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第六章
第七十七夜 【今日迄の憂鬱】※
しおりを挟む午前2時半過ぎ。黒蔓の部屋の入り口から、点々と道標の様に脱ぎ捨てられた着物や帯が、寝具へと続いていた。
その先では月明かりに照らされたふたつの影が、忙しなく蠢いている。
「……っ、ん……朱理……待て、って……」
「厭だ、待たない。今日は俺からするの」
「ふ、ッ……ン……はっ、ァ……ぅ……ッ」
どれだけ焦がれたか知れない。どれだけ待ち望んだか知れない。
押し殺された吐息も、皆の知らない欲情した表情も、易々と触れる事を赦さない身体も、全てが愛おしくて堪らない。
そして、それら全てが自分の物だという現実が、総毛立つ程の悦びとなる。
白く華奢な項が漆黒の髪の隙間から覗き、其処へ舌を這わせながら吸い上げた。
「ッ、ァ……っ!」
「ん……興奮した?」
「はァ……っ、まぁな……珍しい事、するから……」
「つい嬉しくて。大丈夫、髪に隠れて見えないよ」
「……別に……見えても良い……」
「……っ」
思い掛けない黒蔓の言葉に、ぞくりと扇情されるのを感じた。
口付け、舌を絡ませ合いながら後孔を慣らしていく。もう滅多な事では人に触れさせない其処は清廉で、固く閉ざされている。
丁寧に解していると時折、堪えきれない様な吐息が零れ、やっぱりこの人は綺麗だな、と思った。
「挿れるよ……ゆっくりするから、力抜いてね……」
「……っふ、ぅ……ぁ、く……んんッ、は、っ……!」
「大丈夫?」
「……っ、ン、平気……だ……ッ」
反応を見ながら緩々と押し進めると、黒蔓の白い喉が仰け反って、腕に爪が立てられた。
下手である以上、仕事で朱理が男になる事は、ほぼ有り得ない。
数ヶ月振りの感覚に、目眩がする程の快楽がせり上がって来る。
こんな事をするのは黒蔓とだけだ。
それは元下手太夫の黒蔓も同様で、二人の床事情は少し複雑である。
褥に入ってしまえば何方も上になり、下にもなる。必ずしも何方かが男役であると、定義付けていないからだ。
初めて関係を持った時は突き出しと言う事もあり、主導権は黒蔓にあった。しかしその後、再び身体を重ねた時にはどうするか等と話す事も無く、自然と愛し合っていた。
だからこそ、この二人でしか味わえない快楽と幸福があるのだ。平等で、対等で、同じ愛情を持って合わせる肌が、心地良くない筈がない。
稀に何方から先にするかと揉める事もあるが戯れ合いに過ぎず、始まってしまえばどうでも良くなってしまう。
「……ッん! ハッ……はぁっ……なんか、巧くなってないか……?」
「はァ……離れてる間、お勉強させて貰ったからね……」
「ッ、最低だな、お前……ッ、ン……ぅァッ」
「ずっと貴方の事を考えてた……。もしまたこの手に抱けた時に、覚えた事の全部で気持ち快くしたいって」
「……っ、そんな言い訳……狡いだろ……」
「ふふ……狡いかも。でもホントだよ。誰に抱かれようと、俺が想ってたのは貴方だけだ……志紀さん……」
「…………ッ」
瞬間、締め付けられる感覚に、黒蔓が欲情したのだと知る。
身体を繋ぎながら初めて呼ぶその名前に、朱理もこれまでに無い充足感を得ていた。
「……ッハ、ハァ……志紀さん……っ」
「んっ、ん、ンァっ! はッ……しゅ、り……ッ!」
「好き……大好き……何があっても愛してる……」
「ぅあッ! ァ、っ……んんッ! ぉ……れも……愛してる、ッ……ハッ、ン……ん……!」
──漸くだ。
必死に忘れようとした。
見ないように、考えないように、思い出さないように。
心を欺き、歪め、爛れた関係に溺れたふりをしていた。
それも漸く、終いだ──
気付けば、あれほど自分の中にぽっかり空いていた虚は感じなくなっていた。
嗚呼、やっぱり愛は此処にあったのだ、と思う。神でも仏でもなく、限りない愛で空虚を埋めてくれるのはこの人だけだ、と。
指を絡め、数え切れない愛の言葉と口付けを交わしながら、二人は繰り返し心と身体を満たし合った。
────────────────
「良い名前だよ……本当に……」
「なんだ、突然。知らなかったワケでもないくせに」
「そうなんだけど、なんかさ……今だから余計にそう思うのかも。離れたくはないけど、離れて気付く事も、やっぱり沢山あるなと思ってさ」
「……まぁな。近過ぎて見えない事があるのと同じだ」
「運命、とか言うのかもね。こうして俺たちが出逢った事も、また二人で居る事も」
「やれやれ、まさか自分の人生でそんなチープな台詞を聞くことになるとはな。……でも、嫌いじゃない」
「ホントにね。愛も運命も莫迦莫迦しいと思ってた筈なのに、貴方が全部変えてしまったよ」
「俺もだ。つまるところ、それが運命ってやつなんだろ」
「ははっ、そうみたいだ」
二人分の汗で湿ったシーツに指を這わせながら、朱理はぼんやり考える。
──きっとこの先、困難は幾つも自分達の前に立ちはだかるのだろう。
独りでは片付けられない厄介事も、沢山あるだろう。
それでもこの人が居てくれるなら、果て無き暗晦も、身を裂く哀情も、きっと全て乗り越えられる。
共に迷い、哀しみも悦びも分け合える事が、嬉しくて堪らないから──
今までも、これからも、二人は寄り添って生きる為に、他人も自分も傷付け続けるのかもしれない。
しかし、それが未来への道だと言うならば、幾らでも見て見ぬふりを貫いてやろうと思った。
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