79 / 116
第六章
第七十五夜 【あわせ鏡】
しおりを挟む暫く朱理の腹に抱き着いて居た瑠理は、やおら身体を起こして笑った。
「あんがとな、朱理。だいぶ元気出たわ」
「おう、落ち着いたなら良かった」
そう言って笑う顔はいつも通りな様でいて、何処か覇気が無く、余程、切羽詰まっていたのだろうな、と朱理は思った。
だが残念な事に、今は詳しく聞いてやる時間が無い。
「近々、お前の見世に行くよ。その時にでもゆっくり話そう」
「おー、楽しみに待ってるぜ。最後にいつものアレ、してくれよ」
「はいはい」
朱理は苦笑しつつ、瑠理の頬に手を添えて唇を重ねた。啄ばむ様に触れ合わせるだけのそれに、深い意味は無い。
他者との肉体的な接触に抵抗の薄い二人にとって、昔から恒例の挨拶の様な物だった。故に、それ以上の関係になる事も、絶対に無いのだ。
朱理たちが微笑いながら戯れていた、その時、勢いよく座敷の襖が開かれた。
「あ……」
「げぇッ……!」
固まる二人を、静かな微笑を浮かべて見下ろしているのは、『桐屋』の遣手である屋城だ。その後ろには、腕を組んで咥え煙草の黒蔓が立っていた。
凄まじい絵面だな、と思う朱理の隣で、瑠理の顔がみるみる青ざめていく。
「瑠理ィ……お前、いい加減にしろよ? 客ほったらかして飛び出してったかと思えば、他所の見世で乳繰り合ってるってのは、一体どう言う了見だ? えぇ?」
「……ッ、なんで此処が……」
「俺が呼んだからに決まってんだろ」
「くそ……鬼蔓め……」
「や、屋城さん……お久し振りですー……」
恐る恐る朱理が挨拶すると、屋城は懐からハンカチを取り出しながら近付いてきた。
「お久し振りです、朱理さん。うちのがいつもご迷惑おかけして、すみませんねぇ」
そう言いながら朱理の口元をせっせと拭く。
「こんなの相手にしなくて良いと言っているのに、本当にお優しい方だ。いい加減に見限って、私にしておきませんか?」
「おまっ……自分の見世の商品にこんなのって何だ! つーか、なにナチュラルに口説いてんだよ!」
「ったく、どうしてお前はそう五月蝿くって下品なんだ? 腐っても朱理さんのご同級なら、この溢れ出る気品を見習え」
「それとこれとは別だろ! そいつは特別なんだよ!」
「まあ、特別なのは認めるがね。ふむ……相変わらず、いつ見ても魅力的な方だ」
「……や、屋城さん……近いですぅ……」
妖しく微笑みながら顔を寄せ、頬を撫でてくる屋城に冷や汗が出る朱理。
この男は黒蔓とは別の意味で、底冷えする恐怖を与える人物だ。朱理はひっそり屋城の事を〝嗤う鬼〟と称している。
ともすれば、いつも貼り付けている微笑のまま、あっさり人を殺せるのでは無いかと思わせる酷薄を感じるのだ。
「さて、これ以上、お仕事の邪魔をする訳には行きませんし、瑠理を回収してお暇しますね。ご迷惑をお掛けして申し訳ありません、黒蔓さん」
「ええ、全くです。首輪が必要なら、ひとつお分けしますが」
「おや、それは良いですねぇ。今度詳しくお聞かせ下さい。では、失礼します」
「くそッ……引っ張んな! 離せ! てめぇで帰るっつーの!」
「喧しいぞ、瑠理。それ以上喚いたら、暫く声が出せなくなると思え」
「──……っ」
冷ややかな屋城の目と声音に、瑠理は途端に押し黙ってずるずると引き摺られていった。
瑠理の身を案じつつ見送ると、朱理は座敷へ座り込んだまま深く嘆息した。
其処ではた、と気付く。今、自分は黒蔓と二人きりだ。
身体が竦み、襖近くに立つその足元から目線が上げられない。
何か言わねばと思うと喉がからからになり、舌が縺れる。
黙っていてはその内、黒蔓は出て行ってしまうだろう。
──厭だ。
このまま行かせたくない。
このまま別れたくない。
こんな機会は、またと無いかもしれない──
何か、何か、と思っていると、自分の手が震えている事に気付いた。
なんて不甲斐ない、と内心、自嘲する。
いい歳をして、学生の様に緊張するなど馬鹿らしい、今更だろう。何か言うなら言う、言わないならさっさと客の元へ戻るべきだ。
そう思いながらも焦り、戸惑い、心臓が破裂しそうな程に脈打つ。
時間が無い。もう、何でも良いから、何かひと声だけでも掛けられれば良い。
挫けそうな心を無理矢理に奮い立たせ、朱理は俯いたまま声を振り絞った。
「黒蔓さん……」
「朱理……」
それは、ほぼ同時だった。
互いに上擦った声で名を呼び合ったのだ。
反射的に黒蔓を見上げると、総道中の時とまるで同じ顔をしていた。それからは最早、思考する余裕など無かった。
飛び付く様に抱き合い、何日ぶりかも分からぬ互いの体温と匂いに、涙が溢れる。
衣装が乱れるのも構わず掻き抱き、抱き返される喜びに胸が締め付けられる。
黒蔓さん、と譫言の様に繰り返し名を呼ぶ声は、自分の物とは思えない程に弱々しく、朱理、と呼び返される声も同じだった。
その声で、あの日、部屋に来たのは夢では無かったのだと分かる。全く同じ、儚く、心許ない声音だ。
涙でぐしゃぐしゃになりながら口付け合うと、黒蔓の左目からも自分と同じ物が溢れ出ているのが見えた。
