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第八章
第九十夜 【悲風惨雨】
しおりを挟む──明け方、妙な胸騒ぎを抱えて眠りについた。
なんだか酷く、哀しい夢を見ていた気がする。
その不安は、静寂を切り裂いて確信に変わった。
心に綺麗な笑みを残したまま、お前は独りで逝ってしまった──
午前8時半。ヘッドボードの携帯が振動音を響かせる。
「……朱理、電話」
「ゔーん……こんな時間に、誰……?」
「網代」
「ええ……? なんで……」
寝入ったばかりで重い腕を上げ、黒蔓から携帯を受け取ると、受話アイコンをタップした。
「はぁい……」
『……朱理、起こしてすまん……』
「ん゙……どうしたの?」
『あのな……落ち着いて聞くんだぞ』
「なにー……?」
『…………先刻、瑠理太夫が亡くなったそうだ』
「────……」
端末の向こうから伝えられたその言葉に、朱理の思考は完全に停止した。
降り頻る雨音だけが厭に大きく響く様で、異変を察した黒蔓に掴まれた腕の感覚さえ遠く感じる。
気付くと反射的に携帯を放り投げ、襦袢姿のまま部屋を飛び出していた。
下駄を突っ掛け、ひたすら桐屋を目指して走る。叩き付ける雨に、髪も襦袢も直ぐずぶ濡れになった。
泥が跳ねるのも構わずに走り続けていると、軈て小さな人集りが見えてくる。
見世先には警察車両と救急車が停まっており、それが妙に生々しく、口伝が真実味を帯びてくる。
人集りを掻き分けて玄関口へ向かうと、じっと雨に打たれて立ち竦む屋城の後ろ姿があった。
「はッ、はぁッ……はぁ……っ、屋城、さん……」
息を切らせながら呼ぶと、その肩が僅かに震えた。屋城は此方を振り返らず、ただ黙って立っている。
すると、見世の中から薄い毛布を被せられた担架が運び出されて来た。端から垂れる瑠璃色の打掛は見覚えのある物で、全身から血の気が引いていくのが分かった。
竦んだ足は動かず、淡々と運ばれていく様を眺める事しか出来なかった。無感情な金属音を立てて後部ドアが閉められ、静かに救急車は走り出した。
集まっていた野次馬達も、何やら口々に囁きながら散って行く。
後には立ち尽くす屋城と朱理だけが残った。
どれくらいそうして居たか分からない長い間の後、背を向けたままの屋城が独語の様にぽつり、ぽつりと言葉を零す。
「……見つけた時には、もう息がありませんでした……。彼は……薬物中毒だったんですよ……」
「……そ、んな…………いつから……?」
「……恐らく、もう半年以上は経っていたでしょう……。客に違法薬物を強要されてから、辞められなくなっていた様で……。今朝、過剰摂取によるショックを起こしたそうです……」
訥々と概要を聞かされ、朱理は震える唇をきつく噛み締めながら屋城を睨み付けた。
「…………んで……なんで直ぐに対処しなかったんだッ!!!! こんな事になる前に……あんたなら何とか出来た筈だろうがッ!!!!」
「……そうですね……。あの子が貴方の元へ駆け込んだ時、気付くべきでした。あれが彼なりの求援だったのだと……」
その言葉にぞっとした。
そんなに前からという驚愕と、あの時にはもう中毒だったという事実が恐怖となって襲いかかって来る。
様子がおかしいのは薄々、分かっていた。もっとよく見てやるべきだった。
こんな結末を迎えるくらいなら、時間や仕事など気にせず、しっかり問いただすべきだった。
全ては結果論だ。
今更そんな事を思っても意味が無い事は、厭と言うほど分かっている。それでも思わずにいられない。
気付くと震えは全身に広がっていた。
「……私が知った時には、既に常用者でした……。しかし、いくら問い詰めても何も話してくれず……ましてや助けを求めてくる気配すらなかった……。相手は出茂会系列の人間でしたから……騒ぎにしては見世に迷惑が掛かると思ったんでしょう……。全く、馬鹿な子ですよ……」
「だったら何故、見世から登楼を拒否しなかったんだ……」
「……残念ながら、うちには貴方の見世ほどの力は無いんです……。彼処がその気になれば、いつでも簡単に潰されるんですよ……。うちだけじゃない、吉原にある見世の殆どがそうです……」
まただ、と朱理は思った。
自分の知る常識で物を言ってはならないと散々、思い知った筈なのに、やはり未だ解りきっていなかったのだ。
そう言えばあの時、瑠理も同じ事を言っていた。あの見世が特別なのだと、吉原は地獄だと。
自分が思うより余程、誰もが深く重い苦渋を孕んで生きているのだ。
「……申し訳ありませんでした……あの子を守ってやれなくて…………本当に……本当に、申し訳ありません…………」
謝罪を呟きながら語尾を萎れさせる屋城の背は、いつもより酷く小さく、頼りなく見えて、朱理はもう何も言えなかった。
手を伸ばして肩へ触れると、ぴくりとその身体が震える。
いつから雨に打たれていたのか、屋城の肩は冷え切っていて、窺う様に此方へ向けられた顔には、困った様な薄ら笑いが浮かんでいた。
それを見て朱理は悟った。嗚呼、この人は瑠理を愛していたのだ、と。
きっと今日が雨でなければ、その双眸から溢れる涙があったのだろう。
もしくは、涙すら出ていないのかも知れない。自分と同じ様に。
そっと朱理は屋城の腕を引く。
屋城は頽れる様に膝を付き、朱理の腹部に顔を埋めて凭れ掛かって来た。
早朝の見世先で2人きり、何を言うでも無く、ただそうして居た。
軈て嗚咽が漏れ、屋城の長い指が襦袢を引き裂かんばかりに縋りついてくる。
ごめんなさい、と繰り返される声が、朱理の鳩尾の辺りを鈍く震わせる。
雨音に掻き消されるその号哭は、朱理には耳を劈くほど大きく聞こえる気がした。
屋城の頭を抱いたまま空へ顔を向ける。激しい雨が頬を強かに打つが、どうでも良かった。
黙って濡れた屋城の髪を梳いてやる。
忘れもしない、夏の始まりの頃。瑠理をこの手に抱いて、こんな風に髪を梳いてやった。
いつもの様に触れ合わせた唇は柔らかく、温かかった。
無邪気に笑う顔、甘えてくる姿、嬉しそうに名を呼ぶ声、何もかもが未だきらきらと輝き、鮮明に思い出せる。
二度と彼には逢えないのだと、直ぐに受け入れる事は到底、出来そうもなかった。
──聞かせて欲しい。
共に過ごした日々に意味はあったのか。
あの日の事を悔やんではいないのか。
お前の心に気づけなかった俺を、怨んではいないのか。
誰かこれはただの夢で、俺は未だ目が覚めてないだけだと言ってくれ──
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