九段の郭公

四葩

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6章

59【堂々巡り】

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 ワンが出かけてからしばらく経ち、丹生たんしょうがシャワーを浴びてベッドに横たわっていると、おもむろに鉄扉がノックされた。初めてのことに驚いて飛び起きる。ワンならば勝手に入ってくるし、部屋の清掃は眠っている間にされるため、ワン以外の人間は一度も見ていない。
 返事をするべきか迷っていると、解錠される音がして扉が開いた。入って来たのは黒いスーツに身を包んだ、長身で体躯たいくの良い華国人男性だった。黒髪を短く切りそろえ、濃い眉に凛々しい鼻筋、無表情だが鋭い目付きをしている。

「お部屋の清掃をさせて頂いて宜しいでしょうか」
「あ……はい。お願いします……」

 男は丹生と目を合わせず、流暢な日本語で告げるとバスルームから使用済みのタオルを回収したり、ゴミ箱を片付けたりし始めた。動作にまったく無駄がなく、所作も洗練されている。マフィアというより軍人みたいな動きだな、と思った。考えてみれば、大した差は無いのかもしれない。日本とて、どちらがヤクザか分からない警察が居るくらいだ。秘密結社の要素が強い璃弊リーパンなら尚更、日本のチンピラと同じ土俵で考えるべきではないのだろう。
 丹生はベッドから降り、部屋の隅に所在無く立って男の仕事を眺めていた。キビキビと働く人の横で突っ立っているというのは、なんとも居心地が悪い。男は最後にシーツを手早く回収し、再び声を掛けてきた。

「新しいシーツとタオルは、すぐお持ちします。何か必要な物はございますか?」
「い、いえ……特に無いです……」

 丹生の言葉を受けると、男はさっさと部屋を出て行く。呆気に取られて立ち尽くしていると、間を置かずして替えのタオルなどを持って同じ男が戻ってきた。再びてきぱきとシーツを張り、バスルームへタオルを置きに行く。
 ワン以外の人間に会うのが久し振り過ぎて緊張していたが、だんだん馬鹿らしい気分になってきた。ふっと息を吐いて側の椅子に腰掛け、のんびり清掃が終わるのを待つことにした。
 黙々と作業する姿をぼんやり眺めていると、能面のように無表情な男と目が合った。男は一瞬、何か言いたそうに眉をひそめた気がしたが、すぐにうつむいてしまった。

(なんだ、今の顔……。意味ありげに見えたけど……。気のせいか……?)

 怪訝に思っていると、作業を終えた男が立ち上がった。相変わらず目を逸らせたままだが、やはり苦虫を噛み潰したような表情だ。

(やっぱり妙な顔してるな。なんだろう……侮蔑か? 怒りか? 男のくせに大切な首領をたぶらかしやがってー、とか? あー、はいはい。その気持ちはよーく分かるぞ、青年よ。主に忠実であればあるほど、こんなのにうつつを抜かして危ない目にあって欲しくはないよなぁ)

 などと思考を巡らせていると、男がおずおずと口を開いた。

「あの……宜しければ、お食事をお持ちしましょうか……?」
「エっ?」

 表情とは裏腹な、遠慮がちな声音に虚を突かれ、思わず返答が裏返ってしまった。

「しばらく何も召し上がっていないご様子なので、少しでもその……何か好物などございましたら、と……」

(え、なに? なんで急に歯切れ悪くなったんだ? まさか俺を気づかってくれてる? いやいやいや、無い無い。あり得ないだろ……)

 意図が掴めずに困惑していると、男は慌てて深々と頭を下げた。

「差し出がましい真似をしました。申し訳ございません」
「ああ、いやいや! そんな……」
「何か御用がございましたら、ドアをノックしてお知らせ下さい。では、失礼致します」
「は、はい。有難うございます……」

 丹生が言い終わらないうちに、男はさっときびすを返して出て行ってしまった。

「……なんだったんだ、今の……」

 違和感だらけの男の態度に首を捻りながら、煙草に火をつける。

(拉致監禁の経験なんて無いからよく分かんないけど、「丁重に扱え」とか言われてんのかな。考えてみれば俺、首領の愛人みたいな立場になるのか。捕虜とか人質じゃないから、部下も対応に困って動揺してるとか? 待てよ、拉致監禁なら昔、長門ながとにされたことあったわ。って、あれはまた話が違うか。それより、用があったらドアを叩けって言ってたな。つまり、すぐ外に見張りか御用聞きが張り付いてるワケか。ますます脱走は無理だな。日本語が分かる部下が居るのもはっきりしたし、迂闊に独り言も言えないぜ。そもそも、ここに監視カメラや盗聴器がついてる可能性も高いしな……)

 紫煙を吐きながら考えを巡らせる。冷静に思考できる時間は貴重だ。

(しかし、結局ここがどこなのかは分かんないままだな。電波が届くってだけじゃ、さすがにヒントが少なすぎる。ワンが出かけた以上、既に国内じゃない可能性も高い。だとすると尚更、迂闊に飛び出すのは愚策か……。うちと華国は政治的に犬猿の仲だし、ワンが政界にまで食い込んでるなら、国交問題になりかねない。もしここが華国だとすると、俺はスパイだから即逮捕じゃん。あー、詰んだわ、これ)