こんなにも同じ気持ちだったなら、もっと早く寄り添えただろうに。そう思う反面、同じだったからこそ怖かったのだと気付く。
互いを深く想いながら、同時に酷く不安だったのだ。
どれだけ愛し合っても、いくら愛を囁いても、酸鼻極まる現実に引き裂かれた。想えば想う程、醜悪な霧に呑まれてしまいそうな、厭な予感が拭えなかった。
互いが思うより余程、互いに臆病だったのだ。
どんなに絶望的な状況だろうと、傍に居られるだけで幸福だと言う事を、何故、今まで忘れていたのだろう。
歓喜の涙が溢れて止まらない。愛おしくて堪らない。
共に過ごそうと手を取り合う日々が戻ってきたのだと、言葉にならない喜びに心が満たされる。
「……っ、黒蔓……さ……ッ」
「朱理……っ……」
愛してる、と繰り返し言い合う。
閊える拙い声すら愛しくて。噎び泣き、打ち震え、たどたどしく唇を合わせる。
名を呼んで、愛を伝えて、どちらの物かも分からぬ涙に濡れる。
その何もかもが幸せで、それ以外の全てがどうでも良くて。世界は二人だけで回っている様な気にさえなった。
やはりどれだけ離れていようと、何がどうなろうと、愛してやまないのはただ一人なのだと思い知った。
30
お気に入りに追加
138
あなたにおすすめの小説
Take On Me
マン太
BL
親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。
初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。
岳とも次第に打ち解ける様になり…。
軽いノリのお話しを目指しています。
※BLに分類していますが軽めです。
※他サイトへも掲載しています。
有能社長秘書のマンションでテレワークすることになった平社員の俺
高菜あやめ
BL
【マイペース美形社長秘書×平凡新人営業マン】会社の方針で社員全員リモートワークを義務付けられたが、中途入社二年目の営業・野宮は困っていた。なぜならアパートのインターネットは遅すぎて仕事にならないから。なんとか出社を許可して欲しいと上司に直談判したら、社長の呼び出しをくらってしまい、なりゆきで社長秘書・入江のマンションに居候することに。少し冷たそうでマイペースな入江と、ちょっとビビりな野宮はうまく同居できるだろうか? のんびりほのぼのテレワークしてるリーマンのラブコメディです
次男は愛される
那野ユーリ
BL
ゴージャス美形の長男×自称平凡な次男
佐奈が小学三年の時に父親の再婚で出来た二人の兄弟。美しすぎる兄弟に挟まれながらも、佐奈は家族に愛され育つ。そんな佐奈が禁断の恋に悩む。
素敵すぎる表紙は〝fum☆様〟から頂きました♡
無断転載は厳禁です。
【タイトル横の※印は性描写が入ります。18歳未満の方の閲覧はご遠慮下さい。】
12月末にこちらの作品は非公開といたします。ご了承くださいませ。
近況ボードをご覧下さい。
年上の恋人は優しい上司
木野葉ゆる
BL
小さな賃貸専門の不動産屋さんに勤める俺の恋人は、年上で優しい上司。
仕事のこととか、日常のこととか、デートのこととか、日記代わりに綴るSS連作。
基本は受け視点(一人称)です。
一日一花BL企画 参加作品も含まれています。
表紙は松下リサ様(@risa_m1012)に描いて頂きました!!ありがとうございます!!!!
完結済みにいたしました。
6月13日、同人誌を発売しました。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。
one night
雲乃みい
BL
失恋したばかりの千裕はある夜、バーで爽やかな青年実業家の智紀と出会う。
お互い失恋したばかりということを知り、ふたりで飲むことになるが。
ーー傷の舐め合いでもする?
爽やかSでバイな社会人がノンケ大学生を誘惑?
一夜だけのはずだった、なのにーーー。
幸せの温度
本郷アキ
BL
※ラブ度高めです。直接的な表現もありますので、苦手な方はご注意ください。
まだ産まれたばかりの葉月を置いて、両親は天国の門を叩いた。
俺がしっかりしなきゃ──そう思っていた兄、睦月《むつき》17歳の前に表れたのは、両親の親友だという浅黄陽《あさぎよう》33歳。
陽は本当の家族のように接してくれるけれど、血の繋がりのない偽物の家族は終わりにしなければならない、だってずっと家族じゃいられないでしょ? そんなのただの言い訳。
俺にあんまり触らないで。
俺の気持ちに気付かないで。
……陽の手で触れられるとおかしくなってしまうから。
俺のこと好きでもないのに、どうしてあんなことをしたの? 少しずつ育っていった恋心は、告白前に失恋決定。
家事に育児に翻弄されながら、少しずつ家族の形が出来上がっていく。
そんな中、睦月をストーキングする男が現れて──!?
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる