龍神は月を乞う

なつあきみか

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第四幕〈クラウド〉

宿主と龍の御徴 序

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 毎年八月、ナーガでは降臨の儀と称する朝廷神事が執り行われる。
 例年どおりであれば半月ほどで整う準備だが、今年はふた月もまえから各所への通達が発布され、祭壇を戴く神殿に至っては関係者以外立ち入り禁止だ。
 いささか仰々しい気もするが、さすがに今年は例年どおりというわけにはいかない。
 それを象徴するように、降臨の儀におけるカムリ・クラウドの在りようは、他の貴族たちの誰とも違った。
 それだけならどうということもなかった。
 そんなことは今更の話で、とっくに分かっていると思っていた。

 いまにして思えば、最初の兆しは成人の儀を終えた直後のことだ。
 一昼夜がかりの不眠と断食が明け、就寝のまえの湯浴みをしていたときだった。首の後ろに触れた手が、皮膚に微かな違和感を覚えた。
 このときはうっかり引っ掻いたか何かしたあとの、小さな傷跡ぐらいに考えていた。
 それから数日後、鏡に映った己の金眼を見て、クラウドはまた違和感を覚えた。
 はっきり何がどうとは言えないが、虹彩の模様がこれまでとは少し違う気がする。
 とはいえ模様を見分けられるほど己の眸をまじまじ見つめたことなどないし、光の加減で瞳孔や虹彩が変化するのはごく自然なことだ。
 ここ数日ふとしたときに妙に視力が良いように感じるのも、逆ならともかく日常に何ら支障はない。
 そもそもまったく不本意ではあるが、この身には龍の神威が宿っている。ならばこの程度の僅かな違和などこの身にはいずれも些細なことだ。
 思い至ったところですっかり興味を失った。
 それきりクラウドが己の金眼に注意を向けることはなかった。


「…っ、」
 寝台に横たえた身体がびくんと弾んだ。
 穏やかな眠りの淵から強引に呼び覚まされたクラウドは、その暴力的なまでの衝撃に思わず寝返りをうった、――までは、良かったのだが。
「うっ、…く、」
 背中を、激しい痛みが襲った。
 続けざまに細かく、それでいて鋭い痛みだ。
 皮膚の表面を内からぶちぶちと突き破るような激痛が、クラウドの背中に曲線を描いていく。
 左の肩胛骨から頸椎の下、右の肩胛骨をたどって、脊椎の中ほどを渡り、下から上にぐるりと円を描いて、最後は腰椎から左の腰骨の下へ。
 この曲線には覚えがあった。むしろよく知っていた。
「…っ、なんなんだ、いったい…っ」
 その背を住処と定めた霊獣の、神威を示す龍の御徴みしるしそのままに。
 クラウドの皮膚を突き破り、黒龍の鈍色の鱗がその背にびっしりと並んでいた。



