこが定位置の大きなカウチが置いてある。
 レスタはそれに腰をおろした。腕を掴んでいた手はそのまま離れて、その同じ手でレスタの頬に触れたクラウドは、上体を屈めてかれの唇に軽くくちづけた。

 瞬きひとつ分のささやかなキスは、それだけですぐに離れていった。
「……行動に脈絡をくれ。すじみちってやつを」
「これ以上ないってくらい一貫してんだろうが」
「おまえのそれはただ一方的なだけだろ。おかげで見事な平行線だよな?」
「……」
 見下ろしてくる金の双眸がじわりと険を滲ませる。レスタは一度ななめに視線を逸らすと、軽くため息を吐いてからクラウドに戻した。
「…それはそうと。おまえ背中は? 昨日あれから何ともないか?」
 それこそ脈絡もなく転じた話題に、クラウドが僅かに眉根を寄せる。
「あ? なんで」
「背中だけ異様に熱かっただろ。…けど見た感じ特に変わりもなさそうだし、やっぱり宿主だとあとから影響が出るわけじゃないんだな」
 つまりそれ故に、神威を宿す身体ということだろう。レスタの熱は本来起こりえないはずの接触で偶発的に起きたもの、副産物のようなものだ。余波には違いないが、二次災害とはまた質が違う。
「…おい」
 ひとり納得するレスタに何やら察したのか、クラウドはふたたび上体を屈めて顔を近づけた。カウチの背を両腕で掴み、その内側にレスタを囲うようにして、いつもより生気のない顔色を間近に覗き込んだ。
「この熱ってあれのせいか」
「ほかに思いあたるふしがあるんなら言ってみろ」
 あの瞬間、胸の上で苦しげに身体をまるめたクラウドの背中を、レスタは咄嗟に抱きとめていた。
 抱きしめるというほどの強さではなかったので、蹲っていたクラウドがそれに気づいたかどうか、レスタは知らない。どちらでもいい。
「おまえと融合するとか混ざるとか、そういうわけでもないんだな」
「…たぶんな」
「つまり別々の意志や感情があって、何でもおまえに加勢するわけじゃない、と」
「………」
「…ていうか、まぁ状況にもよるとは思うが…、昨日のは」
 少なくとも昨日のあの状況下に限っていえば、クラウドの龍神はレスタのほうに加勢した。ということになる。ちらと見やった視線の先では、クラウドもそんなふうに考えているような顔だった。
(…やっぱ気づいてない、か?)
 しかし厳密には、あれはクラウドのためだったはずだ。
 そこを読み違えて受け止めているあたり、いつものクラウドらしくないかもしれなかったが、それでも心情的には分からないでもなかった。
 きっとクラウドにとっては、龍神がレスタに味方した、という事実こそが重要だからだ。
 いずれにしろレスタが背に触れた途端、ゆるやかに退いていった熱だ。
 まるでこちらの意思を確かめるようにゆっくりと、恐れないでくれ、赦してやってくれと、たとえるなら何度もふりかえって案じるように消えていった。
「…俺を気に入ってどうするんだか」
 呟いたところで、クラウドが腕の囲いの中に直接レスタを抱き寄せてくる。
 もう警戒する気もなかったが、とりあえず近すぎる顔だけは逸らして逃げた。
「おまえ、そこまで全部分かってんならここに居ろよ」
「昨日リヒトから聞かなかったか?」
「俺がそれをあーそうですかって聞き入れるとでも?」
「………」
「わかってんじゃねーか」
「何も言ってねえよ。…おい、やめろクラウド」
 遠ざけたはずの頭を引き寄せられて、耳から頬、こめかみへと、クラウドの鼻先がレスタの輪郭を辿っていく。そのあとを唇で確かめるように触れながら。
「…やめろって。女相手にやれよ、こういうのは」
「背中に言っとけ」
「やってんのはてめぇだろうが。俺がヤメロつってるときはてめぇでやめろ。まだ話は終わってねぇんだよ黙って聞いとけ」
 ただでさえ微熱のせいで苛ついていた。うっかり本気で怒ったら、めずらしくきょとんとした顔でクラウドはレスタを間近に見やった。
 声を落として静かに怒るレスタはあまり見ない。それこそ昨日のあの一幕のときがそうだったくらいだ。それでも空気はいまとまったく違っていたが。
「…話って?」
 おかげで聞く耳を持ったらしい。クラウドはおとなしく身体を離して、その隣に腰をおろした。
「言っとくが、おまえが何者かって話ならいらねぇよ。そんなもんは必要ない」
 聞きたくない、とはクラウドは言わない。必要ない。ただそれだけだ。
