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第八章
第九十一夜 【金木犀】
しおりを挟む季節は晩夏から初秋へ移る頃で、何処からか哀愁を帯びた金木犀の香りが漂ってくる。
秋雨が降り頻る中、瑠理の葬儀の準備がしめやかに行われていた。
吉原は人気太夫の惨い死を悼み、置屋も揚屋も見世先に波模様の描かれた提灯を吊るし、弔いの意を示している。
木棺の横に立ち、朱理は静かに瑠理の死に顔を見ていた。
彼が借金の形に吉原へ売られて来た事は、再会して直ぐ聞いていた。
瑠理の父親はギャンブル依存症で、膨れ上がる借金に耐えかねた母親は出て行ってしまった。首が回らなくなった父親は、まだ高校生だった彼をあっさり人買いに売り飛ばしたのだ。
兄弟も居らず、親戚とも没交渉だった瑠理の唯一の旧友である朱理は、特別に身内として葬儀に出席する事になっている。
白装束で横たわる目元は落ち窪み、髪も肌も潤いを失くして乾ききっていた。
弔問客が樒の葉で死に水を取り、唇へ差す。それが直ぐに乾いていくのをぼんやり眺めながら、その水は何処へ吸い込まれているのだろうか、と考える。
すっかり様変わりしていた容貌に、初めは言葉も出なかった。これは本当にあの瑠理なのか、人違いではないのかと思わせる程の変貌だった。
こんな姿を見て見ぬ振りせざるを得なかった屋城の心痛は、想像を絶する物だっただろう。
会場には線香の匂いと弔問に訪れた人々、桐屋の娼妓らの啜り泣きが充満している。
本来なら身内の立つ場所に楼主と屋城が立ち、声を掛けてくる弔問客に対応していた。
屋城は泣き腫らした目の下に隈を作り、憔悴しきっている。自分は未だ、涙のひと粒すら流せてはいない。
あの日、迎えに来た黒蔓と網代に連れられて見世へ戻り、冷えた身体を風呂で温められて寝具へ寝かされた。
取り敢えず通夜と葬儀が終わるまでは休んで良いと言われ、その夜から屋城に付き添って桐屋に寝泊まりしている。
瑠理の遺体は司法解剖された後、薬物の過剰摂取が原因と断定されて返された。
死因が死因であり、更に晋和会が絡んでいると知った警察の対応は酷いものだった。おざなりに事情聴取が行われ、ろくな聞き込みもせず早々に引き上げていく様に、朱理は怒りを通り越して呆れ返った。
吉原警察署は晋和会、引いては出茂会と完全に癒着し、とうの昔に腐り果てているのだ。
通夜が終わると屋城は朱理に取り縋り、夜通し泣いた。
本当なら瑠理に縋りたいのだろうが、人前で取り乱す事は遣手と言う立場が許さなかった。
朱理の膝を涙で濡らしながら、屋城は掠れた声で問うてきた。
「……何故、いつも口付けを交わしていたんですか……」
「高校の頃から何となく始まって、俺たちにとっては友愛表現のひとつだったんです。一般的ではないでしょうけど、挨拶みたいな物でした」
「私には……あの子が貴方を愛している様に見えていました……」
「ええ、友達としてね。俺も同じです。他人から見れば、愛の形なんて分かり難い物だと思いますよ」
「……その愛を……温もりを……私にも分けてくれませんか……」
「え……」
「ほんの少しだけで良いんです……私にも触れさせて下さい……」
屋城はそう言って朱理を押し倒し、顔を寄せてくる。その瞳は夜の海の様に暗く、深く病んでいる事を如実に物語っていた。
朱理は屋城の精神の有り様が、想定より酷い状態なのだと知った。
はらはらと涙を流しながら、屋城は朱理の襦袢の隙間から首や胸元へ顔を埋めている。濡れた頬の冷たさと、這わせられる舌の熱さに、朱理は屋城の心中を察した。
──悲しくて哀しくて、寂しくて淋しくて、もうどうしようも無い。
この温もりに縋っていないと、到底、生きていられない……──
そう言っている気がした。
屋城は啜り泣きながらひたすら朱理の上半身へ頬擦りし、掌で撫で回す事を繰り返している。
それで少しでも気が紛れるのなら、と朱理は身を任せて目を閉じた。そうしていると、まるで自分の分まで屋城が泣いてくれている様で、不思議と心が静かになった。
屋城が疲れて眠るまで抱き合い、朱理はその背を撫でながら、一睡もせずに朝を迎えた。
ふと、桐屋の妓夫らしき男が、苦い顔をしながら屋城へ何か耳打ちするのが見えた。
それを受けた屋城は一瞬、憎悪の様な表情を浮かべて短く返答し、朱理へ視線を向けて来る。
何かあったと察した朱理は静かに屋城へ歩み寄った。
「どうかしましたか」
「……篁が来ていると……」
朱理は嗚呼、と小さく呟いた。筋を通すあの男の事だ、詫びでも入れに来たに違いない。
屋城は苦渋を孕んだ声音で朱理に囁いた。
「……お願いです……側に居て下さい。でないと……私は奴に何をするか分からない……」
「勿論、行きます」
そうして、屋城と朱理は会場を後にして別室へ移った。
────────────────
座敷へ通された篁は案の定、屋城へ静かな口調で詫びを述べた。
そもそも、この様な事で会長ともあろう者が足を運ぶなど、有り得ない話である。にも関わらず篁が顔を出したのは、やはり朱理の旧友が被害者である為だった。
「幾ら言葉を尽くした所で、其方の気が収まるとは思っていない。何か要望があれば、出来る限りの事はすると約束しよう」
屋城は篁を睨み据え、唇を噛み締めて黙っている。膝の上に置かれた拳は関節が白くなるほど握りしめられ、細かく震えているのが分かった。
朱理は屋城の様子に気を配りつつ、静かに隣へ座っていた。
暫しの沈黙の後、絞り出す様に屋城が答える。
「……あの客は、今どこに?」
「私が預かっている」
「……それを私に頂けませんか。見世とは無関係の、私個人のお願いです」
「屋城さん、それは……」
「分かっています。でも……どうしても許す事は出来ない。あの子の為だなんて言い訳はしません。全ては自分の為なんです」
「…………」
朱理はそのきっぱりとした口調に、返す言葉を失った。
屋城の言っている意味は、篁は勿論、朱理も理解している。正道を逸れて欲しくはないが、止める事など出来ないという事も解っていた。
篁も暫し押し黙っていたが、小さく息を吐いて目を伏せた。
「それだけの覚悟があるのなら、此方は構わない。好きにすると良い」
「……有難う御座います」
「他に何かあるか」
「いいえ、何も。二度と同じ事が起きない様、目を配って下されば結構です」
「分かった。落ち着いたら此処へ連絡してくれ。では、失礼する」
篁は名刺を畳へ置くと、振り返る事なく座敷を出て行った。
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