万華の咲く郷

四葩

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第六章

第七十六夜 【美しき名】

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 しばらくそうして抱き合ったまま泣いていた朱理しゅり黒蔓くろづるは、ようやく再び心を通わせられた実感にしゃくり上げながら身体を離し、見つめ合った。
 二人とも着物は皺だらけで着崩れ、顔は涙やら何やらで酷い有様だ。

「……っハハ……なんかもう……いろいろ、ぐしゃぐしゃだね……。ごめん……着物、汚しちゃった……」
「お互い様だ……。俺より、お前の方が大惨事だろ……」

 未だ微かに震える左手は繋いだまま、黒蔓の差し出す薄紙うすがみで顔をぬぐう。

「黒蔓さん……俺、やっぱり貴方の事が大好きだよ……。どうしたって、忘れられやしなかった……」
「……俺はお前を傷付けてばかりで、情けねぇな」
「俺だって同じさ……。自棄やけになって、取り返しのつかない事を……」
「良い、何も言うな。お前を其処そこまで追い詰めたのは全部、俺の所為だ。お前は何も悪くない」
「ッ……ああ、もう……。辞めてよ、せっかく泣きやめたのに……」

 再び熱くなる目頭を押さえていると、黒蔓は優しく朱理の左手の中指に触れて呟いた。

「指輪、外さずにいてくれたんだな。おかげで救われた」
「……何度も、外そうと思ったんだ。でも、どうしても出来なかった。貴方を救えてたのなら、外さなくて良かったよ」

 泣き笑いの顔でそう言う朱理が愛しくて、黒蔓はまた胸が締め付けられる。

「貴方に逢えて本当に嬉しい……。安っぽい言葉だけど、貴方と居られて本当に幸せだよ。俺には黒蔓さんしか居ないんだ」
「俺もだ。こんな気持ちにさせられるのは、お前以外に有り得ない」
「愛してる、黒蔓さん」
「……その……呼び方なんだけどな……」
「え?」
「……苗字……もう辞めろ」

 朱理は一瞬、黒蔓が何を言っているのか分からずにきょとんとし、徐々に理解すると顔から火が出そうな程に赤らんだ。
 もう何年もそう呼んで来た物を今更、と思うが、何故こんなにも気恥ずかしいのか分からない。
 実際、蘆名あしな網代あじろの事は、あっさり下の名で呼んでいるではないか。
 これほど動揺するのは、やはり相手が黒蔓だからなのだろう。
 何度もその名を呼ぼうとするが、なかなか声が出てこない。
 目を泳がせ、言葉に詰まる姿を見兼ねた黒蔓が、朱理の頬を両手で包み、真っ直ぐ視線を合わせて言った。

志紀しき、だ」
「……ッ……し、っ……うぅ……」
「なんで言えねぇんだよ。たった二文字だぞ。ほら、復唱しろ。志、紀」
「っ……し……き、さん……」
「やれやれ……どうしてそうなる。他の奴らには、名前呼びの大安売りなくせに」
「う、五月蝿うるさいな! 貴方の名前は安く無いんだよッ!」
「──……」

 その台詞に虚をつかれた黒蔓は隻眼を見開き、さっきの朱理と同じ様に耳まで赤くなる。

「と、とにかく! 恥ずかしいもんは恥ずかしいの! 今までずっと黒蔓さんだったんだし、急にそんな事言われても……困る……」

 語尾を小さくしながらうつむく朱理を見て、黒蔓も畳へ視線を落として呟いた。

「……俺を下の名で呼ばせた奴は、今も昔も、一人も居なかった。だから、それをお前にやりたいと思ったんだよ」

 嗚呼、もう、この人はどこまで可愛いのだろう、と朱理は切なく、同時にこれ以上無い程の喜悦を覚えた。

「…………志紀」
「……っ」
「……志紀さん」

 繋いだ左手が強く握りしめられ、黒蔓も歓喜しているのだと分かった。

──たかが名前と人は言うだろう。
 されど名前と言ってやりたい。
 口に出して気付いたのは、その名前がとても美しいという事だった。
 心から愛する人の名を呼べる幸せを知らぬ者は、不幸だ。
 昼の星の様に、目に見えなくとも、幸せなど其処そこ彼処かしこに散らばっている。
 あまりに身近で小さなものだが、それに気付けた時、ようやく、本当の幸福が訪れるのだ──

 静かに手を繋いで過ごすこの時が、今の二人にとって至上の幸福だった。しかし、現実はそれを許してくれない。
 朱理はきゅっと繋いだ手を握り、黒蔓の髪へ指を差し込みながら微笑んだ。

「今夜は2時までに上がる、絶対に。だから、貴方の部屋で待っていて」
「……しかし、たかむらが離してくれないだろ」
「こんな有様で行きゃあ、流石に無理強いは出来ないでしょ。体調悪いって言うし。あれで篁さんは結構、優しい人なんだ」
「……分かった」
「必ずだよ。じゃ、また後でね」
「…………」

 咄嗟に黒蔓は身体が硬直し、言葉に詰まった。それはあの日、自分が言った言葉そのものだったからだ。

〝また後で──〟

 あれから自分達は、今の今まで擦れ違いを繰り返したのだ。
 座敷を出ようとしていた朱理は硬まる黒蔓に気付き、そばに戻って屈み込む。

「大丈夫だよ、もう離れたりしない。また後では、さよならと同義じゃないんだ。愛してるよ、志紀さん」
「……ああ、そうだな。愛してる、朱理」
「うん。じゃあ、行ってくるね」

 そうして朱理はおざなりに着衣を直し、篁の待つ座敷へ戻った。
 鼻をすすりながらふすまの向こうに声を掛ける。

「お待たせ致しました」

 朱理の声にさっと襖を開いた妹尾せおは、その出で立ちにぎょっとして固まった。篁も同じく、盃を口元へ運んだ姿勢のまま硬直している。
 そんな二人を無視し、薄紙で顔を拭いつつ篁の隣へ座ると、やおら妹尾は慌てて退室していった。
 二人きりになった座敷には、朱理の鼻を啜る音だけが響いていたが、軈ておずおずと篁が覗き込んでくる。

「……大丈夫か? 一体、何があったんだ」
「お待たせした上に、こんなナリで申し訳無い。急いで戻らなきゃと思って、着替える時間が惜しくてね」
「それは構わないが……お前、泣いていたのか? さっきの来客と揉め事か?」
「いや、違うよ。ちょっと体調悪くなっちゃって……。たまにあるんだよ、原因不明の吐き気。寝不足かなんかだと思うけど」
「それは心配だな。無理はしなくて良いぞ」
「うん……。こんな状況で言いにくいんだけど、今夜は2時までにしてもらっても良いかな? 一緒に居たいけど、流石に身体がつらくって……」
「ああ、勿論だ。そんなにやつれたお前は見るに耐えん。心配で抱くどころじゃない」

 朱理は篁へ向かって深々と頭を下げた。

「こんな我儘を聞いて頂いて、本当に有難う御座います」

 篁は優しく朱理の肩に手を置き、微笑んだ。低い穏やかな声音で囁く。

「そんな他人行儀な事を言わずに、顔を上げてくれ。俺はそんな事、少しも気にしていない。退っ引きならん事情もあるだろうし、悩む事も大いにあるだろう。俺は、俺の知らないお前の問題に口を挟む気は無い」
「……有難う、篁さん」

 優しくたくましい胸に抱かれながら、わずかな罪悪感に胸が痛む。
 初めはどうせ極道だと、気を許すつもりは無かった。しかし、篁は想像とはまるで違い、むしろ紳士的で大人な振る舞いの出来る懐の深い人間だと、会うたびに知った。
 それでも今は、漸く再び繋ぐ事が出来たあの手に触れていたい。仕事など、本当は今すぐ放り出して傍に居たい。夜が明けるまで、抱きしめていたい。
 どれだけ良い人でも、どれだけ裕福でも、どれだけ頭が良くても、あの人に代わる存在など居はしないのだ。
 大人になると言うのは面倒だな、と篁の体温を感じながら思った。
 互いに仕事があり、責任があり、立場がある。想うに任せて全て放棄しても、ひと時ののちにはその代償が降りかかってくるのだ。
 共に歩み続けるには耐えねばならぬ物事が、歳を重ねるにつれ増えていく気がした。
 篁に対して申し訳無い気持ちはありつつも、早く時が過ぎれば良いと思わずに居られないのだった。
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