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6章
60【破綻メモワール】
しおりを挟む啄ばむように口付けると、細い腕に抱き返される。そんな出迎えは初めてで、王は少なからず驚き、ますます愛しさが込み上げた。
「ずいぶん甘えて、可愛い子だね。寂しかったのかな?」
「うん。俺、凄く寂しがりなんだ」
そう言って笑う丹生は妖しく、美しい。演技だと一蹴できない説得力があるのは、言葉や態度に嘘がないからだ。実際、丹生は酷く寂しがりで、甘えたがりな気質である。
「少し寄り道をしていたんだ。君にこれを渡したくてね」
「なに?」
差し出された紙袋の中から、見覚えのある小箱が2つ出てきた。更科から貰った物と同じ指輪と、14年間愛用してきた、蛇を象ったシルバーリングだった。見慣れた品に、喜びと安堵が混ざったような思いが込み上げ、涙が溢れそうになる。
「覚えててくれたんだ」
「もちろんさ。何を贈ろうか迷ったが、まずは馴染みのある物が良いかと思ってね。無くしたことを、酷く残念がっていたから」
「凄く嬉しい。有難う」
指に嵌めたリングを眺めると、体の一部が戻ってきたような気がした。
己の所有物がすべて取り去られた時、まるで自身の輪郭さえ虚ろにぼやけるような感覚に襲われた。装飾品や衣服など、普段は意識もせず、移り変わりも激しい物だが、自分が選び、好んで身に付けるという意味では、アイデンティティのひとつなのだ。
特に蛇型のリングは、シルバーとは思えない輝きを放ち、紆曲して人差し指に収まった様を見ると、これこそ自分だと思える。
「喜んでもらえて良かったよ」
「ずっと大事にしてたから、無いと落ち着かなかったんだ」
「その蛇を象った物は、とても君らしい。よく似合うね」
「これ、14年前にひと目惚れしたんだよね。モチーフの割に、繊細なデザインが好きなんだ」
「こちらはまた趣が違うが、とても品が良い」
丹生は中指のリングを撫でながら、どう答えたものか、数秒、考えた。
「これは……最近買ったばかりで、やっぱりデザインが気に入ってる」
「君はセンスが素晴らしいな。どちらも君を引き立てているよ」
内心、ほっと胸を撫で下ろす。相当な値段だと聞いていたため、自分で買ったと言うには無理があるかと思ったが、気づかれずに済んだようだ。
「私が居ない間、変わったことは無かったかい?」
「なんにも。あるワケないって分かってるくせに」
「意地が悪いな。私が安心できるはずがないと、知っているくせに」
「ここまでしてもまだ不安?」
「当然だ。私は日本を高く評価している。君たちはとても優秀だからね。どんな瑣末な情報でも、掴まれれば終わりだ」
その言葉に、丹生は宙を見つめて「そうかもしれないね」とぼんやり答える。
「璃津、元の生活が恋しいか?」
丹生は質問の意図が分からず、王を見返した。ここへ連れて来られてから、その手の質問は初めてなのだ。一体、どういうつもりで聞いているのだろうか。出掛けたことと、何か関係があるのだろうか。その表情はいつも通り穏やかで、まったく真意が掴めない。
「なんで急にそんなこと聞くの? 何かあった?」
「いや……。ただ、君の本音が知りたかっただけだ。君は泣き言のひとつも言わないから、私のほうが心配になる」
「優しいんだね。でも困るなぁ、その質問は」
「何故? 考えるまでもないんじゃないのか?」
ふっと軽く息を漏らし、丹生は目を伏せて答えた。
「だったら良いんだけどね……。なんか、自分でもよく分からなくなってきたよ」
「窮屈だと思わないのか、こんな生活は」
「元々、そういうタチだから。1年近く世間からドロップアウトしてた時期もあったし、基本的に無気力で自堕落なんだ」
「しかし、そんなに無防備だと、本当に呑まれてしまうよ」
「貴方に? ああ……それも良いかもね……」
丹生は淡く、儚げに微笑む。それは守ってやらねばという庇護欲と同時に、支配して服従させたい征服欲を掻き立てた。なぜそんな気持ちになるのか、王にも分からない。
強いて言うなら、丹生の目かもしれない。諦めているようでいて、やれるものならやってみろ、と挑発的な光を宿しているようにも見える。煙のように掴みどころがなく、自分より強い相手かどうか、推し量っている節があるのだ。
「そんな顔をして煽るなんて、どうなっても知らないぞ」
「煽ってなんか……っん、ン!」
いきなり押し倒され、噛み付くように唇を塞がれる。いつもより強く手首を掴まれ、乱暴に頤を押さえつけられると、興奮が背筋を駆け抜けて甘い声が漏れた。
「優しくしたほうが良いと思っていたが……君はどうやら、激しいのが好みらしいな……」
首を絞めるように押さえられ、低い囁きにぞわりと欲情する。与えられる鈍い苦しみに、痛みに、理性も余裕も吹き飛ばす悦びが、体の奥から湧き上がる。見下ろしてくる、強い瞳がたまらない。無意識の懇願が口から零れる。
「ああ……ッ、もっと強く……酷くして……。お願い……俺を壊して……」
欲情しきった目で見つめられ、王はすっかり余裕をなくし、獣のように覆いかぶさった。首筋や鎖骨を強く吸われ、噛まれ、凶暴に突き揺さぶられながら、丹生は口元に弧を描いた。
やはり、自分はとうに狂っている。産まれた時から壊れていて、歪な愛情で育まれた。こんな状況だからおかしくなったわけではない。朝夷との異常な駆け引きを、10年以上も楽しんできたのがいい証拠だ。
実のところ、涙の跡を残したのは故意である。それを見て王がどんな反応をするのか、好奇心と心理戦でしかけた物だった。今は、不毛なゲームの対戦相手が、朝夷から王に変わっただけだ。
呑めるものなら呑んで欲しい。この狂気をすべて呑み込むことができるなら、誰だって構わない。
真っ当なフリをして前を向いても、結局、同じ夜に留まっている。新しい朝がすぐそこまで来ているのに、振り返って見ようともしない。現実から逃避して、快楽に浸っていられるならそれで良い。
一心不乱に自分を求める、眼前の男だけがリアルだ。来るか分からぬ助けも、生温い思い出も要らない。そうして、何もかも見て見ぬ振りをする。今までそうしてきたように。どうでも良かったのだ、最初から。
(……でもやっぱり、壊される相手くらいは、選びたかったな……)
全身を冒していく快楽の中、いやに冷えた頭の芯で、丹生は幼い頃を思い出していた。
「貴方は本当に美しい子ね。御本尊様に生き写しだわ。立派な宗主となって、迷い苦しむ衆生を救いなさい。それが貴方の運命なのだから」
そう言って育てられた。丹生は新興宗教『多生教』の本家、宗主の子として産まれた。
新興宗教と言っても、一朝一夕でできたカルト集団ではなく、100余年前の戦争のおりに、広く日本に布教され、今なお熱心な信者を多く抱えており、政界にも影響を与える、巨大組織である。
元は密系仏教の流れを汲んだもので、教義も仏教のそれと似通っている。大きく違うのは、崇める本尊と目指す境地だ。
多生教の本尊は黒闇天という神で、求める救いは幾度も輪廻を巡り、多くの生を得ること。要するに仮想不死だ。黒闇天は非常に美しい青年の姿をしており、黒い火焔光背に燃える黒髪をなびかせ、右手に大扇、左手に黒い火焔宝珠を持っている。生と死を司り、虚無の中に情熱を灯し、天寿全うの助けをしてくれる。
病気や怪我からも守ってくれることから、戦中の兵士からは武運長久にもご利益があるとされた。もし戦死しても、輪廻転生で再び生を受けられるという思想がよすがとなり、多生教は爆発的な人気を博したのだ。平和な今の世であれば、馬鹿らしいと一蹴される話でも、常に死を身近に感じ、恐怖に震える日々を送る者たちには、希望の光だった。それが戦争というものだ。
丹生は、物心ついた頃から「美しい」と信者から賞賛されていた。まるで自分に本尊を映し見るような、縋るような視線が、四六時中、つきまとう。
丹生には、居るかも分からぬ神仏を、熱心に信仰する人々が奇怪に見え、自分へ向けられる視線に狂気を感じた。美しいという賛辞が、自分自身ではない別物の投影だと、年端もいかぬうちに理解していた。
丹生の神秘的で繊細な美しさは、実際に信者を狂わせることも、度々あった。初めて成人男性の性器を目にし、触れたのは、5歳の頃だ。
住み込みの信者に物置へ連れ込まれ、それに触れさせられた。己の手に吐き出される白濁が、幼心に酷く不快だったが、「これは救済です。どうか俺をお救い下さい」と迫られ、おかしいと思いながらも断れなかったのだ。幸い、すぐ他の信者に発見され、男は破門された。
その後も男女問わず、体を触られたり、触らされたりと、性交渉寸前の行為を迫られることは、少なくなかった。
どれも大事に至る前に露見し、母は息子の身が穢されなかったことを、神の救いだと言った。丹生はただ運が良かっただけだと感じ、母が危惧しているのは、穢れて神聖が失われ、信仰価値がなくなることだと悟った。
母は、母である前に宗主であり、自分は、息子である前に次期宗主なのだ。いつしか自分は、信仰を集めるための道具、生きる偶像だと考えるようになった。
元々、神や仏などまったく信じておらず、霊感体質でもなければ、特殊能力を持っている訳でもない。少しばかり見た目が整っているだけで神と崇められ、神聖視されることは、苦痛で不快で、気味が悪かった。
成長するにつれ、日に日に息苦しく、生き苦しくなっていった結果、次期宗主にあるまじき奔放な言動を繰り返し、遊び呆けた。ついには大学を中退して行方をくらまし、一方的に実家と縁を切ったのだ。思えば、あれが1番大きな遁走だったかもしれない。
公安調査庁へ入れたことは、丹生にとって非常に幸運だったと言える。なにせ、突如、失踪した跡取りの一人息子を、多生教が総出で探し回ったからだ。
官界にも多くの信者を持つ組織から身を隠すのに、ここほど都合の良い場所はなかった。昼行灯の無能だと甘く見られていた公安庁には、多生教の息がかかっていなかったのだ。丹生の素性が徹底的に隠されているのには、そんな背景があったのである。
汚されたい、壊されたいと願うのは、無意味に敬われ、神聖視されてきたことへの嫌悪が原因だと、今になってようやく理解した。
(こんな状況でも……いや、だからこそ、己を顧みるには最適だったってことか。皮肉なもんだな……)
溺れきれない悦楽の中、丹生はひっそり自嘲した。
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