     + + +



 展覧会の終了を待たず、くだんの絵はレスタのもとに届けられた。
 通常は終了後の引き渡しになるところだが、購入者が王弟殿下だったことと、その殿下が速やかな搬出を希望したことで、協賛のフロスト公爵が主催側に話を通してくれたらしい。
 さいわい広範囲にわたって展示品の配置を変えるほど大きな絵ではなかったし、何よりめずらしいトロワの我儘にフロスト公爵は喜んでいたという。
 そういえば公爵は先代王の末弟なので、当代のハーディン王とは叔父と甥にあたる。つまりトロワとも正しく叔父と甥の血縁関係だ。
 悋気の強い正妃を母に持ったハーディン王と、貴族位ともいえない騎士家の妾妃を母に持ったトロワ。それぞれの母親の影響からかどちらも内向きな性格の異母兄弟だが、公爵には幾つになっても可愛い甥っ子なのかもしれない。
 すでに臣籍に下って久しいとはいえ、公爵の血統は厳然たる正統の王族だ。だからこそ彼らの叔父として、レスタの大叔父として、いつも濃やかな気遣いをみせてくれる。
 そんなフロスト公爵のはからいで届けられたトロワからの贈りものは、早速レスタの住まうノエル邸の私室に飾られた。
 静養中の離宮でクラウドが私邸を用意しろと言っていたので、近いうちに相応の邸宅を城下で見繕うつもりではいるが、もともと王都には市街用の小邸宅がいくつも建ち並んでいる。それを季節や気分で取っ替え引っ替えするのが貴族の道楽のひとつだ。
 どのみち建国祭の三日間を挟んで前後の数日を過ごすだけだし、私邸ならその程度で充分だろう。
 それに使用するのはたぶん夜だけだ。
(あー…、けど、この絵は見せたいな…)
 なんだ盗み見かよ、とか何とかあの男なら言いそうだが、まあ喜ぶだろう。いつもの妙に凄みのある笑みを浮かべて。
 となると、建国祭の三日間は行事優先なので除外するとして、後日こっちの屋敷にも寄ればいいか。
 抱かれにくるかと言っていたぐらいだし、当然ながらやる気満々で来訪するんだろうが、レスタが長居したくない城内の迎賓館だの、居候先のノエル邸ではない場所を先に提案してくるあたり、あの男なりにレスタを慮っているのが分かるから。
 こちらも甘やかしたくなるというか、何というか。
 ああ見えてあの男、実はものすごく可愛い男だったりするのだ。
「……」 
 カウチからよく見える壁に配した風景画は、驚くほど自然に居室の内装や調度品とも馴染んでみえた。
 頭の隅でかれこれ三十分ぐらいはじっと眺めているなと思ったが、どうせ今日はもう対外的な予定もないし、時間を気にする用事もない。
 レスタは夏の陽が傾く時刻まで、ひとり静かにカムリの街並みを眺めていた。
 正しくはひとりではなく、ひとりと一匹で。
 手首から離れた鈍色の小蛇を手のひらで遊ばせ、ときにその小さな三角の頭を指先で撫でてやりながら。


 翌朝。
 いつか感じた明け方の空気とは異なる、澄んでいるのに重苦しい気配にレスタは瞼を震わせた。
 自然な目覚めとは言いがたい、けれども不快とも言いきれない。奇妙な感覚だった。
 覚醒と同時に上体を起こし、寝台横のサイドテーブルに手を伸ばしてみる。
「…ナギ」
 いつもであれば花瓶の中から小さな蛇が顔を出す。
 差しのべた手に頭を乗せ、艶やかな鱗をすべらせて、するするとくるくると、定位置らしいレスタの手首に巻きついてくる、――はずが。
「ナギ?」
 再度呼んでも小蛇は姿を見せなかった。
 得体の知れない不安が過ぎったのは、虫の知らせか、巫者の予感か。
 レスタは花瓶を掴んで窓辺に向かった。
 カーテンを引き開け小さな花瓶を逆さに返し、手のひらに落ちてきた〈小蛇であるはずのもの〉の姿を確かめた。
「――…」
 蛇、だった。
 五月の終わりにレスタの窓辺へ落ちてきた、鈍色の鱗が美しい小さな蛇だ。
 それがぴくりとも動かなくなっていた。
 あれほどなめらかに、昨日もレスタの手のひらで遊んでいたのに。
「……まさか、」
 ゆるく握り込んでみると、小さいが確かな鼓動が手のひらにコトコト伝わってきた。――良かった、生きている。
 では、動かない理由はべつにあるということだ。
「………」
 とろりとした鈍色の鱗に包まれた、つぶらな金眼の黒い蛇。
 それが神懸かりであることをレスタは知っている。
 クラウドに宿る次代の龍が、天地を駆けてレスタのもとへ運んできてくれたのだ。
「…どういうことだ。…なにがあった?」

 ――くるしい。

 いとけない声がきこえた。


 夏の早い朝。
 ナーガではいまだ深い夜の闇だ。
「城代! ナーガに行く! 昼までに支度しろ!」
 寝室を出て居室を駆け抜けたレスタは、扉を開けるなり廊下に向かって声をあげた。
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