龍神は月を乞う

なつあきみか

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第四幕〈クラウド〉

宿主と龍の御徴 1

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 レスタが王都に移って以降、シドがレスタの周辺を離れたことはない。
 王都での最初の年は護衛も兼ねて側にいたし、正式な近衛が配されてからは表裏に渡って従者として仕えてきた。
 日常のお遣いから調査・探索に至るまでレスタの指示なら何でもこなすが、特に重要度の高いものはシドが直接動くことになる。
 逆に言えば、さほど重要でなかったり急を要する案件でないときは、シドから配下のバルトへと指示が下される。
 つまり現在シドが馬上にあることも、レスタの書簡を所持していることも、バルトではなくシドが果たすべき重要かつ火急の案件だからだ。
「…そろそろ馬を替えるか」
 シドは馬の首を撫でてやりながら、次の街に到着するまで早駆けの速度をわずかに落とした。

 暦が八月に変わった日の早朝だった。
 朝の鍛錬を終え自室に戻ってきたシドは、城代に呼ばれてレスタの私室に向かった。そして大至急、の言葉とともにレスタから書簡を預かった。
 正直なところ、何がどう重要なのかシドは詳細を聞いていない。
 もちろんそれ自体はべつにめずらしくもないし、役目を果たす上で知る必要もないことなのは分かっている。
 ただちょっと腑に落ちなかった。レスタがいつになく少し焦っていたのもそうだし、あの〈腕輪の蛇〉のこともそうだった。
 動かない、とレスタは言った。
 夜着のままの格好で、手のひらにとぐろを巻いた小さな蛇をのせて。
 内心ぎょっとしたのは、当然だが蛇に驚いたからではない。あれが生きた蛇だと知らなかったからだ。
 レスタはあれを六月ごろから身につけるようになった。
 ほとんどは左の手首だったが、時折ゆるく首に引っかけているようなときもあった。
 いつの時代もどこの国も、殊に白と黒の蛇というのは宗派を問わず神聖な神の遣いとされている。
 ゆえに蛇の姿をそのまま装飾品の意匠に用いるのは不敬であり、場合によっては冒瀆だと非難されることもある。
 これにはシドも不敬だと思った。贈り主が誰だか分かるだけに、それが龍神を奉る国の高位貴族だからこそ、やはりどこまでも驕慢に過ぎる男だと。
 身につけていたのがレスタでなければ、王族でなければ明らかに禁忌だ。
 けれどレスタを厭う者たちにはそれすらも非難の的になり得た。
 さいわい宮廷には半袖の上衣を着用する習慣がないことと、ほとんどの貴族がレスタと接する機会を得ないことで、レスタに近しい者以外は誰も気づいていなかったが。
 それにしても、まさかあの腕輪が本物の生きた蛇だなんて誰が思うだろう。
 あれは蛇の腕輪ではなく、正しく腕輪の蛇だった。

 その蛇が、動かない、とレスタは言った。

 動いているところなどシドも誰も見てはいないが、ではそもそもあの蛇はどうやってレスタのもとにやってきたのだ。
 ナーガから届けものがあったという話は聞いていない。聞いていないだけで、なかったという話もまた城代からは聞いていなかった。同様にハルクからも、屋敷の使用人たちからもそうだ。
 けれどあれが隣国の、あの男と係わりのあることだけは疑いようもない。
 ナーガが龍神を奉る国で、黒い蛇が神の遣いだからというのもあるが、シドにとってはそれ以上に、レスタが動揺していたからだ。
 あのレスタが。
 着替えも終えていない起き抜けの姿で、先触れを伝える書簡をシドに託し、自らも同日中に発つと言っていた。
 朝の時点で昼には出発するつもりのようだったが、騎馬での強行移動に慣れた者ならまだしも、いくら即断即行のレスタでもこれは叶わなかったはずだ。
 急ぐことを優先するなら事前の準備がままならないし、そうなると根回し必須のお忍び行脚は難しくなる。ということは、どんな説明であれ内裏府には隣国への旅程を報告しなければならない。
 先触れのシドが出発したのは二日まえだ。
 レスタのことだから、公爵や王弟を味方につけて上手く話を進めただろう。
 それでも昨日のうちに発てていれば良いほうかもしれない。突然のことに一行の旅支度が手間取って、ようやっと今日の朝、ということも充分に考えられる。
 どちらにせよレスタは急ぎたがっていた。
 あの小蛇が動かなくなったからといって、それが今回のレスタの行動とどう係わるのかシドにはよく分からない。
 いくらナーガが龍神の国で、あの男がナーガの高位貴族だとしても、――蛇は蛇だ。
 神の遣いを否定するのではなく、あの蛇をそうと位置づけるだけの根拠がない。
 けれどそれを云々するのもシドの領分ではなかった。
 レスタにとって重要な案件だからこそ、直接シドが先触れに立った。ならば、シドはこれを全うするのみだ。



     + + +



 しかし、そうは言っても、だ。
 さすがに今回は春の療養ほど円滑に進む話ではなかった。
 何しろ肝心の要件がはっきりしない。
 いくらレスタが宮廷の気軽な行事にすら顔を見せず、個人主催の茶会や夜会などにも応じないとはいえ、その身分はれっきとした第一王子だ。
 将来的に王位を継がないというだけで、王族であることに変わりはない。
 レスタが何かを積極的に行わないことに難癖をつける者はいないが、逆に何かを積極的に行うとなると、各方面からさまざまな難癖や横槍が入る。
 レスタなら何でも気にくわない老害ども(トロワ命名)と、そろそろお近づきになりたい下心派(バルト命名)だ。
 良く言えば目立つし、悪く言えば腫れもの扱いの王子さまだからこそ、その動向に注目が集まるのも宮廷ならではと言えるのかもしれないが。
 春までは対立関係だったはずの王弟ともいつの間にか親しくしているし、先日の侯爵家と辺境伯家の子息が起こした小さな諍いも、両家に拗らせる隙すら与えず一気に両成敗したらしい。
 これまでも殿方たちの密かな話題にのぼることは多々あったが、ここ最近は茶会の席などでも令嬢たちの噂の的になっている。
 良くも悪くも宮廷貴族の興味をくすぐる王子。――というのは、その言葉のとおり、権威にとっても「善し悪し」だ。
 レスタが体制をゆるがすような人物でないことは内裏府の官吏なら誰でも知っているが、その一方で頭が固くて考えの古い貴族ほどレスタのことを何も知らない。
 西と南の辺境伯子息と懇意なのも、そこだけを切り取れば確かにちょっと胡散臭い響きを孕むが、実際のところはあのハルクとイゼルだ。
 それでも彼らはレスタの粗探しに余念がない。
 ユアルを手懐け、トロワを籠絡した。あれは腹に二心のある王子だ。不穏の胤だと。

 誰かが言った。
 あの王子を容易に王都から出すのは迂闊ではないか。
 確たる理由もなく王都を離れるのは直系王族として如何なものか。
 聞けば王都どころか国外だというではないか、宮廷議会の決定もなしに騎士の手配など以ての外だ。

 ――最後のひとつはまあ、ある意味正論だと言えるが。
 騎士は騎士でもレスタの警護は王室騎士団内の専属隊なので、手配に関する他方面への配慮はあまり必要ないのだが、さすがにすべてを勝手に右から左へ動かすというのはよろしくない。
 そして他の意見はというと、表向きの言葉がどうあれ発言者の趣旨は単なる難癖だ。
 あるいは本気で見当違いの不安を抱えているのか。
 どちらにしても迷惑な話だった。


 今日も小蛇は動かない。
 それでも小さな鼓動だけは懸命にレスタへ伝えようとしてくる。
「レスタ…、とりあえず座ってお茶でも飲んで」
 室内をぐるぐる歩きまっていたレスタにトロワが声を掛けた。
 内裏府で話を聞きつけたというトロワは、レスタの住まうノエル邸までお忍びでやってきたらしい。
「…もういっそ俺も忍んで行くか…、あーあのくそじじいどもマジで使えねえ…」
 憤りのまま勢いよく椅子に腰をおろしたレスタは、ある意味とてもレスタらしい呟きをもらした。
 そんな悪態にもすっかり慣れたトロワは苦笑いだ。
「使えないのは確かだけど…、さすがにお忍びで国外は無理じゃないかな」
 レスタの独断で近衛を動かしても、あるいは動かさなくても、王室騎士団にはお忍びがばれるだろうし、そもそもの移動距離がお忍びどころの話ではない。
 しかも前提として、レスタの急すぎる国外訪問に宮廷議会は難色を示している。
 ということは、これに反して強行すればあとから少々政治的というか、意図しない方向の騒ぎにもなりかねないわけだ。
「……」
 レスタ自身は最悪それでも困らないが。――いやいや、さすがにこの選択肢はユアルに悪いから駄目だろう。
 ちょっと冷静になったレスタは椅子に凭れて息を吐いた。

「フロスト公爵に任せておけば大丈夫だと思うよ」
「…わかってる」
 きっとそれがいちばん穏便で、いちばん話も早い。
 焦ってもどうにもならないのだから、ここは待つしかないのだ。分かっている。
 分かっていても、落ち着かない。

 ――クラウド。
 声には出さず名前を呼んだ。
 ナギが動かなくなった朝から、今日で三日が過ぎていた。
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