万華の咲く郷

四葩

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第六章

第七十五夜 【あわせ鏡】

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 しばら朱理しゅりの腹に抱き着いて居た瑠理るりは、やおら身体を起こして笑った。

「あんがとな、朱理。だいぶ元気出たわ」
「おう、落ち着いたなら良かった」

 そう言って笑う顔はいつも通りな様でいて、何処か覇気が無く、余程、切羽詰まっていたのだろうな、と朱理は思った。
 だが残念な事に、今は詳しく聞いてやる時間が無い。

「近々、お前の見世に行くよ。その時にでもゆっくり話そう」
「おー、楽しみに待ってるぜ。最後にいつものアレ、してくれよ」
「はいはい」

 朱理は苦笑しつつ、瑠理の頬に手を添えて唇を重ねた。ついばむ様に触れ合わせるだけのそれに、深い意味は無い。
 他者との肉体的な接触に抵抗の薄い二人にとって、昔から恒例の挨拶の様な物だった。故に、それ以上の関係になる事も、絶対に無いのだ。
 朱理たちが微笑わらいながらじゃれていた、その時、勢いよく座敷のふすまが開かれた。

「あ……」
「げぇッ……!」

 固まる二人を、静かな微笑を浮かべて見下ろしているのは、『桐屋きりや』の遣手である屋城やしろだ。その後ろには、腕を組んで咥え煙草の黒蔓くろづるが立っていた。
 凄まじい絵面だな、と思う朱理の隣で、瑠理の顔がみるみる青ざめていく。

「瑠理ィ……お前、いい加減にしろよ? 客ほったらかして飛び出してったかと思えば、他所よその見世で乳繰ちちくり合ってるってのは、一体どう言う了見だ? えぇ?」
「……ッ、なんで此処ここが……」
「俺が呼んだからに決まってんだろ」
「くそ……鬼蔓め……」
「や、屋城さん……お久し振りですー……」

 恐る恐る朱理が挨拶すると、屋城はふところからハンカチを取り出しながら近付いてきた。

「お久し振りです、朱理さん。うちのがいつもご迷惑おかけして、すみませんねぇ」

 そう言いながら朱理の口元をせっせと拭く。

「こんなの相手にしなくて良いと言っているのに、本当にお優しい方だ。いい加減に見限って、私にしておきませんか?」
「おまっ……自分の見世の商品にこんなのって何だ! つーか、なにナチュラルに口説いてんだよ!」
「ったく、どうしてお前はそう五月蝿うるさくって下品なんだ? 腐っても朱理さんのご同級なら、この溢れ出る気品を見習え」
「それとこれとは別だろ! そいつは特別なんだよ!」
「まあ、特別なのは認めるがね。ふむ……相変わらず、いつ見ても魅力的な方だ」
「……や、屋城さん……近いですぅ……」

 妖しく微笑みながら顔を寄せ、頬を撫でてくる屋城に冷や汗が出る朱理。
 この男は黒蔓とは別の意味で、底冷えする恐怖を与える人物だ。朱理はひっそり屋城の事を〝わらう鬼〟と称している。
 ともすれば、いつも貼り付けている微笑のまま、あっさり人を殺せるのでは無いかと思わせる酷薄を感じるのだ。

「さて、これ以上、お仕事の邪魔をする訳には行きませんし、瑠理これを回収しておいとましますね。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません、黒蔓さん」
「ええ、全くです。首輪G P Sが必要なら、ひとつお分けしますが」
「おや、それは良いですねぇ。今度詳しくお聞かせ下さい。では、失礼します」
「くそッ……引っ張んな! 離せ! てめぇで帰るっつーの!」
やかましいぞ、瑠理。それ以上わめいたら、しばらく声が出せなくなると思え」
「──……っ」

 冷ややかな屋城の目と声音に、瑠理は途端に押し黙ってずるずると引き摺られていった。
 瑠理の身を案じつつ見送ると、朱理は座敷へ座り込んだまま深く嘆息した。
 其処そこではた、と気付く。今、自分は黒蔓と二人きりだ。
 身体がすくみ、襖近くに立つその足元から目線が上げられない。
 何か言わねばと思うと喉がからからになり、舌がもつれる。
 黙っていてはその内、黒蔓は出て行ってしまうだろう。

──厭だ。
 このまま行かせたくない。
 このまま別れたくない。
 こんな機会は、またと無いかもしれない──

 何か、何か、と思っていると、自分の手が震えている事に気付いた。
 なんて不甲斐ない、と内心、自嘲する。
 いい歳をして、学生の様に緊張するなど馬鹿らしい、今更だろう。何か言うなら言う、言わないならさっさと客の元へ戻るべきだ。
 そう思いながらも焦り、戸惑い、心臓が破裂しそうな程に脈打つ。
 時間が無い。もう、何でも良いから、何かひと声だけでも掛けられれば良い。
 挫けそうな心を無理矢理に奮い立たせ、朱理は俯いたまま声を振り絞った。

「黒蔓さん……」
「朱理……」

 それは、ほぼ同時だった。
 互いに上擦った声で名を呼び合ったのだ。
 反射的に黒蔓を見上げると、総道中の時とまるで同じ顔をしていた。それからは最早、思考する余裕など無かった。
 飛び付く様に抱き合い、何日ぶりかも分からぬ互いの体温と匂いに、涙があふれる。
 衣装が乱れるのも構わずいだき、抱き返される喜びに胸が締め付けられる。
 黒蔓さん、と譫言うわごとの様に繰り返し名を呼ぶ声は、自分の物とは思えない程に弱々しく、朱理、と呼び返される声も同じだった。
 その声で、あの日、部屋に来たのは夢では無かったのだと分かる。全く同じ、儚く、心許こころもとない声音だ。
 涙でぐしゃぐしゃになりながら口付け合うと、黒蔓の左目からも自分と同じ物が溢れ出ているのが見えた。
 こんなにも同じ気持ちだったなら、もっと早く寄り添えただろうに。そう思う反面、同じだったからこそ怖かったのだと気付く。
 互いを深く想いながら、同時に酷く不安だったのだ。
 どれだけ愛し合っても、いくら愛を囁いても、酸鼻極まる現実に引き裂かれた。想えば想う程、醜悪な霧に呑まれてしまいそうな、厭な予感が拭えなかった。
 互いが思うより余程、互いに臆病だったのだ。
 どんなに絶望的な状況だろうと、そばに居られるだけで幸福だと言う事を、何故、今まで忘れていたのだろう。
 歓喜の涙が溢れて止まらない。愛おしくて堪らない。
 共に過ごそうと手を取り合う日々が戻ってきたのだと、言葉にならない喜びに心が満たされる。

「……っ、黒蔓……さ……ッ」
「朱理……っ……」

 愛してる、と繰り返し言い合う。
 つかえるつたない声すら愛しくて。むせび泣き、打ち震え、たどたどしく唇を合わせる。
 名を呼んで、愛を伝えて、どちらの物かも分からぬ涙に濡れる。
 その何もかもが幸せで、それ以外の全てがどうでも良くて。世界は二人だけで回っている様な気にさえなった。
 やはりどれだけ離れていようと、何がどうなろうと、愛してやまないのはただ一人なのだと思い知った。
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