 考えれば考えるほど、八方塞がりになっていく。
 こんな時、他のクロスならどうするだろう。隙をついて脱出するか、救出を待つか、少なくとも諦めるという選択肢だけは選ばないだろう。もちろん、自分もまだ諦めるつもりはない。
 しかしこの状況が数ヶ月、数年単位にまで及んだらと考えるとゾッとする。
 組織としては、調査官1人を切り捨てれば済む話だ。自分とて、さっさと諦めて身も心も明け渡してしまえば楽なのではないかと、頭の隅から弱い心が囁きかけてくる。
 生来、丹生は流れのままに身を委ねる性分だ。長い物に巻かれ、好きなことや楽な道だけ選びとり、嫌なことや面倒事を避けてきた。
 ワンは優しく接してくれる。セックスは気持ちいいし、生活は不自由どころか、贅沢三昧する余裕もあるだろう。なにせ大物マフィアの首領だ。自ら身を差し出す女も男も、山ほど居るはずだ。ただしその分、リスクも高い。
 もしもワンにすべてを捧げた後、飽きて捨てられたらどう生きていけばいいのか。自らマフィアの愛人に身をやつしたとなれば、再び公安庁へ戻ることは難しいだろう。体裁が悪すぎるうえに、二重スパイを疑われるのは確実だ。
 華国でいきなり放り出されてしまえば、パスポートも身分証も持っていない自分は不法入国、不法滞在者になる。運良く領事館まで辿りつけたとしたら、まだ弁明の余地があるかもしれない。かと言って、今すぐこの状況から脱する術も思いつかない。
 最初から考えるだけ無駄だったのだろうか。選択肢など、ワンに手繰り寄せられたあの日から、ひとつも無かったとしたら。自分にできたのは、ワンに捕まらないことだけだったとしたら。

「時すでに遅し……か」

 堂々巡りの思考に疲れ果て、丹生は煙草を揉み消し、シーツにくるまって目を閉じた。



 静かに鉄扉を開けたワンは、ベッドで丸くなって寝息を立てている丹生を視認して安堵する。脱走はほぼ不可能だと分かっていながら、扉を開ける直前はいつも不安に駆られるのだ。
 まるで幻のように消えてしまっているかもしれない。この状況に絶望して自害しているかもしれない。彼の仲間が連れ戻してしまったかもしれない。様々な嫌な予想が脳裏を駆け巡る。彼の姿を見て、触れて、幾度も愛して、ようやく安心できるのだ。
 しかし、ひとたびこの部屋から出ると不安は再来する。出来ることなら片時も目を離したくない。四六時中、側に置いておきたい。だが、それはまだ出来ない。彼を取り戻すために、公安庁はもちろん、外務省や国防省まで動いている。出茂会いづもかい逢坂おうさかも、彼の失踪に気付いたらしい。
 日本帝国が総力を挙げて彼を捜索しているのだ。ほとぼりが冷めるまで、彼に繋がる情報は些細な物でも漏らせない。日本の警察やインテリジェンス組織は優秀だ。僅かでも痕跡を残せば、必ず見つかるだろう。
 何より、彼はまだ諦めていない。一見、現状を受け入れているように見えるが、瞳の奥には強い意志が宿っているのだ。こちらが少しでも隙を見せれば、彼はきっとあっさり、この手からすり抜けていく。
 彼が優秀なエージェントであることは、身のこなしや挙動を見てすぐに分かった。感性の鋭さと天性のセンスで、その場におけるベストな立ち居振る舞いを即座に理解し、迷わず実行する器量がある。下手に考えない分、こちらも動きが読めないのだ。
 敵に回すと非常に厄介な相手である。しかし、それすら強烈な魅力となって惹きつけられるのだ。
 これまで様々な男女と色恋を経験してきたが、よもやこれほど誰かに溺れる日が来るとは、ワン自身でさえ思っておらず、今もまだ信じられない事態だった。
 眩しいほどの明るさと、深淵を覗いているような危うさを隣り合わせた、太極図のような存在。初めて出会う、正に理想的で希少な人間だ。そんな人物が今、目の前に居る。まるで、世界にひとつだけの宝を手に入れたような興奮を覚える。
 起こさないよう、静かにベッドへ腰掛けて寝顔を覗き込んだ。よく見ると、頬に涙の筋がついていた。やはり、かなりの精神負荷がかかっているのだろう。心苦しくなるが、今は耐えて貰うしかない。そのために出来ることは何でもしよう、とワンは強く思った。
 そっと涙の残渣ざんさを拭ってやると瞼が動き、数度の瞬きの後、ぼんやりとこちらを見上げてきた。

「……ルイ……?」
「起こしてしまったか、すまない。まだ眠っていて構わないよ」
「んん……いや、起きる……」

 丹生たんしょうは横たわったまま、ワンの首に腕を回して囁いた。

「おかえり」
「ただいま」

 たったそれだけのありふれた挨拶が、ワンの胸中をざわつかせる。「いってらっしゃい」と見送られ、「おかえり」と迎えられることが、こんなにも幸福感を与えてくれるものだとワンは知らなかった。
 これまで肌を合わせた相手は山ほど居たが、いずれも共に眠ったことはなく、情事の後は独り寝と決めていた。余計なリスクを避けるためでもあったが、それほど離れ難いと思った相手が居なかったからだ。
 歓喜に口元を綻ばせながら、ワンは丹生の華奢な体を強く抱きしめた。
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