 囲みが解けて自由になったレスタは、背もたれにゆったりと身体を預けてクラウドを見やった。
「べつにそんな話をする気もなかったけどな。…何者かどうかはともかく、どんな肩書きがあるわけでなし」
 ただ少し、面倒なだけだ。
 生まれの家柄だけならレスタはクラウドの上を行く。
 それでいてレスタには世間的に認知された身分がない。クラウドのいうような何者でもありはしないのに、身近にレスタを知る人間はかれをそれぞれ特別な高みに置いている。そしてまたそこに彼らのさまざまな営みがある。
「身分も肩書きもねぇの? マジで?」
「ねえよ」
 ユアルと王弟のトロワでは、幼いユアルはやはり頼りないし、性格もおとなしい。かといって王の病臥を皮切りに厄介な継承争いが持ち上がるのもいただけない。
 それなら無用の火の手が上がるまえに暗躍でもして、ユアルを鍛えてやるのもいいかと思った。さいわい鍛えるのは幼馴染みのハルクで慣れてもいる。
 そうして先手を打つことで、あえて宮廷にも王室にも一線を引いてやるつもりだった。
「…命令慣れしてんのに?」
「してたってないもんはないんだよ。ただそういう環境で育った。それについてまでは否定しねぇけどな」
「そんだけってことか?」
「そんだけだ」
 嘘はついていない。
 昔と違って現在の宮廷にはレスタを支持する向きもあるが、それはあくまでも個々の交流であって、内裏府と古株のお歴々に意見したいということではない。
 レスタが望まない限りかれを王子と呼ばわることを彼らも良しとしないからだ。
「で、おまえはそこに帰るのか? 弟がいるから?」
「そう。何しろ頼りねぇもんだから……さすがに、このへんで鍛えとかねぇと」
 王室に関心はない。身近だとも思わない。
 そのはずが、国は違えどこうして深く関わってしまったのは、この国でも特秘中の特秘だった。いわばレスタそのものがすでに一国の特秘な存在だというのにだ。
 よくよく考えると皮肉な話かも知れない。
「…なんか、つくづく面倒な話になってきたな…」
 ぽつりと。静かな雨音のようにレスタは呟いた。
「ほんとは自分のことも手いっぱいだってのに」
 滅多にないレスタの弱音に、傍らのクラウドはくちを挟まず黙ってそれを聞いている。
 だるくて苛立ちのやまないレスタは、カウチに凭れたままそんなクラウドを横目に睨んだ。少々雑に伸ばした手で黒いドレッドを引っ張ってやると、べつに引き寄せたわけでもないのにクラウドはあたりまえのようにレスタへ顔を近づけてきた。
「だから、そんな面倒ならここに居ろって」
「…おまえも充分めんどくせーよ」
「だったらこっちに丸投げしろ。ごちゃごちゃ考えてる間に俺が全部かたづけてやる」
「………」
 そういう手もあるけどな。言わずにレスタは横目で笑った。
 そんなことぐらいクラウドの龍神と遭遇した時点で真っ先にでも考えついた。
 どのみち身分も肩書きもない身だ。いっそあの国のしがらみから完全に離れてしまえば、何もかもを放棄してしまえば、きっとレスタはずいぶんと気が楽だ。
 ――ただし、それはいずれもレスタの流儀ではない。
 薄く閉じかけた瞼にクラウドの唇が触れた。
 顔を背けてゆるりと逃げたら、次は耳もとにまた触れた。まるで当然のように。
 これも同じくレスタの流儀ではなかったが、何故なのかもう抵抗も浮かんではこなかった。
 不思議なことにこの男を怖いと思ったことがない。


 その後も昼過ぎまで、クラウドと他愛のない話をして過ごした。
 昨日読んだナーガ黎明期のことや、双龍帝のこと。
 隙あらば懐の中に引き寄せようとするクラウドから逃れつつ、何度目かの攻防の末、微熱の引かないレスタはクラウドの腕に閉じ込められた。
「…寝てろよ、本の話はまた聞くし」
「…おまえにあやされるとか、そこはかとなく屈辱だわ…」
「おまえほんと可愛くねえよな…」
 くく、と喉の奥が楽しげに鳴った。 

「…やっぱりここに居ろよレスタ」
 甘い誘惑に聞こえるなんておかしな話だ。
「…なぁレスタ」
「うるさい……だるい、眠い」
 色気ねえなと笑う声が聞こえたので、あってたまるか、と応えておいた。
 目を閉じて、抱き込まれた懐の中で身体じゅうの力を抜いた。
 次に目をあけたときは日没近い夕刻だった。
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